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モノクロの街

石が流れて木の葉が沈む。人生は常識通りではない…

書くことでしか伝わらない思いや
生まれない文学、、
「相馬屋源四郎商店11代目」のお言葉に
紙に残る筆圧を思い出しています。
日常のメモ書きは今でも必須であったりしますが、ほとんどは書くから打つになっている昨今で、日記として活用させていただいている「note」も゙然りです。毎日書く行為であったならば3日も持たなかったと思います。
最後に原稿用紙を使ったのは高校生のときの読後感想文でしたから、ずいぶん年月が経っています。書き出しの頭はひとつ開けるのですね…何かちょっとした決まりが有ったり、
ただ感じたことを書くのですが、最低用紙2枚は埋めるようにと言われたり…起承転結よろしく無い頭をふり絞って用紙に向かうことは苦痛でもありました。消しては書きをくり返していると苛ついた気持ちのまま紙に穴が開くことも゙…打つことには、そんな泪半分になることなどはありません。。そして究極の書くはラヴ・レターでしょうか、、それは
夜中に書くとたいへんな事になってしまう事だけは覚えています。そんな自分善がりになってしまう片思いは片思いのままがロマンチックであることを書くことで知るのです。
便箋に気持ちをのせると、2枚目にはどうしても筆圧が残ってしまいます。いまは、中敷き紙が付いていますから気になりませんが
昔の普通の便箋(コクヨの?)はしっかり残ってしまっていて、どれだけの思いを書くことで伝えたかったのかが良く分かりました。
手紙を通して交流していた父母世代の遠い遠い記憶ですが、相手を気遣う文面には個性があって彩りがありました。そんな時代が
たしかに有ったことは生涯忘れないとおもいます。




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