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百襲姫が過ごした讃岐①一之宮 田村神社

 この記事からは「孝霊天皇」(7代)の皇女である「倭迹迹日百襲姫命」について、調べていきたいと思います。「倭迹迹日百襲姫命」「崇神天皇」(10代)の御代に活躍し、「纒向遺跡」を代表する「箸墓古墳」に埋葬されているとされる人物です。

 この「倭迹迹日百襲姫命」の伝承は 讃岐国(香川県)にいくつか残っているようなのでこれらについて見ていきます。

<田村神社>讃岐國一宮 香川県高松市


一の宮にふさわしい 立派な鳥居です。  

御祭神:田村大神(たむらのおおかみ)

 ※田村大神とは、五柱の神様の総称

・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
・五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)

・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
・天隠山命(あめのかふやまのみこと)
・天五田根命(あめのいたねのみこと)

●倭迹迹日百襲姫命
 皇祖第七代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により「百襲(襲は勲功の約)」の名を負う。
 後、五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大和国城上郡大市村(奈良県桜井市箸中)にある。

五十狭芹彦
倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。

 ※吉備津彦神社では「倭迹々日百襲姫命」は彦五十狭芹彦命の『妹』とされます。どちらが年上かどうかは、諸説あるようです。

●猿田彦大神
皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衢に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ方除神として神威まことに偉大である。

●天隠山命
高倉下命(たかくらじのみこと)とも言われる神様。
皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子である天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。

<主な摂社・末社>
宇都伎社 祭神:大地主神、倉稲魂神


素婆倶羅社 祭神:少名毘古那神、大年神、塞神、大水大神、菅原神


一宮天満宮 祭神:菅原道真公


宮島社 祭神:市杵島姫命


姫の宮


淡島社

「あわしま」という事は、少彦名命ですね。



伊勢神宮遥拝殿

<創建>

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。

 当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。また領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。



<この記事のまとめ>

 讃岐国には倭迹迹日百襲姫命の伝承が確かにあり、しかも「讃岐国一の宮」で祀られていました。

 そして、「数々の勲功を上げた事」により「百襲(襲は勲功の約)」の名がついたということも伝えられていました。

 この神社の伝承では、奈良で活躍した後に、讃岐に来たことになっていますね。

 讃岐国には倭迹迹日百襲姫命の伝承が残る神社が他にもいくつかあるようなので、引き続き見ていきたいと思います。

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