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大彦命と武渟川別命③埴安彦と埴安媛 を考察する

 前回の記事で「武埴安彦命」と「大彦命」との争いについて記載しました。ここでは「武埴安彦」とその母である「埴安媛」も併せて、考察していきたいと思います。

『記紀』によると「武埴安彦命」「大彦」と異母兄弟の関係にある。
そして、「埴安媛」は「武埴安彦命」の母となっている。


<余談ですが>「社日塔」に刻まれる「埴安媛命」

 四国地方や山陽地方などの神社に訪れると「五角柱」や「六角柱」の石塔を見かけることがあります。他の地域でも偶に見かけますね。

香川県高松市の船山神社にて

 これは「社日塔」(しゃにちとう)や(社日碑:じしんひ)・地神塔(じじんとう)・地神碑(じしんひ)などとも呼ばれていて、江戸時代から始まった祀り方の一つです。
 
 大江文坡(おおえ ぶんぱ。大江匡弼(まさすけ)とも)という宗教家が『神仙霊章 春秋社日醮儀』という書籍でこの祀り方を紹介したが発祥とされています。

「社日塔」に登場する『社日』(しゃにち)とは、「春分・秋分の日に近い戌の日」を指す中国ルーツの暦日の一つを指す。その日に五穀豊穣、天下泰平、子孫繁栄などを祈願して「五穀の祖神」を祀ったようです。

一面ごとに神名がかかれており、基本的な組み合わせは次の五柱。

 ・農業祖神 天照大神(あまてらすおおみかみ)
 ・五穀護神 大己貴命(おおなむち) 
 ・五穀護神 少彦名命(すくなひこな)
 ・五穀祖神 倉稲魂命(うかのみたま)
 ・土御祖神 埴安姫命(はにやすひめ)

 神社によっては、六柱となることもあり、また一部が別の神名となっていることもあります。

なぜ、埴安姫命?

 この柱を見かけた当初、『息子である「武埴安彦命」が朝敵となって、鎮圧されたのに、その母の名(埴安媛命)が なぜ、天照大神などの有名な神々と並べられたのだろう?』と不思議に思っていました。

 しかし、よくよく調べてみると「埴安媛」の名は、イザナミ・イザナギの子として、同名で【土の神】として登場していました。 イザナミは「火の神」(かぐつち)を生む際に大火傷をして死に絶える。その死の間際に脱糞して、その大便から変化したのが、【土の神】である「埴安彦」および「埴安媛」です。

 【土の神】であるため「肥料の神」「農業の神」としてだけでなく、「陶芸の神」「土木工事」「便所の神」としても祭祀されています。


 そして【土の神】であるイザナミ・イザナギの子「埴安媛」が「社日塔」に書かれていました。

『息子「武埴安彦命」が朝敵となった母の名(埴安媛命)が「社日塔」に書かれてる』ではありませんでした。


<余談ですが>枚方市樟葉(くずは)の地名ゆかり

 「大彦」との争いに敗れた「武埴安彦王」(建波邇安王)の伝承に戻ります。「武埴安彦王」が戦死した後、「武埴安彦王」の軍は敗走することになります。
  そして逃げる際に、攻め苦しめられたため、糞をもらして褌(はかま)から出たそうです。そのことから、この地を『糞褌(くそはかま)』と呼ぶようになり、それが『久須婆(くずは)』と変化していきました。
 これが、京阪電車の駅にもある「くずは」の地名のゆかりとされています。


<本題の考察です>武埴安彦について

 この記事のスタンス(仮説)としては、2世紀末から3世紀中頃までに、九州勢力が少しずつ大和盆地に進出して来たと考えています。

 『纏向遺跡から「九州系の土器」が出てこない』という否定的な情報もありますが、銅鏡を墳墓に入れるという文化の中心地が確実に北九州から畿内へシフトしていることから、そのようなスタンス(仮説)に立って考察を進めています。

 そして、その時期は7代~13代天皇の御代あたりと考えています。

 ただし、「記紀の内容そのまま」では、「3世紀頃」に「銅鏡文化の中心が北九州から畿内にシフトした」ことの説明が付きません。「記紀の内容」のどこかが一部改変されたものとして、少々強引に考える必要があります。

 歴史は勝者の都合で、勝者側の視点が語られます。「記紀」の記載も勝者の立場から改変されている可能性があります。


 「記紀」の通り『「武埴安彦」は「大彦」や「開化天皇」(9代)とは異母兄弟で、あくまで「継承争い」で「大彦」と衝突した』と考えるのが無理のない考察だとは思いますが、ここでは崇神天皇(10代)の御代に起きたとされる この「武埴安彦の乱」は「九州からの勢力シフト」と何ら関係がある伝承と考えて、考察してみたいと思います。

 「武埴安彦」は「奈良盆地の既存勢力」だったのでしょうか?
  それとも「侵攻側の勢力」だったのでしょうか? 

【仮説1:「武埴安彦」は奈良盆地側の勢力とした場合】

 「武埴安彦」が「奈良盆地の在来勢力側だった」とすると、「武埴安彦」が争ったのは「大彦」でなく、(九州などからの)「侵攻側の勢力」だったと考えられます。

木津川を拠点としていた「武埴安彦」に対して、(九州などからの)「侵攻側の勢力」が 淀川沿いに大阪湾から入ってきて、軍事衝突した。そして「武埴安彦」は戦死した。

 そして奈良盆地北部に控えていた「大彦」も奮戦虚しく、戦いに敗れ、再起をかけて北陸に逃れた。

 そして、歴史は勝者の都合で語られ、改変されていった。
「崇神天皇」の功績を増やしたかった後世の「記紀」作成者が 「大彦」の北陸への移動を「崇神天皇」の全国遠征という功績に変えた。
 そして「武埴安彦」の戦死は、反乱という一言で片付けてしまった。

 「奈良盆地の既存勢力」であった「武埴安彦」の防衛戦が「悪」のように書かれ、このように不名誉な伝承に改変したことから「御霊信仰」の対象となっていった。

【仮説2:「武埴安彦」は侵略側の勢力だった場合】

 「武埴安彦」は(九州などからの)「侵攻側の勢力」だった可能性も考えられます。
 この場合、「武埴安彦」は「侵攻側の勢力」で、「大彦」は「奈良盆地の既存勢力」だった。 そしてこの両者が軍事衝突を起こした。

 ちなみに「武埴安彦」の妻の名は「吾田媛」で、名にある「吾田」は九州地方の地名でも登場します。九州を連想させます。
 ※例:神武東征の伝承で、神武天皇は「日向国の吾田邑の吾平津媛」を娶っています。

 そして「武埴安彦」は「侵攻側の勢力」で壮絶な最後を遂げた。

 では、なぜ『糞褌』(くそばかま)のようなマイナス印象がある伝承を「侵攻側の勢力」側に残したのでしょうか?
 

【仮説3:折衷案】

  第3の仮説として、「武埴安彦」は、当初は『奈良盆地側の勢力』だったが、途中で裏切って『侵攻側の勢力』になった。]というストーリーも考えてみたいと思います。

 平和裏に少しずつ「九州勢力」が大和盆地に移住・進出を開始していた。
当初は、「武埴安彦」が九州から「吾田媛」を嫁に迎えるなど良好な関係を築いていた。

 いよいよ「九州勢力」が大和盆地が侵攻してくることが分かったときに「武埴安彦」は九州妻「吾田媛」との誼(よしみ)があり、裏切る可能性が疑われた。実際に 裏切ったのかもしれません。

 そのため、これまでは仲間(異母兄弟)だったはずの「大彦」の軍勢と衝突し戦死した。

 「武埴安彦」は大彦などの「奈良盆地の既存勢力側」から見ると裏切り者で「侵攻側の勢力」からしても早々に退場した人物でもあり、「記紀」を作成した頃には、「実名」が残っておらず、「土に絡んで開墾などに貢献し人物がいた」という伝承として残っていて「ハニヤス」をいう名をあてたものと推察します。


 上記3つの仮説は、古代に思いを馳せ、イメージしやすいように書いてみたストーリーです。実際に書いてみると、想像しやすいですね。
 そして、この3つの仮説のうち、個人的には【仮説3】が一番しっくり来るように思いました。皆さんはどう思われますか?


 もちろんこのような九州からの勢力移動に絡むことはなく、『皇子同士の「継承」争いだっただけ』という可能性も残っていると思います。

 今回は古代史の醍醐味である足りないピースを想像で埋めて楽しむ回でした。

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