出雲口伝における物部伝承⑩九州勢の東征2回目-1/4
「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。
※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。
詳しくは、この書籍を御覧ください。
<2回目の東征の動機>
『三国志』「呉書」呉主伝には、黄竜2年(西暦230年)の出来事として次のように記されている。
(呉王・孫権は)将軍の衛温と諸葛直とを派遣し、武装兵1万を率いて海を渡り、夷洲(沖縄)と亶洲(九州)とを探させた。
しかし、この洲は遥かな遠方にあって、衛温たちは結局、それを探し当てることができず、ただ夷洲(沖縄)から数千人の住民を連れ帰っただけであった。
衛温と諸葛直は、詔に背いて成果を挙げなかったのことで、二人とも獄に下され、誅殺された。
つまり、呉王・孫権は呉を強くするために兵士を大量に増やそうと考え、衛温と諸葛直を派遣した。
この話が沖縄人から、九州にも伝わり、呉軍の襲来をおそれ、大和への移住(東征)を決意したのかもしれない。
<物部王国と豊王国の連合>
その当時(3世紀前半)、この集団の指導者は、ミマキイリ彦(御真木入彦)であった。
(崇神天皇(10代)のモデルとなった人物。ただし、出雲口伝によると、ヤマトにたどり着くことができず、東征の途中で没している)
ミマキイリ彦(御真木入彦)は筑後平野から宮崎県のイクメの地に移り住んでいた。そこで「阿多津姫」との間にイクメ王子(垂仁天皇11代)を生んだ。そして「阿多津姫」はイクメ王子を産むとすぐに亡くなった。
この「阿多津姫」はコノハナサクヤ姫のモデルとなった。
その頃、九州では宇佐の月神の信仰が人望があり、宇佐家を中心として豊王国が形成されていた。
前回の東征を信仰心により失敗した物部勢力は、この豊国の宇佐の月神信仰を旗印にして、大和入りを考えていた。
そして后を失ったミマキイリ彦(御真木入彦)は豊国の宇佐から豊玉姫を後の后として迎えた。
やがて豊玉姫は王子・豊彦と王女・豊姫を産んだ。
しかしながら軍勢を揃えている中、ミマキイリ彦(御真木入彦)が亡くなった。
<畿内からも 有力者を募った>
後継ぎはイクメ王(垂仁天皇・11代)になったが、まだ若すぎた。宇佐豊玉姫は、物部・豊連合王国を強化するために、各地の有力者を募った。
かつての第一次物部東征の後、近畿地方に住んでいた物部氏関係者も、次々と九州に移住してきた。
その中には、第一次物部東征の際に九州からやってきた物部勢力の子孫である「武内十千根」などがいた。
また、クニクル大王の王子であるフツオシマコト(布都押信)と 彼の息子である武内大田根や甘美内の兄弟も招かれた。
ヒボコ(天日矛・天日槍)の5世孫である「タジマモリ」(田道間守・但馬守)の勢力も味方についた。
<八幡の名の由来>
魏から貰った「幡」を併せて8本、戦勝を祈るために並べたので、宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになった。この八幡は軍旗であったので、その後、「八幡」の神は【武神】と見なされるようになった。
タジマモリ(但馬守・田道間守)は出雲王国を攻めると称して、黄色幡4本を持って軍船に乗り、日本海を東へと向かった。
東征軍の主流は、物部イクメ王が率いる軍勢で、瀬戸内方面を進んだ。
しかしながら、豊国郡軍が安芸の国に留まっていた248年頃に 女王「宇佐豊玉姫」が没した。その遺体は「安芸の宮島」に仮埋葬された。
遺骨の一部は、宇佐神宮に移され本殿の「ニの御殿」に宇佐王家の先祖とともに祭られている。
(つづく)