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秦の始皇帝はなぜ不老不死の薬を欲したのか。

はじめに

 秦の始皇帝といえば世間では独裁政治のもと徹底的な言論弾圧などの悪性をした君主というイメージが強いだろう。これはもちろん後世に意図的に形作られたイメージである。さて秦の始皇帝のエピソードとして不老不死の薬を求めたというものがある。これはしばしば彼の強欲さを象徴するエピソードとして語られるが、彼が不老不死の薬を求めることには他の論理があったのではないかと考えたため、紹介していこうと思う。
 なお本文は一個人の妄想であることを先に断っておきます。

本文

 秦は春秋戦国時代を通して中国全土を統一したが、春秋戦国時代には儒家をはじめた多くの思想家が出現した。始皇帝はその中で法家である李斯を登用した。法家は法の論理をもって国を支配しようという思想である。
 この法による中央集権支配というものを実現しようとしたときには、次に挙げる二つの要素が必須となる。一つ目は中央集権ができるだけの強制力である。広範囲で多様な人民の行動を統制するときには不満を封じ込めるだけの力が必要となる。二つ目は実際に運用される法の基本となる理念法というものである。現代で言えば憲法といった立ち位置に近い(つまり実際に具体的な法律というよりかは基本的な国家方針のこと)。
 まず一つ目の強制力についてであるが、これについては想像がしやすいのではないだろうか。すなわち多様な価値観を有する人らを一つの論理の下で一律に統制しようとするときには、彼らを凌駕するだけの力が必要となってくる。それ故に中央集権を志すときに独裁的君主に権力が集約することは非常に自然である。(民主主義国家は国民が国民を統制している特殊な構造であるため、ここでは割愛する。)秦では始皇帝陵として巨大な兵馬俑を築かせるなどの権力の大きさを誇示するような一見無駄に見える行動がまさに中央集権を進めるためには必要であったのである。

 さて二つ目の理念法についての話である。ここに始皇帝が不老不死の薬を求めた理由があるのではないかと考える。現代でもそうだが具体法を立法するときには理念法(憲法)を参照してそこに沿った内容でなければならない。すなわち具体法は単独では存在することができず、その具体法を正当化するだけの理念法が必須なのである。さて秦では何が理念法となるのか。それは始皇帝そのものである。すなわち始皇帝こそが国家理念であり、秦で運用されていた法の正当性を担保していたのは始皇帝の存在なのである。つまり始皇帝なしでは実際に運用されている法の一切が正当性を失ってしまうのである。こういった状況下で秦という国を未来永劫繫栄させようと志したときに、国家を運営する上での基本理念である自身も永遠に存在しなければならないという焦燥感が起こることは想像に難くない。つまり始皇帝が不老不死を目指したのは決して強欲であったからではなく、秦の存続を願ったうえでの判断であったのかもしれないと考察する。
 実際には不老不死にならずとも始皇帝の理念を成文化して残すことでもある程度の効力を担保することはできるかもしれないが、その手法を始皇帝は取らなかった。それはなぜなのかさらなる考察が必要になってくるが、それは今後の課題とする。

おわりに

 つらつらと考察したが、実際に始皇帝が何を思って行動したのかを我々は知ることができない。それ故に自由な発想が許されるのではないかと思い、好き勝手に論じてみた次第である。特に中国王朝史はまともに歴史書を書かない伝統であるため、各王朝の実態については自由な考察のし甲斐があるのではないかと感じた。

 ここまで駄文にお付き合いくださりありがとうございました。読了後はぜひ忌憚のないご意見をお寄せいただきたいです。また、似たような内容が既に発表されているなどの情報などございましたら今後の糧となりますので是非教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。



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