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自転車の旅日記 ―故郷へ―

 自転車で大分まで帰ることを決意した。6月22日に新宿ニュー丸井でブリジストン・ロードマン5型(セーフティーレバー、荷台付)を50,300円で購入契約、7月1日に受け取った。東海道は通りたくないので、甲州街道から中山道を通って京都の姉の所まで行き、それから山陰道を通り、途中から徳山に抜け、フェリーで竹田津に渡り、高田経由で帰郷する計画である。観光は予定にない。
 
 昭和51年7月12日(月)一日目
8時に小雨の降る中を大喜荘出発、新青梅街道を東大和市まで行き、それより南下して立川市で国道20号線に入る。高尾山口よりだらだらの上りが続く。小仏峠頂上付近は急坂の為、自転車を降りて押す。下りになると視界が開け、左下に相模湖を望む。絶景也。笹子峠をトンネルで抜けると、広大な甲府盆地が眼前に現れた。
 俊江が愛した甲府の町が今ここにある。彼女がよく行ったと言う甘味家は何処だろうと考えると、物悲しい気持ちになった。今日は塩尻まで行くつもりでいたが、諏訪に着く頃より暗くなったので、塩尻峠の手前のバスの待合室で泊まることにした。ソファーがあり、入り口にはガラス戸まで付いていた。寝支度を終え横になっていたら、誰かが覗きに来た。事態を察したのか何も言わずに去っていった。 ―203㎞―
 
 7月13日(火)二日目
5時出発時は雨はあがっていたが、時折小雨がぱらつく一日であった。20号線から19号線に入る。広い通りだが早朝の為車は少ない。鳥居峠を越え、木曽福島を過ぎ、中津川へと木曽川に沿って下る。恵那、瑞浪と過ぎ、土岐より21号線に入るが、坂が急で押して上る。下りになってしばらく行くと、左に日本ラインの素晴らしい眺めが続く。すぐに岐阜に入り、大垣に着く頃日が落ちた。このまま京都まで行くか、この辺で一泊するか迷った。まだ関ヶ原越えがあることを考えると、一泊もやむなしと思った。ところが関ヶ原は、今まで越してきた峠からすると丘程しかなかった。
 この時点で、今日は京都まで行き、布団の上で寝ようと決心した。米原より8号線へ入った時、もう直ぐだと思った。ところがこれからが遠かった。近江大橋へ続く道にやっとの思いで着いたら、そこから橋まで11㎞と出ていた。なんとその長かったことか。手足はしびれ、頭はフラフラし、土の上に寝そべると天地がグルグル回った。橋を渡り、姉の家に着いたのは丁度0時であった。 ―283㎞―
 
 7月14日(水)三日目
二日間雨の中を短パンで長時間走った為、膝が炎症を起こし、少し水が溜まり気味である。鍼と灸で治療し、姉の家で一日休養した。

 7月15日(木)四日目 ―晴れ―
9時に出発。当初の計画は、京都市街を通り、9号線で鳥取に向かう山間コースだったが、膝のことを考え計画を変更した。琵琶湖の西岸を北上し、近江今津より小浜へ向かい、日本海に出た。このコース変更で、非常な苦労を強いられることになった。海岸線を通れば道路が平坦だろうと考えたのが間違いであった。山陰の海岸道路は、地図上は真っ直ぐでも、実際は山を迂回して曲がりくねり、しかもアップダウンの連続であった。さらに道を間違えたりで、時間と体力を消耗した。鳥取まで行くつもりが香住町の手前で野宿することになった。初めお墓の下で寝ていたが、気になって眠れないので、倉庫の軒下に移動したが、蚊の為ほとんど眠れなかった。 ―180㎞―
 
 7月16日(金)五日目 ―晴れ―
4時半出発、昨日の遅れを取り戻そうと必死でこいだ。11時過ぎに鳥取県に入った。いたる所に松葉ガニの直売所があった。海は緑色に澄み渡り、これが日本海なのだなと思った。道は平になり、追い風にも助けられて9号線を快調に疾走した。湖山池辺りの自販機で蕎麦を食べたのはいいが、方向が解らなくなった。湖山池を日本海と間違えた為だ。夕方5時頃、米子付近の砂浜で夕食を済ませ、宿に決めて横になったが、蚊の為にどうしても眠れなかった。仕方なく床を上げ、夜通し走ることにした。しかし疲労と睡魔に勝てず、1時間程走った時点で、道路脇の工場の事務室に忍び込み寝ようとしたが、ここも蚊に追い出された。いよいよ覚悟を決め夜通し走ることになった。浜田辺りまで来たところで、道路脇の岩陰に自転車を止め横になる。夜が明ければ蚊もいなくなる。5時であった。―248㎞―
 
 7月17日(土)六日目
非常な暑さに目を覚ますと、太陽は頭の上にあった。時計を見ると10時であった。再び走り出す。遅くとも夜11時までには徳山に着かねばならない。昨夜頑張ったので先が見えてきた。この分だとひとつ前の便に間に合うかもしれない。日本海に別れを告げる益田には正午頃着いた。あと少しだ、と思った。ところが実は、これからがこの旅の最大の難所だったのである。
 高津川に沿ってだらだらと上りが続いた。痛めていた膝は無理がたたり再び悪化、少しの上りでも痛むようになっていた。どこまでも続く上りに、途中何度も土地の人に、いつ終わるのか尋ねた。そのうち坂は勾配を増し、自転車を降りて押すことになった。急坂はなかなか終わらず、何キロとなく自転車を押して、焼け付く陽射しの中を一歩一歩上った。しばらくして稲が万面に植わっている平らな所に出た。津和野である。
 GSで道を聞き、阿東町より国道315号線に入る。これからは下りで楽が出来ると思ったのだが、1㎞も行かないうちに未舗装の田舎道になった。そして遂には幅は2mあるなし、這って登るような山道、これでも国道なのだろうか。この頃には、両膝は歩いても痛むようになり、鍼と灸で痛みをごまかしながらの前進となった。しばらく行くと舗装道になり、暗くなる前に峠に出た。昨夜切らした電球のまま、暗がりを突っ走った。このままでは危険だと思い、途中土地の子供にスペアの球を分けてもらい、心までも明るくなる思いがした。下りを一気にとばし、11時前10分頃徳山のフェリー発着場に着いた。10時の便が出た後で、次は0時30分であった。ここで家に電話し祖父の病気を知った。 ―240㎞―
 
 7月18日(日)七日目
フェリーは定刻に出航し、2時40分に竹田津港に着いた。長かった旅もあと少しで終わる。途中猫石辺りでHi-Cトマトを2本飲み、夜が明けるまで休息した。空には黒い雲が広がっていた。家には5時半に着いた。祖父の様態が悪いのだろう、幸治や健ちゃん、智恵ちゃんも帰っているようだった。まだ皆寝てたので、起こさないよう軒下に合板を敷いて横になった。 ―33㎞―

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