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彦坐王の血統④丹波道主は 役職名か? 

 「彦坐王(日子坐王:ひこいます王)」の一族について伝承を調べています。この「彦坐王」は 開化天皇(9代)の皇子ですね。
 その息子で最も有名なのが「丹波道主」で崇神天皇(10代)の御代に四道将軍となる人物です。
 ここでは「丹波道主」の伝承を見ていきたいと思います。

<阿良須神社> 京都府 舞鶴市

(あらすじんじゃ)

御祭神:豊受大神。一説には大宮売大明神・若宮売大明神

 御由緒として、「崇神天皇の御代、丹波道主命が青葉山の土蜘蛛、陸耳御笠を征伐の際に、加護をうけた天神地祇を柳原の森に祀った」ことを起源としている。

⇒ ここの伝承では、「彦坐王(日子坐王)」でなく、息子の「丹波道主命」が陸耳御笠を征伐したことになっている。

<粟鹿神社> 兵庫県 朝来市

主祭神
 天美佐利命(あめのみさりのみこと)
 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)
 日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)

この神社には次のような伝承が残っている。
「人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。」

 ⇒この神社の伝承では、息子の「丹波道主命」でなく、父の「彦坐王(日子坐王)」が四道将軍されている。


<四道将軍としての丹波道主命の活躍>

 日本書紀には、第10代崇神天皇の御代、四道将軍を任命し、日本各地に派遣したことが記載されています。その一人に丹波道主命がおり、丹波地方に派遣されています。

 この丹波道主の四道将軍としての足跡を追っていきたいと思いましたが、【彦坐王(日子坐王)の陸耳御笠(土蜘蛛)の討伐】の伝承以外に これといった討伐などの伝承は発見できませんでした。
 つまり、四道将軍としての足跡はほとんどありませんでした。

 おそらく【「彦坐王(日子坐王)」が陸耳御笠(土蜘蛛)を討伐】したという1つの内容を、古事記では「彦坐王(日子坐王)の活躍」として記載し、日本書紀では「丹波道主が四道将軍として派遣」という記載になったものと推察します。

記紀での記載

<丹波道主は 役職名か?>

 先の<阿良須神社>などの伝承を見ると、「彦坐王(日子坐王)」を丹波道主と呼んでいるように見受けることができます。

 そもそも、「丹波道主」は、「丹波の領主」といったような「肩書・役職名」のような名前に思えます。
 そして、この「肩書」は 「彦坐王(日子坐王)」親子に使われていたのではないか?と推察します。


そうなると、「彦坐王(日子坐王)」の子である「丹波道主」の本来の名前は何でしょうか? 

 それは、岐阜県の「伊奈波神社」の御祭神を見ると理解できます。


<伊奈波神社> 岐阜県


主祭神
 ・五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
  ※垂仁天皇(11代)の第一皇子
配祭神
 ・渟熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)
  ※主神の妃君
 ・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
  ※主神の母君
 ・彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)
  ※主神の外祖父

 ・物部十千根命(もののべのとおちねのみこと)
  ※主神の功臣



⇒伊奈波神社の系図では、本来、「丹波道主」となるところが「彦多都彦」と表現されていました。
 このことから、「丹波道主」の別名が「彦多都彦」であることがわかる。


伊奈波神社の御祭神を 系図にすると

 そして、丹波道主は『古事記』では、「丹波 比古多多須 美知能宇斯王」と書かれています。「美知能宇斯王」は「道主王」のことであり、「比古多多須」(ひこたたす)が「彦多都彦」(ひこたつひこ)に繋がる名にあたる。




<この記事のまとめ>


・『日本書紀』で「丹波道主」とされる「彦坐王(日子坐王)」の子には、「彦多都彦」という名があった。

「彦坐王(日子坐王)」のことを「丹波道主」と表現するようなケースが見受けられることから、「丹波道主」は『肩書名』と推察する。

ここまでの情報をまとめると このような図になる

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