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丹波王国の古墳

 ここまで開化天皇(9代)の皇子である「彦坐王(日子坐王)」の一族について情報を集めてきました。

 これらについて考古学的な視点で確認してきたいと思います。

<古墳王国 丹後>

 京都府の日本海側である「丹後地方」には、網野銚子山古墳(京丹後市)・神明山古墳(京丹後市)・蛭子山古墳(与謝野町)といった京都府でも最大級の前方後円墳が集中します。

 これらは「日本海三大古墳」と称され、強大な勢力の存在を思わせることから、「丹後王国」説の根拠として、しばしば話題に挙がります。


<古墳の数は 全国3位>

古墳の数も意外と多く、京都府は全国3位の数を誇ります。

 1位)兵庫県:18,707
 2位)鳥取県:13,505
 3位)京都府:13,103
 4位)千葉県:12,772
 5位)岡山県:11,880
 6位)広島県:11,334
 7位)福岡県:10,759
 8位)奈良県:9,663
 9位)三重県:7,128
10位)岐阜県:5,218
※『令和3年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』(文化庁)


<日本海三大古墳>

 日本海側にある古墳を大きい順に並べると、上位は丹後地方に集まります。いずれも「前方後円墳」です。

1位:網野銚子山古墳(あみのちょうしやま) 
  201m(※)
2位:神明山古墳(しんめいやま) 
  190m(※)
3位:蛭子山古墳(えびすやま)  
  145m(※)
※サイズは資料によって諸説あります。




 ちなみに、1位の「網野銚子山古墳」は奈良県にある「佐紀陵山古墳」と同じ形状であり、設計を転用したものと考えられています。

そして、この奈良県の「佐紀陵山古墳」は垂仁天皇(11代)皇后の日葉酢媛命の陵に治定されています。日葉酢媛は、「彦坐王(日子坐王)」の孫で、「丹波道主」の娘とされています。

 その日葉酢媛の御陵とされる古墳と同じ設計というのは、やはり一族の墓なのでしょうか?

 そして、これら古墳の築造時期は4世紀後半とされています。

4世紀後半は、どのような時代でしょうか?

近い時代に中国の歴史書に登場する『倭の五王』があります。

『倭の五王』

 421年:讃、宋に朝献
 438年:倭王讃没し、弟珍立つ。
 451年:済(『宋書』倭国伝)
 462年:済没し、世子の興が遣使。
 478年:武(『宋書』)
 502年:武(『梁書』武帝紀)

ここに登場する「讃」は『仁徳天皇』(16代)に比定する説が有力です。 
このことから5世紀前半が『仁徳天皇』(16代)の御代と考えられます。

『石上神宮の「七支刀」銘』

 この「刀」には61文字の銘文が刻まれており、「百済の王が倭国の王に贈った」旨が書かれています。 
 そこに書かれている年号は一部読めない状態ですが「369年」とする説が有力です。
 日本書紀の伝承から百済から「七支刀」を受けたのは「神功皇后」が政治をしていた頃とする説が有力です。 
 「神功皇后」『仲哀天皇(14代)』の皇后であり、『応神天皇(15代)』の母君とされていますね。


上記のことから4世紀後半は『仲哀天皇(14代)』や「神功皇后」の時代と推定します。


 そうなると、これら日本海三大古墳は「彦坐王(日子坐王)」「丹波道主」より数代後の世代と思われます。

 となると、奈良県にある「佐紀陵山古墳」も「垂仁天皇(11代)皇后の日葉酢媛命」の御陵と治定されていますが、「これは間違い」と推定できます


<4世紀後半に丹後地方で活躍した人物>

 では、4世紀後半(神功皇后の治世)に日本海側で活躍した人物は誰でしょうか?


 『勘注系図』によると
 彦火明命の十八世孫である【丹波國造 建振熊宿禰】 は 息長足姫皇后(神功皇后のこと)による新羅國への征伐の時、に『「丹波」・「但馬」・「若狹」の海人を三百人率いた』とされています。
 そして、『「水主(船頭)」として奉仕したため、凱旋後に、勲功により「若狹の木津高向宮」を定め、「海部直」の姓を賜った。また、 楯や桙なども賜った。それは品田天皇(応神天皇)の治世であった。 そして 熊野郡の川上の安田に葬られている。』と続きます。

 ここに出てくる「丹波熊野郡川上郷安田」とは 現在の「京丹後市久美浜町」である。その付近にある古墳としては「島茶臼山古墳」があります。

「島茶臼山古墳」
 ・42mの前方後円墳
 ・4世紀末築造

ということは、「日本海三大古墳」に眠る人物は、彦火明命の十八世孫である【丹波國造 建振熊宿禰】の同世代か、1~2世代前の人物となります。



「彦坐王(日子坐王)」「丹波道主」について 考古学的な視点で】を調べるために、次回は、もう少し過去に遡って調べてみたいと思います。

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