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古代天皇の系図を読み解く②4代~6代 懿徳・孝昭・孝安天皇

【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。ここでの最大の疑問は、「卑弥呼」と「古代天皇」の関係です。

そのため、ここでは4代から6代までの古代天皇に関する記紀の記載を確認します。

【4代天皇:懿徳天皇】


『4代 懿徳天皇の御陵
 懿徳天皇の「宮」の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町(石碑のみ)

 

 4代懿徳天皇の宮は、四分遺跡や一町遺跡が近かったため、これらとの繋がりを大切にしていたのかもしれません。

 懿徳天皇の「御陵」の伝説地は奈良県橿原市西池尻町「マナゴ山」。初代~3代天皇と同じく「畝傍山」の麓にあります。ただし、畝傍山から伸びる自然丘陵の一部であり、古墳では無いとする説が濃厚です。四代天皇も古墳時代でなく弥生時代の人物であり、古墳に埋葬されていない可能性は高いです。

『4代 懿徳天皇の系図』

日本書紀では、4代天皇は【兄の娘(姪)】を后にしている

 過去の内容のため、少し混乱があるようですが、比較的近い親族から后を娶ったようです。

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【参考情報】懿徳天皇の后『天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)』

 ※細かい解説です。興味のない人は飛ばしてください。

『日本書紀』にて息石耳命の娘で、懿徳天皇の姪ですが、
  別説では、猪手(磯城県主「葉江」男弟)の娘・泉媛。
  別説では、磯城県主「太真稚彦」の娘「飯日媛」。
『古事記』にては師木県主の祖「賦登麻和訶比売命(飯日比売命)」。

『古事記』『日本書紀の別説』では「息石耳命」が出てきません。
『先代旧事本紀』でも「息石耳命」が出てきません。

上記までは、「記紀」などの記載内容です。ここからは推察を入れていきます。『日本書紀』の本文に誤記があったと仮定して、他の辻褄をなるべくあわせると以下のような系図になります。

バランスよく辻褄合わせをした系図(推察)

 懿徳天皇の后の父が「懿徳天皇の兄」でなく「渟中底姫命の兄」だった。とすれば、比較的しっくりときます。
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【5代天皇:孝昭天皇】

『5代 孝昭天皇の宮と御陵』
孝昭天皇の「宮」の伝説地は、奈良県御所市池之内(石碑)。

鴨都波遺跡のすぐ近くに宮と御陵がある。

  孝昭天皇の御陵の伝説地は奈良県御所市大字三室「博多山」。こちらも、「自然の丘陵であり古墳ではない」とする説が濃厚です。

  近くにある「鴨都波遺跡」は「出雲一族(鴨一族)」の拠点の1つでした。このことからも「鴨一族」と強い繋がりがあったことが伺えます。


『5代 孝昭天皇の系図』

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【参考情報】孝昭天皇の后『世襲足媛(よそたらしひめ)』
  ※細かい解説です。興味のない人は飛ばしてください。
『日本書紀』・『古事記』共に尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹。
『日本書紀』の別説に、磯城県主『葉江』の娘「渟名城津媛」。
 他の別説として、倭国豊秋狭太媛の女「大井媛」。
ちなみに、『世襲足媛』は「天忍男」の娘とされています。

 以前のNOTE記事に書きましたが【「神武天皇」=「天村雲」(尾張氏・海部氏の祖)】という仮説を立て、検証を進めています。その説に則ると『世襲足媛』が「天忍男」の一つ世代下では、世代数が合わなくなります。

 この世代数ギャップは考察が必要ですが、本筋からズレていくので、機会があればと行いたいと思います。

 ここでは『血統的に近い「尾張一族」から后を娶った』ということで、話を進めていきます。
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【6代天皇:孝安天皇】

『6代 孝安天皇の宮と御陵』
 宮の伝説地は、奈良県御所市室(八幡神社境内に石碑)

5代天皇と同じく鴨都波遺跡のすぐ近くに宮と御陵

 孝安天皇の御陵の伝説地は、奈良県御所市大字玉手「玉手丘陵上」。
考古学的には、この御陵は「円墳」に自然地形を利用して前方後円墳のように玉垣を巡らせているようです。また、古墳ではなく自然地形であるという説もあります。

『6代 孝安天皇の系図』 

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【参考情報】孝安天皇の后『押媛 (おしひめ、忍鹿比売命)』

『日本書紀』でも『古事記』でも天足彦国押人命の娘。
ただし、『日本書紀』には別説として、磯城県主『葉江』の娘「長媛」。
 他の別説として、十市県主『五十坂彦』の娘「五十坂媛」。
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<今回の記事のまとめ>

【4,5,6代天皇】も、これまでの既定路線を引き継いで「鴨一族」や血統が近い「尾張一族」に支えられ、大和盆地の南部で統治していたようです。

4-6代天皇が「宮」を建てた場所

 そして初代から3代と同じく、古墳時代でなく弥生時代の天皇(大王)ということで、「御陵」の所在は疑わしくありました。


【3世紀中頃の『実質的な日本の建国』(九州の「銅鏡の文化」が大和にシフト)】に関連しそうな情報は、4代から6代までの古代天皇からも出てきませんでした。大和盆地南部で平和裏に過ごしていたものと思われます。
 後の世代に関連しそうな情報が出てくることを期待します。

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