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京住日誌 2日目

【What day is today?】
 7時起床。いつものようにオンライン新聞3誌(朝日、沖縄タイムス、産経)に目を通す。
 今日の注目記事は朝日の特集記事「復帰50年 基地はなぜ動かないのか4」。ちょっとややこしいけれど「山梨日日新聞」の特集記事を紹介している。
 山梨日日新聞では今年から創刊150年を記念した連載企画「Fujiと沖縄 本土復帰50年」を定期的に掲載しているという。山梨(富士山麓)に米軍基地(海兵隊)があったのは知っていた。知らなかったのは次の内容だ。

4歳で米軍トラックにはねられ車椅子生活となった男性、米兵に殴り殺された青年と、保証はなく泣き寝入りするしかなかった遺族…第一部では米軍泣いた11年間に起きた被害や基地の街の変容を、11回にわたって伝えた
朝日新聞5月18日朝刊

 1958年山梨県民の強い基地移転運動もあり海兵隊は沖縄(金武町)へ移設された。沖縄に沖縄における米海兵隊が起こした数々の事件と考え合わせれば、山梨での出来事も十分想像できたはずだ。知るだけでは足りない、想像力を働かせねば強く思う。  
 よく例に出されるが沖縄は日本の国土0,6%の面積に70%の米軍基地が集中している。それは「地政学的に仕方がない」と正当化されることがあるが、半世紀前には山梨に海兵隊基地があった事実が忘れ去られている。もちろん山梨へもう一度戻せというのではない。しかし「地政学的に」というのは沖縄から基地移転ができない理由にはならないと思う。

 朝から妄想で頭を一杯にしつつ、昨日購入した自転車にまたがり出発。今回の京都滞在の目的は応仁の乱の痕跡を求めて彷徨することにあるので、まずはその戦端が最初に開かれた御霊神社を目指すべく、烏丸通を上京する。五月晴れの爽やかな天候。初夏の日差しが眩しいが自転車をこいでも汗ばむほどではない。気持ちの良い1日になりそうだ。御所を通り過ぎ、同志社大学手前で、「相国寺→」の標識。過去に訪れたことはあるけれど、近づいてみると「特別拝観」の看板があり、立ち寄ってみることにした。
 現在法堂、方丈、開山堂が特別拝観できる。付属の承天閣美術館が特別展覧会の端境期でお休みだったのは何とも残念。山門を潜りながらまだ母が生きていた頃(12年前)妻と3人で、承天閣美術館で開催された「若冲展」に行ったことを思い出す。あの時は大混雑で3時間近く並んだ。
 受付で入場料800円(まあまあしますな)。法堂、方丈、開山堂の順に見学。それなりに見学者はいたけれど、コロナ前の京都の混雑ぶりとは比べるまでもなくゆっくり見学できた。入場の際、貰ったパンフレットを読むと、ここ相国寺も応仁の乱の際全焼したという。そもそも読み方が「そうこく」ではなく、「しょうこく」であることも知った。もっといえば相国寺は「臨済宗相国寺派本山」で、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は末寺であるという。知らないことばかりだ。これまでの言い訳は「大学受験の時は世界史を選択したから」だが、そんな戯言は「京都人の歴史的地理的感覚を体感する」という大業?の前には通用しない。勉強が足りませんな。
 気を取り直して?再び自転車に乗って御霊神社を目指す。そしてややあって到着。

昨日まで御霊祭開催期間で境内では慌ただしく宮司さん達が片付けをしている。

御霊神社Instagramより。平日だけど学校はお休み?

特に昨日は最終日で神輿、御所車、剣鉾などが氏子地域を練り歩いた。残念無念、完全なるリーサチ不足。京都人DNA移植計画を意図するものとしてはあるまじきミスだ。
 気を取り直して境内を散策。まずは「御霊合戦旧跡」の碑。

揮毫は元総理大臣の細川護熙氏

 応仁の乱は1467年(1月18日)この地で戦端が開かれた。陣を構えていた畠山政長を畠山義就が襲撃したのだ。本来畠山家の家督争いに過ぎなかったのが、10年以上にも及ぶ戦乱に発展しまったのはさまざまな思惑から各守護大名が両陣営(政長派、義就派)に分かれて戦闘に参加、時には先導し、引くに引けなくなったというのが実情のようだ。(この碑に元総理大臣の細川護熙氏が揮毫したのは政長の後ろ盾となって御霊神社近くに邸宅を構えていた細川家の末裔だからだろう)。日本に限らず世界史を見渡してもこのような事例は枚挙にいとまがないのかもしれない。現在の御霊神社周辺は住宅地になっているが、その昔は鬱蒼?とした森だったのだろう。それを彷彿させるように境内は高木が並び、往時の様相を想像させる。資料を読み込んでいる時「神社で戦闘?バチ当たりな!」と考えていた。しかし現地に立ち、妄想を働かせると陣を構えるには防御しやすさから相応しかったかもしれないと考えるようになった。ご存じの方はご存じなように藤屋11代伝蔵は思い込みの激しい方だ。神社の境内で1人佇んでいると、当時の両陣営の鬨の声が聞こえるようだ。と、書いたら妄想がすぎるだろうか?
 本殿で今後の活動?祈願をした後、大枚2000円を喜捨して銅板を奉納し、御霊神社を後にした。
【Todays’s special mention 1】
 ランチタイム終了の時間が迫っている。百万遍の町中華を目指して斎藤茂吉ばりに「山城のネギソバ食べん一口に、一口食べんとただに急げる」だ(みちのくの母命を一目見ん一目見んとてただにいそげる)。
がしかし!Not only but also(うむ?)、なななんと、改装中でお休み。

そんな殺生な⁉︎

 百万遍は中華街とはいえないまでも気軽な町中華が軒を並べる。身体はとっくに「鳥ネギソバ」。仕方なく近くの店に飛び込んだのが悲劇の始まり。身体の要求に従い鳥ラーメン(鳥ネギソバはメニューになかった)を注文。人の良さそうな店員さんが「セットにできますよ」ということでラーメン+天津飯セット。
まずは天津飯が出てきた。見た目もそうだけれど一口食べて怒りが全身に広がる。なぜってあまりにも不味いから。

怒りに震えた天津飯の図

 不詳藤屋11代伝蔵しばしば夢に出てくるほど天津飯が大好きだ。いつも天津飯のことだけを考えて生きていると断言しても過言ではない(ごめんなさい、過言です)。天津飯の命、卵のフワトロ感はゼロだし、餡はトマトケチャップの味しかしない。その後に続いた鳥ラーメンも推して知るべし。残念無念なり!
【Today’s special mention2】
 お店を出た後は知恩院に立ち寄り鴨川のほとりをサイクリング。

まだ寝てません

そしてベンチで休憩し、本を開く。本日は晴天なり。紫外線は強いけれど、日差しを浴びても暑くてかなわないという感じでもない。不味い天津飯とラーメンのせい?で満腹だから自然と目が閉じてしまう。鴨川辺りで真昼の微睡み。罰が当たりそうですなぁ。
【A little good story today】
微睡んだ後は市内の散策を続ける。
それは御所近くの交差点で起こった。ランドセルを背負った2人の小学生が校門から出てきた。別方向に帰るらしく1人は交差点を渡りもう1人は見送る。
「じゃあねー」と大声で挨拶すれば、交差点で振り返り手を振りながら「じゃあねー」と応える。微笑ましい光景だ。でもこの光景をさらにスペシャルにしたのは振り返ったその子はさらに「またあしたねぇ!」続けたからだ。当然見送る子も「あしたねぇ!」と返す。
 「またあした」、なんと素晴らしい言葉だろう。明日を信じられるのは幸せなことだ。その幸せを私も噛み締めながら明日も京都を彷徨しよう!



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