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古代天皇の系図を読み解く③7代 孝霊天皇

【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。ここでの最大の疑問は、「卑弥呼」と「古代天皇」の関係です。

 そこのため、ここでは7孝霊天皇に関する記紀の記載を確認します。

【7代天皇:孝霊天皇】

『7代孝霊天皇の
宮の伝説地は奈良県磯城郡田原本町黒田 (法楽寺境内に石碑あり)

7代・孝霊天皇が宮を築いたとされる場所

 これまでの天皇と少し傾向が異なり、大和盆地の南側から、中央側に移動して宮を設けます。『唐古・鍵遺跡』の近傍(約1.5km西側)に位置します。『唐古・鍵遺跡』との繋がりを大切にしたのかもしれません。


<孝霊天皇黒田廬戸宮跡と孝靈神社(廬戸神社)>

  ここは訪れる機会がありましたので追記します(2023.9.24)。

『黒田廬戸宮跡』は法楽寺にあり、そこにあった『廬戸神社』は南東方向に移設されている
『黒田廬戸宮跡』はただの空き地になっています。


『黒田廬戸宮跡』がある法楽寺


孝霊天皇の第3皇子には 桃太郎伝説のモデルとなった「吉備津彦」がいる


少し離れたところに移設された 孝靈神社(廬戸神社)



孝霊神社の由緒書

脇立(わきだち)という変わった表示があります。
これはお寺の用語で、脇侍(きょうじ・わきじ)とも言い、中心となる仏様の左右に控え 補佐する役割をもった仏を指す。


明治の「廃仏毀釈、神仏分離」までは、孝霊天皇も「孝霊天王」とされていたようです。


7代孝霊天皇の御陵』
 伝説地は、奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目の丘陵。

 ただし、「古墳でなく単なる丘陵である」する説が濃厚です。



『7代 孝霊天皇の系図』

「古事記」や「日本書紀」の記載を根拠に7代天皇の系図を示します。

7代天皇・孝霊天皇の系図
※「記紀」にも誤記や捏造・改変がある可能性は十分にありますが、
記紀の内容をそのまま記載します。

=== === === === ===
【参考情報】孝霊天皇の后『細媛命(ほそひめ、細比売命)』

『日本書紀』でも『古事記』でも磯城県主(または十市県主)大目の娘。
『日本書紀』の別説では、「春日千乳早山香媛」。
  また他の別説では十市県主祖の「真舌媛」。
=== === === === ===

「磯城県主」から后を娶り、その后が産んだ「皇子」を後継者にしている点は、これまでの天皇と同じ路線です。

 しかし「淡路島」から「妃」を二人娶るという行動が、これまでの天皇と少し違っています。 

 そして、子には「桃太郎」のモデルとなる『大吉備津彦命』『若建吉備津彦命』の兄弟がいます。

 さらには「卑弥呼」候補で「纒向遺跡」の「箸墓古墳」に埋葬されているとされる『倭迹迹日百襲媛命』が娘にいます。いよいよ「纏向遺跡」の影がちらついてきました。


<鳥取の神社に伝承される孝霊天皇>

  孝霊天皇のである「吉備津彦」などは岡山県の神社に祀られ、伝承を多く残していますが、孝霊天皇自身も鳥取県にいくつかの伝承を残しています。

 例えば、大山の北側には『孝霊山』があり、その麓には『孝霊天皇宮』とされる『高杉神社』があります。

 他にも『孝霊天皇』御祭神とする神社がありますが、これら神社の伝承によると、「孝霊天皇がこの地域に遠征してきた」とされています。『古事記や日本書紀には記載がない』のですが、「孝霊天皇」が実在し、活動していた足跡が残っているものと考えます。

 詳しくは、いずれNOTE記事に書いていきたいと思います。


<今回の記事のまとめ>

7代・孝霊天皇は、これまでの天皇と同じく「磯城県主(恐らく鴨一族)」から妃を娶り、その子を跡継ぎにしていますが、皇子たちとともに、鳥取県などの神社の伝承に残されることになります。

<ここからは考察です>
【3世紀中頃の『実質的な日本の建国』(九州の「銅鏡の文化」が大和にシフト)】に関連しそうな記録を探していますが、従来の天皇(大王)の流れを組み「鴨一族」や「尾張一族」と繋がりのある「7代・孝霊天皇」は、「鳥取県」に自ら遠征をしていました。
 
このように大和地域以外で足跡を残す天皇(大王)は、初代天皇を除く2代から6代の天皇にはなかったと思います。

 そのような行動により、大和盆地にできた軍事力の隙をついて、北九州の勢力が大和盆地に入ってきたのかもしれません。

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