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古代天皇の系図を読み解く⑧12、13代 景行・成務天皇

【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。ここでの最大の疑問は、「卑弥呼」と「古代天皇」の関係です。

 そのため、ここでは12代、13代の古代天皇に関する記紀の記載を確認していきます。

【12代天皇:景行天皇】

景行天皇は、これまでの天皇と全く異なる特徴を持っています。
それは、天皇自らが日本各地を平定して回ったということです。

 その皇子である「ヤマトタケル」も 全国に派遣して各地を平定して回ったが、先に「ヤマトタケル」が亡くなってしまいます。


「古事記」や「日本書紀」の記載を根拠に12代天皇の系図を示します。

12代天皇・景行天皇の系図
※「記紀」にも誤記や捏造・改変がある可能性は十分にありますが、そのまま記載します。

 即位した当初は、播磨で「播磨稲日大郎姫」を皇后として、「ヤマトタケル」を授かります。

 その後は、日本各地に遠征して、各地で妃を娶ります。そのため『古事記』では、記録も残らない皇子も入れれば80人の子供がいたとされます。

『12代・景行天皇の宮 と 御陵』
『宮』の伝承地は奈良県桜井市穴師(纒向日代宮)。そして晩年は、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(現在の滋賀県大津市穴太)

『陵』の伝承地は奈良県天理市渋谷町(三輪山の麓)の「渋谷向山古墳」。『纒向遺跡』の近くにあり、全国第8位の規模の古墳で、4世紀中頃から後半頃の築造と推定される。

 滋賀で亡くなって、纏向遺跡の近く(奈良)に御陵を築いた事になります。

【13代天皇:成務天皇】

「古事記」や「日本書紀」の記載を根拠に13代天皇の系図を示します。

13代天皇・成務天皇の系図
※「記紀」にも誤記や捏造・改変がある可能性は十分にありますが、そのまま記載します。

成務天皇は記録が少ないですが、「物部一族」の娘を妃にしていました。


『13代・成務天皇の宮 と 御陵』
宮の伝承地は滋賀県大津市穴太。

 『日本書紀』には記載は無い
 『古事記』に「近つ淡海の志賀の高穴穂宮」

13代成務天皇は、12代景行天皇が崩御した「近江国」でそのまま政治を行っていた。

陵の伝承地は奈良県奈良市山陵町にある「佐紀石塚山古墳」

全国第26位の規模を誇る全長約220mの前方後円墳。4世紀後半に築造されたと推定。


<今回の記事のまとめ>

12代・景行天皇は「日本各地」を平定して回りました。『日本書紀』によれば、その中には「豊後国(大分)」や「日向国(宮崎)」、火国(熊本県)、阿蘇国(熊本県)、御木(福岡県)、的邑(福岡県)など九州各地も含まれています。 

 そして、各地で嫁を娶り、約80人の子を授かりました。特に皇子の1人である「ヤマトタケル」には各地へ遠征させていました。

しかしながら「ヤマトタケル」が早世してしまったために、「成務天皇」に後継者の地位が回ってきたということになります。

そして、13代・成務天皇は記録があまりありませんでした。

<ここからは考察です>
【3世紀中頃の『実質的な日本の建国』(九州の「銅鏡の文化」が大和にシフト)】
に関連しそうな記録を探しています。

 景行天皇は、逆に大和から九州各地に遠征しています。これをどう解釈すればよいでしょうか?

 九州から大和へ「銅鏡の文化」を伝えたのは『数世代前』であり、その後も時が流れ、『世代が変わると共に、関係性も変わっていった』というように解釈しています。

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