見出し画像

流しソウメンをいかに取り損なうか

 流しソウメンはその構造上身長の高い者が圧倒的に有利である。一番上を陣取るものはその気になれば全てのソウメンを独占することができる。しかしあの場にいるものはそのようなことをしない。そのようなことをたくらむ輩がいれば流しソウメンは成り立たないことをその場のすべての人間が認知しているからである。
 つまり高身長のものは低身長のものにそうめんを譲るのが暗黙の了解になっている。しかし低身長のものにだってプライドはある。あからさまに譲られるとそれはそれで腹が立つ。ただ身長が低いというディスアドバンテージだけで人に哀れみをもたれるというのは屈辱的である。感謝をするということは決して無償ではなく一つ貸しがある状態になってしまうのだ。そうなるともはや対等な関係を築くことはできなくなる。むしろここで厚顔無恥に感謝もできないようではそれこそつまみ者であるだろう。
 さて高身長のものからすれば面倒くさいともいえるものの相手をいかにするか。それが題名にもある流しそうめんをいかに取り損なうかということになる。すなわちあからさまに譲ったのでは恩着せがましく写り、神経を逆なでしまう。だからといって取れるそうめんを全て取っているようでは流しそうめんの趣旨そのものが崩壊しかねない。ここで問われるのがいかにして流しそうめんを取り損なうのかということである。あるものは満腹のふりをし、またある者はどんくさいふりをする。そもそも高身長でいられるのもただ運がよかったからであり、それだけで威張られるのも腹が立つものだ。
 このようなことを弁えられるのが古来より言われる「粋」と呼ばれるものであり、上に立つ者の矜持であるのだろう。これはもちろん不文律であり、決して人に見せびらかすものではない。

 ここで仮定の話をしてみる。資本主義者を集めて流しそうめんを行ったらどうなるか。背の高いものは流れてくるそうめんを独占し、それを元手として背が低いものに売りつけるのである。その時対価として労働を強いる。例えば薬味をそろえさせたりめんつゆを取りに行かせるなどである。それに応じた背の低いものは一生背の高いものに頭が上がらないし、背の高いものがいなくなれば自分らはそうめんにありつけないと考えてしまう。一方で背の高いものに媚びなかった低身長のものは高身長のものが見逃して下流まで流れてきた茹で切れていないそうめんや伸びきってちりちりになったそうめんを躍起になって取り合う。その中でも気の利くものはどこからともなく高下駄を持ち出して高身長のものと同等にそうめんを取りに行ったり、もしくは不当にディーラーに取り入りそうめんを入手する輩まで現れ始めるであろう。
 さてそのような光景を見てこれは不平等かつ治安が悪い、その元凶は上流でそうめんを独占している高身長のせいだと言い始める殊勝な人間が出てくる。ディーラーはそうめんを流すのではなく、全員に平等にそうめんを分配するべきだと主張する。こうして青竹は悪しき資本主義の象徴として散々に崩され全員がテーブルについて同じ量だけそうめんにありつけるようになった。このように共産主義が始まるわけであるが、これではただの食事である。なんの遊び心もイベント性もあったものではない。挙句の果てにディーラーが独裁を始めてそうめんを蓄える始末である。
 流しそうめんを一度でもしたことのある人間ならばこの光景を見てさぞ滑稽であると思うだろう。それは流しそうめんを行う上でのマナーであったり手心というものを知っているからであり、それがまさに日本の伝統的な社会で連綿と養われてきた矜持であるのだろう。そしてこの不文律かつ曖昧な考え方は一朝一夕で身につくものではなく、何世代も生活を続けることで身につくものなのであろう。
 流しそうめんがなぜ成立しているのかが誰もわからなくなってしまった時が日本文化の本質が消滅する時であるのだなと感じる次第である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?