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古代天皇の系図を読み解く⑥10代 崇神天皇

【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。ここでの最大の疑問は、「卑弥呼」と「古代天皇」の関係です。

そのため、ここでは10代・崇神天皇に関する記紀の記載について確認します。

【10代天皇:崇神天皇】

『10代・崇神天皇の宮 と 御陵』
宮』の伝承地は奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社。9代までの天皇と異なり、初めて『纒向遺跡』の近くにあります。 
 この「宮跡」には神社があり、古代祭祀跡「磐座」(いわくら)が4つ並んで残っています。方向的に三輪山祭祀の一つと推察します。

古代祭祀跡「磐座」(いわくら)

『陵』の伝承地は奈良県天理市柳本町にある「行燈山古墳」。「宮』と同じく『陵』も、9代までの天皇と異なり『纒向遺跡』の近くにあります。全国第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃の築造と推定されています。築造時期に違和感はありません。


『10代・崇神天皇の系図』
「古事記」や「日本書紀」の記載を根拠に10代天皇の系図を示します。


 宮から出した「天照大神」を祀らせた「豊鍬入姫命」や、同じく「倭大国魂」を祀らせた「渟名城入姫命」が登場しています。 

「崇神天皇」の子の中で特に注目したいのは『倭彦』です。次の垂仁天皇の御世にはなりますが『
倭彦』には『殉葬』というトピックが描かれています。

『古事記』では、倭日子命(倭彦命)の時に初めて「陵に人垣を立てた(殉葬した)」との記載がある。『日本書紀』でも、倭彦命は薨去し、「近習は墓の周辺に生き埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けた上、その死後に犬や鳥が腐肉を漁った。」との記載がある。

『魏志』倭人伝において、卑弥呼死去のときに、「奴婢百余人の殉葬」の記載があることから、「邪馬台国」には殉葬の文化があり、それが大和盆地にも入ってきていることが示唆されます。


<物部一族との絡みについて>


上記の系図を見ると、「物部一族」から妃を一人も迎えていません。物部氏の関係性は8代、9代天皇に限定される一過性の事象だったのでしょうか?

『日本書紀』において以下のような内容がありました

⚫崇神天皇の御世に、『大水口宿禰らの夢で、大田田根子と市磯長尾市をそれぞれ大物主神と倭大国魂を祭らせれば良い。』という内容があった。
 ⇒物部一族の「大水口宿禰」が登場しています。

⚫『崇神天皇は占いにより伊香色雄に命じて「物部(もののふ)の八十平瓮(やそびらか)を以て祭神之物(かみまつりもの)と作(な)さしむ」』という内容もあります。
 ⇒物部一族の『伊香色雄』が登場しています。そして「物部」という言葉か出てきてますね。そして『伊香色雄』の子から「物部 十千根」などと物部の姓がつくようになります。

物部一族の系図


日本書紀の記載は、以下の文献を引用しました。
祟る神 ― 夜刀の神から三輪の神へ ―


<四道将軍の派遣>

崇神天皇は「四道将軍」を遠征させています。
 ⚫『大彦命』・・北陸道
 ⚫『武渟川別』・・東海道
 ⚫『吉備津彦命』・・西道
 ⚫『丹波道主命』・・丹波(山陰道)

 以下に、四道将軍と崇神天皇の関係を示します。


四道将軍崇神天皇の関係図

 崇神天皇と同世代である『武渟川別』や1つ下の世代である『丹波道主命』、さらには、1つ上の世代である『大彦』を遠征に派遣することは理解できます。
 しかし、2つ上の世代である『吉備津彦命』を現役の将軍として戦地に派遣するのは無理があるように思います。

 ちなみに、『倭迹迹日百襲姫命』も『崇神天皇の御世』に活躍する記載があります。
こちらも『記紀』では『吉備津彦命』の妹であり『崇神天皇」からは2つ上の世代であり、『崇神天皇の御世』に活躍することは、可能性はゼロでは無いですが、少々無理があるように思います。

 少なくとも『吉備津彦命』の派遣は、誤記や捏造、改変の類が入っている可能性があります。『吉備津彦命』の実績を崇神天皇の実績に加え、崇神天皇の実績を高めたかったのかもしれません。


<今回の記事のまとめ>

 崇神天皇(10代)が天皇家(大王家)の中で、初めて『纏向遺跡』周辺に「宮」と「陵」を設けます。そして、その子である『倭彦』の「陵」では殉葬が行われました(垂仁天皇の御世で)。

『物部一族』から妃を娶ること自体はありませんでしたが、『物部一族』が政治には関わっていたことが日本書紀には記載されていました。

 また、10代天皇から纒向遺跡の近くにある『三輪山の祭祀』が「記紀」に登場するようになりました。

<ここからは考察です>
崇神天皇は「纏向遺跡」の近くに「宮」と「御陵」を築いた最初の「天皇(大王)」であり、ようやくこの「纏向遺跡」の近くで天皇家(大王)が活動していた情報が得られました。

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