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大彦命と武渟川別命⑥中部エリア

 「大彦命」と「武渟川別命」の親子について伝承を調べています。大彦は 孝元天皇(8代)の皇子ですね。

 ここからは、太平洋側を東征した「武渟川別命」を見ていきます。

 まずは岐阜県南部にも「武渟川別命」を祀る神社がありますので、ここで紹介したいと思います。


<津神社>

所在地:岐阜県 岐阜市 曽我屋 字屋敷1631
御祭神:縣須美命(あがたすみのみこと)
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
御由緒:推古天皇之御宇、勢州安濃津(三重県津市)より勧請という。

  創祀不詳と雖も、一説に延喜式神明町内「美濃國」方縣郡二座の内「方縣津神社」。 
「美濃國」神明帳「方縣郡」十一座の内「方縣津明神」は当社なりと云ふ。

 「美濃國古蹟考」に「方縣郡」「方縣津神社」在御麻津庄 曽我屋村 号「津大明神」近隣七邑当社を以て産土神と為す。神前池謂ふ。夕部池を御手洗と為す云々。古老伝 曰く、当社は【縣須身命】、【武淳川別命】也。

  日本紀崇神紀10年秋9月朔日遣【大産命】於北陸、【淳川別命】於東海云々。【武淳川別命】この時同在此の地 殺後祭 崇当社云々。

  「市岡猛彦」二社考稿曰く、「方縣津神社」は八代村また曽我屋村にありて、「津大明神」と称す。且つ曽我屋村 農関谷伊は元津神社社務人が家々あり。
 「方縣津神社」累縁記曰く、当社の濫觴は【崇神天皇】【阿賀田須命】を中央に祀り、左には【景行天皇】、右には【武恕賀和命】を崇め奉りて「方縣津神社」と唱ふ云々。 右に依りて考ふれば、式内神社ならんかと思はる。

 ※「武恕賀和命」が「武渟川別命」とされているようです。

<ちょっと考察です>

 このあたりを経由して、「武渟川別命」は東に向かったものと思われますが、なぜ、この地に「武渟川別命」が祀られているのか、由来を調べきりませんでした。





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以下は、ご参考まで。
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※岐阜県には似た名の以下の神社がある。
 こちらの神社は、「彦座王」やその子「丹波道主」系列の神社でした。


<方県津神社> (かたがたつじんじゃ)

所在地:岐阜県 岐阜市 八代3丁目13番1号
御祭神: 丹波之河上之摩須之郎女之命
     (たにはのかわかみのますのいらつめのみこと)
御由緒:
 【
日子坐王】一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。【日子坐王】の皇子【丹波道主命】は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名【彦多都彦命】(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社『方県津神社』御祭神【丹波之河上摩須郎女命】、その御子【日葉酢比売命】又その御子【五鐘五十瓊敷入彦命】は(伊奈波神社)妃【淳熨斗媛命】(金神社)、その御子【市隼雄命】(橿森神社)及び【擁烈根命】(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。

 当社は創立年月日不詳なるも、日本書紀に美濃國『方縣郡』式内社従二位「方縣津大明神」は中福光村八代の郷に鎮座すとあり。美濃國神明帳に従三位「方縣津明神」とありて、祭神は【垂仁天皇子】、【日子坐】の子【印色之入日子之命】の外祖父、【丹波比古多々須美和能字斯王】の姫【丹波之河上之摩須之郎女(縣氏三女)】を主神とし、之に縣氏の祖神を合せ祀りしものにして、是れ明治神宮誌料により明らかなり。
  (中略)
 往古当所は伊勢湾の海水爰に浸入し、大船の往来繁く、肩と肩を接する程の賑わいなりし故肩々津港と称され、後「方縣津」と転訛し、本社も「方縣津神社」と称したるもののごとし。
 昭和32年12月7日縣神社を方県津神社に変更。尚、当神社は五世紀頃の古墳上(円墳直径40m高さ4.5m)にあり、かつて北側と東側に周濠があった。この古墳は通称「枡塚」と言っているが、これはご祭神「丹波之河上之摩須之郎女之命」の「摩須」が転訛したもので、「摩須塚」が正しいと思われる。

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