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スナックキズツキ(第4話)と社会階層と絶望と

ドラマ、スナックキズツキ(第4話)(原作・益田ミリ)を見ていたところ、社会の階層とは何か?ということをぼんやりと考えてしまいました。

どうやら、階層を見分けるリトマス紙は存在するようです。それは

・知らないことを知らないと言えるか
・お金が無い時に、お金が無いと言えるか

誘われて行ったバーベキューで、参加者達がワインの「シャトー・マルゴー」で盛り上がっていた。すると、それを横目に初対面のお金持ちの女子が、自分はシャトー・マルゴーを知らない。知ってる?と聞いてきた。彼は「あー、うん」と返した。目をそらして。

シャトー・マルゴーを知らないのに知ったかぶりをしてしまった自分が何だか恥ずかしかった。知らないことをあっけらかんと知らないと言える人が、目の前にいるのだから。

思い出した、本当は美大に行きたかったけど、母子家庭のため経済的に授業料の高額な美大へは行けなかった。それを経済的な理由で行けなかったとは友達にも言えなかった。

帰りしな、ふと入ったスナックキズツキで注文したのは、だし巻き卵だった。疲弊した心を癒したのは、お母さんの思い出の料理だった。
シャトー・マルゴーなんて知らないよ。

弱さは、できる限り人には見られたくない。それは恥ずかしいことだから。
虚勢を張らずとも、知ったかぶりをしてしまう心理は良く分かります。

しかし、お金がないこと、そのために人生の選択肢が限られていること、それは果たして弱さなのでしょうか。恥ずかしいことなのでしょうか。

お金の量は、数多ある価値基準の1つでしかないことに気付けるか?

だし巻き卵は何か別の、大切なことを気付かせてくれたのかもしれません。

他にも様々な作品で社会階層は描かれているようです。たとえば、

あの子は貴族(原作・山内マリコ、監督・岨手由貴子)

上流階級である主人公は、家族からの結婚へのプレッシャーの末、自分より上流階級の相手と結婚し、その生活に悶々とします。一方で、地方出身の裕福でない、それでも(だからこそ?)自由に見える女子との交流で、新しい世界を知ります。そして二人は、何故か心が通じ合うようになります。

階層の横断的な交流を可能にするのは、自由を求める心と心の出会いかもしれません。

というのも、この二人はある意味で絶望を知った人です。絶望を知るということは、文字通り望みを絶ったが故に、本当の意味で自由になれるのだから。

そして二人は、自分らしい生き方を始めています。

世界は似ている?

趣味は何か?
休暇はどこで何をするのか?

等の質問で相手を見定め合う(知的・経済的階層を)といった闘争は往々にしてあるようです。

そういえば私も欧州に仕事で居住していた際、バカンスはどこに行くのか?という一般的な会話をビジネス上でしばしば体験しました。その時に感じたのは、単純に興味を持って聞いている、或いはスモールトークのキッカケの一方で、相手を見定めるための情報収集でもあるようでした。

その時は高齢で心臓に持病を持つ猫がいたため、人に預けて外泊することは出来ず、日帰りでの旅行が精一杯でした。
旅行先を伝えると「ふーん、近いわね」と、鼻で笑われてしまいました。

一方で、その人はセイシェルで家族と過ごすとのことでした。
松田聖子の「セイシェルの夕陽」を思い出し、単純に「いいですね、夕陽が綺麗なんでしょうね、自分もいつか行きたいですー」と軽く言ったところ、帰ってきた言葉は「お金貯めてからだねー」ということでした。

そんな彼女との別の会話で、「前の週末は暑かったですねー」と切り出したところ、「暑かったけど、あなたどこ行ったのよ?」と聞かれたのでローランギャロスで全仏オープン(テニス)を観戦していたと答えると、「どうやってチケット取ったのよ」と不機嫌そうでした。(たまたまネットで取れただけでしたが。。)

基準が違う人との会話は疲れますが、どうやら世界は似ていたようです。

ディスタンクシオン(ピエール・ブルデュー著)

余談ですが、社会学で有名なディスタンクシオンという本を読んだところ、社会階層について大まかに下記のような定義がされていました。

中産階級:「やりすぎる」ことが特徴で、見栄を張る。何とか下層階級との差異化と、上流階級への同一化を図っている。

上流階級:「やりすぎる」ことを蔑視しているため、謙虚で控えめ。実はそうすることで他階級との差異化を図っている。

先の「シャトー・マルゴー」の例とも繋がり、腑に落ちるような気もしますが、何だか疲れてしまいました。

人より優位に立ちたい気持ちは分かりますが、優位に立ったところで何か良いことが生まれるのかどうかは分かりません。

「マウント」といういささか古め(?)の言葉がありますが、マウントを取った後に何が残るのでしょうか?

マウントを取り合う世の中よりも、お金がある人はお金を、体力がある人は体力を、頭がいい人は頭脳を、優しい人は優しさを、それぞれが、少しでも多く持っているものを差し出し合う世の中になれば素敵かなとも思います。

たとえお金は無くても、自分の物差しで、本質のようなものを見失わないようにいたいものです。他人との比較ではなく。

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