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お祭り

髪の毛と爪だけは
気がつくと伸びてしまっていて元気なものである。背は縮んで行くのにだ…
近くの商店街には
1000円カットの店が急に増えて競い合っているように思っていたが、いち店舗だけ突出して客が並んでいるのが気になっている。それもほとんど毎日、汗だくでも並ぶのだから
散髪代以上に満足できる何かがあるのだろう、、待たせても待たせたとはあまり感じさせない技術の高さとスピーディさなのかもしれない。そこは美容室ではなくて床屋さんなので確かめに行くことは出来ないから更に気になる。その並ぶ姿をみておもうのが
日本人が並ぶことを優先できるようになったのは、いつ頃からなのだろうか??都会では人が多いから目立つのだろうが、大切な時間を費やしてまでも手に入れなければならないものとは?すべてが消費なのだから豊かであることは事実だろう。戦後の貧しさの中で配給物を手に入れるために並んだ時代もあったのだから幸せな光景でもあるのだが…
きょうは
耳嚢という本を書いた根岸九郎左衛門さんの偉業を磯田さんの番組で知る。天明の浅間山噴火復興への働きは後世に語り繋がれるほどで、
血の通った対策をどんどん進めて行った人物である。その頭脳明晰さも驚くばかりだが
世のため人のために私利私欲なく(届け物は受け取らなかったとか)尽くすことに奔走していたことだ。ほんとの昔にはお役人でもそういう人がいた事でちゃんとした復興がなされたのだとおもう。今はどうだろう?災害対策は立てられても視野広く持って指揮をとれる人物はいるのだろうか…いないとおもう…
ある時から、データ化するようになって注視するのはそっちで融通が効かない狭間に陥ってしまってるのではないか、、窮地に追い込まれると決断の嵐の中で人の本質が暴かれるのだから、人としての高みを追求すべきだと心底おもう。根岸九郎左衛門さんの残した言葉は自然災害は無くならないという警鐘だ。


ことしは
祭りがもどってきて嬉しいかぎりだが
毎年あったときには感じなかったことを
改めておもっている。多様化などと個人を尊重することもとても大切なことだが、、
祭囃子をきけば
心の奥底に眠っていたリズムが蘇るのは
誰もが少なからず共通する感覚であること、
そして脈々と受け繋がれているものへの感謝と祈りではないだろうか。。。



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