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2人の吉備津彦⑧他の関連神社と『時期の推定』

「孝霊天皇(7代)」の子である二人の吉備津彦についてこれまで調べてきました。二人の吉備津彦とは兄皇子の『大吉備津彦命』と弟皇子の『若建吉備津彦命』です。

ここでは吉備地方以外で祀られている神社をいくつか紹介したいと思います。

<宅宮神社>(えのみやじんじゃ)

 徳島県徳島市上八万町

御祭神:
 大苫辺尊
 大歳神
稚武彦命

徳島には気になる神社が多くあります。その1つ『宅宮神社』

⇒この神社では、弟皇子の『若建吉備津彦命』が祀られています。

 稚武彦命の母である「蠅伊呂杼(はえいろど)」が淡路島出身ということで、このあたりで過ごした時期があるのでしょうか?

孝霊天皇の妃の1人:蠅伊呂杼(絙某弟)
 皇子:彦狭島命(日子寤間命)
 皇子:稚武彦命(若日子建吉備津日子命)


<楢神社> (ならじんじゃ)

 奈良県天理市楢町

御祭神:
 五十狹芹彦命
 鬼子母神

⇒この神社では、兄皇子の『大吉備津彦命』が祀られています。
 吉備地方で鬼退治した『大吉備津彦命』鬼神と一緒に祀られているという不思議な構図となっていました。


「和邇氏」の拠点があった場所に位置します。
以前は東の宮山(東大寺山)に鎮座

 『延喜式神名帳』の添上郡の「奈良豆比古神社」に比定する説もあるようです。そして「日本書紀」の一説として「奈良豆比古命を五十狭芹彦命と同一視とする説」があることから祭神が「五十狭芹彦命」に変わったとする説です。

「和邇氏」の拠点にて何故「五十狭芹彦命」を祀る事となったのか?または当初「奈良豆比古命」を祀っていたとして、この「奈良豆比古」とはどういった人物だったのか?

 謎は深まるばかりですが、現時点では情報が足りないため、今回はここまでとしたいと思います。 


<御霊神社> 

 京都府亀岡市稗田野町

御祭神:
彦五十狭芹彦命
大日本根子彦国牽尊
 後の孝元天皇(8代)で「彦五十狭芹彦」の兄弟

亀岡にある『御霊神社』

⇒貞観五年(863年)に悪疫が流行り、悪疫を除くことを願って怨霊を慰め鎮めるために創建したとされています。

⇒この神社では、兄皇子の『大吉備津彦命』が祀られています。

 「悪疫は非業の死を遂げた怨霊の祟り」とされ、それを鎮めるために祀り上げたものが『御霊信仰』です。そのような対象として祀られているということは、亀岡地域では『孝元天皇』や『大吉備津彦命』が非業の死を遂げるような伝承があったのでしょうか。

 この神社の近くには「小幡神社」や「與能神社」といった『丹波道主命』にゆかりのある神社が多くあります。ちなみに『丹波道主命』は『開化天皇(9代)』の孫で、『彦坐王』の皇子です。
 
 そのため、『丹波道主命』の子孫たちが平安時代に『大吉備津彦命』を祀ったのかもしれません。


<年代の推定 少し精度を上げていく>

以前の記事で、ざっくりと年代推定をしましたが、『孝霊天皇』(7代)の「伯耆国遠征」『吉備津彦兄弟』の「吉備国遠征」などの情報を考慮して、少し精度を上げていきたいと思います。

時間の流れとしては、次の順番だと考えます。
  STEP1:『吉備津彦兄弟』の「吉備遠征」
  STEP2:『孝霊天皇』(7代)の「伯耆遠征」
 ※吉備を拠点にしないと伯耆の遠征が難しいため。

 そして、この2つの出来事は2世紀後半にあったとされる「倭国大乱」に含まれる事象と仮定して年代図を作ってみました。

各人が「50年程度」の活動期間として調整してみました(あくまで推察レベルです)

それなりに違和感のない仕上がりになってきました。


 ただし、ここで最も考察が難しいのが「倭迹迹日百襲姫命」です。この姫は孝霊天皇(7代)の皇女とされていますが、崇神天皇(10代)の御代に活躍したとされていて、また3世紀半ばに築造された箸墓古墳に埋葬されたともされています。

 「孝霊天皇」(7代)の子「崇神天皇」(10代)の御代に活躍するのは、どう考えても無理があります。


 ちなみに、これは「崇神天皇」の四道将軍に任命される『大吉備津彦命』についても同じです。『大吉備津彦命』については「孝霊天皇」(7代)の皇子であり、「崇神天皇」の四道将軍とする説話は、「崇神天皇」の偉業を増やすための創作と考えます。

「倭迹迹日百襲姫命」についてはどうなのでしょうか?
「孝霊天皇」(7代)の皇女することが誤記で、本来は「孝元天皇(8代)」「開化天皇(9代)」の皇女だったのでしょうか?
それとも「崇神天皇」の御代での活躍が創作なのでしょうか。

 次に「倭迹迹日百襲姫命」について少し追いかけていきたいと思います。

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