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京住日誌 8日目

 少し寝坊。と言っても5時30だけど。6時のデジタル新聞の更新には少しあるので、シャワーを浴びて朝食の準備。お米を水に浸し、味噌汁用の玉ねぎを刻んでおいた。そして新聞3誌を斜め読み。簡単に朝食を作り、さっと済ませ、お勉強タイム。
 何度も書くけれど、応仁の乱を巡る諸相は入り組んでいて分かりにくい。ただそう言っていては何の進歩もないから、朧げながらわかったことを自分の備忘録のため少しずつ報告することにする。本日は畠山氏についてだ。

チたない字で失礼

 略家系図を参照してほしい。畠山氏は基国の時代に第3代将軍足利義満の時に信任を得て畠山家として初めて管領に任命された(応永5年1398年)。管領とは室町幕府では将軍に次ぐ地位で、細川家、斯波家、そして畠山家、以上三家の持ち回りで勤めた。この三家を特に「管領三家」と呼ぶ。畠山家は管領の家柄だからその相続つまり家督を引き継ぐことはすなわち管領家を引き継ぐことだから時に血生臭い争いを引き起こす。後継候補本人が意欲的な場合はもちろん、本人以上に各人の家臣団が黙っていないことが多い。そして不幸なことに畠山持国(1442〜1445年までと、1449年〜1552年まで2度管領となる)の時にそれは起こった。

 嘉吉元年(1441)幕府は関東で起こった反乱の討伐に手を焼いていた。業を煮やした足利義教は畠山持国に関東への出陣を命じたが、言を左右して従わず義教の不興をかった。するとなんと畠山の家臣団は義教に対して持国の罷免を願い出たのだ。たとえ管領家である畠山家の当主であっても安泰ではなく、外敵だけでなく、身内から突き上げの可能性もあるということだろう。(卑近な例で言えば菅前総理が衆院選を前にして辞任を余儀なくされたようなものだろうか?)そして家臣団からの要請を受けて義教は持国の異母弟である畠山持永を新家督とした。この時代家督の足利将軍家の承認を必要としていたのだ。このまま何もなければ失脚した持国は歴史の表舞台には登場しなかっただろう。実際持国は失脚した後、京の邸宅を引き払い河内国へと下っていた。

 そんな折、幕府に激震が走った。嘉吉元年6月24日将軍である足利義教が赤松満祐・教康親子に暗殺されたのだ。世にいう「嘉吉の変」である。赤松満祐は山城守護でもあり、室町幕府の中心人物の人であったからその衝撃は計り知れない。赤松親子が義教を討ったのは義教が寵愛していた赤松家傍流の赤松貞村にその家督を譲るのではと噂され、危機感を覚えたからだという。因みに義教と貞村は男色関係だったようだ。男色は武士の世界では嗜み?とされ、珍しくはないが、男女間と同様、痴情のもつれは色々巻き起こす。

 幕府としては当然赤松親子を討伐せねばならない。当時管領であった細川持之は諸大名を召集し善後策を協議する。管領家で家督を譲られたばかりの畠山持永も出席していたであろう。将軍が殺されたのだからまずは新しい将軍を選ばれなければならない。手始めに嫡男千也茶丸(のちの足利義勝)を将軍後継とした。しかし千也茶丸は当時8歳だったので、管領の細川持之が政務を代行することになった。さらに将軍が暗殺されるという非常事態であるから挙国体制を構築するため、強権的だった義教に追放されたり処罰された人々に恩赦を与えることになった。つまりつい数ヶ月前に失脚したばかりの持国も恩赦の対象となり、表舞台に復帰したのだ。これは全くの想像だけれど、持国に恩赦が与えられたのは持国自身による政治工作だったのではないか。30年以上畠山家の当主であった持国だ。政治的経験は豊富で、様々なコネクションを持っていただろう。義教暗殺は想定外だったとしてもその後の展開は彼の政治的経験が発揮されたように思える。一方の持永は降って沸いたように家督を継いだばかりで、兄のような政治的経験は持ち合わせていなかったと考えれる。しかし兄持国の復活は弟持永にとって死活問題だ。そこで持永の家臣二人がまだ河内にいた持国の屋敷に襲撃をかけた。襲撃は失敗に終わり、持国は持永邸を襲うべく、軍勢を率いて上洛する準備を始める。義教が暗殺されたという非常時に別の戦闘が起こることを恐れた管領細川持之は持国を宥めるため、襲撃を企てた持永の家臣二人の切腹を命じた。それにより、持永の家臣たちは波を打ったように持国の下に走り、持国の家督復帰が事実上決定したのだ。持永の方は僅かな手勢で京都を脱出したがその後は行方知らずになった。
 しかしながらこれでめでたしめでたしとなれば応仁の乱は起こらなかっただろう。この続きはまた明日に。

 夕食はトマトスパゲティ。愛読している朝日新聞毎週金曜日掲載の「人生のレシピ」のレシピだ。

禁酒さ

レシピには大葉とあったけれど、そら豆に。悪くはない。でも改善の余地あり!

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