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彦坐王の血統⑦神谷太刀宮と宇倍神社(丹後と鳥取)

「彦坐王(日子坐王:ひこいます王)」の一族について伝承を調べています。この「彦坐王」は 開化天皇(9代)の皇子ですね。
 その息子で最も有名なのが「丹波道主」で崇神天皇(10代)の御代に四道将軍となる人物です。
 この記事では、丹波道主命(彦多都彦)を祀る神社を2つ紹介します。

<神谷太刀宮>京都府 京丹後市久美浜町

(かみたにたちのみや)

もともとは別の由来をもつ神谷神社太刀宮神社が合祀された2社一体の神社。

太刀宮の主祭神:
 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)

 『太刀宮』は、全国で唯一丹波道主命を主祭神とし、御神体として祀る丹波道主命の佩刀「国見の剣(くにみのつるぎ)」は諸説ある「久美浜」の地名由来のひとつである。



神谷神社の主祭神:
 八千矛神(やちほこのかみ。大国主命)

丹波道主命が山陰道を巡察した際に、前途洋々たることを祈願して出雲国から八千矛神を招き祀ったのが始まりとされる。

神谷太刀宮の掲示物より
神谷太刀宮の掲示物より
神谷太刀宮の掲示物より

<宇倍神社> 鳥取県 鳥取市国府町宮下

(因幡国一宮)

御祭神:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

 現在の御祭神は武内宿禰だが、『神祇志料』によると、 祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先である彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)としており、本来は伊福部氏の祖神を祀り、後に武内宿禰命を祀るとされたとみられる。

 (※『因幡国伊福部臣古志』によると、伊福部氏は、『彦多都彦』でなく 物部氏の祖である「伊香色雄命の息子:武牟口命(建牟口宿禰)」を祖先としており、考察の余地は残っているが、いずれにしろ、因幡国の一宮には『彦多都彦命が祀られていた』という伝承がありました。)

 ⇒『彦多都彦』とは、「丹波道主」の別名であり、「丹波道主」は晩年、「丹波国」から「因幡国」(鳥取県)に移り住んだ可能性がある。

<余談:岐阜もイナバと呼ばれていた>


 鳥取県は「因幡の白兎」伝承でも有名であり、旧国名が「因幡(いなば)」であることは有名な話である。この「いなば」というワードは、岐阜でも重要な神社で登場します。

 岐阜県に「稲葉山」という山があることはご存知でしょうか?
 今で言う「金華山」であり岐阜城のある山を指します。そして、この山の麓には「伊奈波神社(いなばじんじゃ)」があります。

 この神社の御祭神に「丹波道主」が『彦多都彦』として祀られています。

伊奈波神社の御祭神

 同じ「いなば」と呼ばれる鳥取と岐阜にある神社で「丹波道主」がわざわざ『彦多都彦』として祀られているのは単なる偶然でしょうか?

 岐阜の「伊奈波神社」は 垂仁天皇(11代)の皇子である「五十瓊敷入彦命」にゆかりのある神社です。

 岐阜での「いなば」の由来は諸説あるのですが、『稲葉郡志』によると『伊奈波神社の主祭神である五十瓊敷入彦命が稲葉国(因幡国)に居て、後にこの地に来たこと、また、祭神の彦多都彦命(主神の外祖父)が稲葉国造であったことにより、「稲葉山」と呼ばれるようになった。』とあります。

 また『古事記』によると『五十瓊敷入彦命(印色入日子命)は「鳥取河上宮」にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めた。』とあります。
 この情報を読むと、「五十瓊敷入彦命」は鳥取県で活動していたことがあり、その後、岐阜県に移り住んだのではないか?と想像してしまうのですが、一般的には、『古事記』に記載の「鳥取」は鳥取県でなく大阪府南部と考えられているようです。

 鳥取県を指すなら「『稲葉郡志』による伝承の信憑性が上がる」と思うのですが違うようです。

 いずれにしろ、「五十瓊敷入彦命」の母である「日葉酢媛」を頼りに、「鳥取県」に住んでいた「彦多都彦命」の一族が岐阜に移り住み、「稲葉」という名を名付けたのではないか?と推察します。

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