海の顔
西乃華乃
夕陽が反射して、海は赤く染まっていた。
水着を着ていた時はあんなに名残惜しかったのに、シャワーを浴びて服を着ると、もう海に入る気なんて起きないのはなぜだろう。
数時間前には一面パラソルが広がっていた海水浴場には、寂しげな砂浜しか無かった。
「帰りたくないん?」
「別に。ベタだけど、夕焼けと海って綺麗だなーと思って」
更衣室から出てきた姉ちゃんは、俺と一緒になって柵に寄りかかった。
その手にはアイスが握られていた。
「あ! 姉ちゃんだけアイス食いやがって!」
別に観光地らしい凝ったものではなく、そこら辺のコンビニやスーパーで売ってそうな普通の棒アイスだ。
それでも、姉だけ食べていることに変わりはない。
「自分のお金で買ったもーん。そこに自販機あるよ」
「いくら?」
「130円と150円。これは安いやつ」
ポケットの中から小銭を引っ張り出すと、100円玉が1枚と10円玉が2枚だけだった。
なぜ財布じゃなくてポケットに入ってるのかと少し考えて、今朝、サービスエリアでよく分からないキーホルダーを買ったのを思い出す。
「10円足りねぇ」
「変なキーホルダーとか買ったせいでしょ」
「……海って広いな。生命が生まれたっていうのも納得だわ」
「唐突にどうしたん? 拗ねてんの?」
泳いでる時にはすごく遠くに感じたブイが、とても近くにあった。
昼間遠くに見えた謎の陸地は、さっき日本地図を見たらとても近くにあった。
家からここまで高速で何時間もかかったのに、太平洋どころか日本海さえも、それより距離があるのだ。
「10円貸そうか?」
「いいよ別に」
「食べたかったんでしょ?」
「……じゃあ食べる」
10円を受け取ると、自販機があると言われた場所に走る。
すると、ちょうど荷物を車に積み終わったらしい両親がいた。
「帰る準備できたー?」
「俺アイス食べる」
「えー今から? じゃあ早く食べてね」
オッケーをもらうと、長い影の中に立っている自販機に小銭を1枚ずつ突っ込んだ。
――――
都市部より10割増しで輝く太陽の光を、海は強く跳ね返していた。
なぜか、たった1回だけ来たことのある海に来ていた。
ブイの位置、岩場の形、端に見える半島の大きさ、遠くに見える謎の陸地。
どれもが記憶通りのようで、記憶とは違うような気もする。
「ふぅ……」
死んだ姉の影を追いかけて、特に縁もゆかりもない海水浴場に来てしまったのはなぜだろうか。
部活やら受験やらで、あれが最後の家族旅行になってしまったせいだろうか。
借りた10円を返せずじまいだったからかもしれない。
「どうされました? 大丈夫ですか?」
ボーッと海を眺めていると、不意に声をかけられた。
麦わら帽子の少女が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「いや、海を眺めてただけですが」
「いやいやいや、1時間前にここ通った時もいましたよね? こんな炎天下で長時間立ってたら熱中症になっちゃいますよ?」
そう言われた瞬間、頭がボーッとして喉が乾いてきた。
額や髪の毛が熱くなっていて、汗がダラダラだったことに気づいた。
鞄から水のペットボトルを取り出すと、勢いよく飲み干す。半分以上残っていたのにあっという間に空になった。
「あっちに日陰あるので、移動します?」
「……ありがとうございます」
少女に案内されるまま、近くの林の中へと入り込んでいく。
そういえば、この子は誰なのだろう。
地元の高校生だろうか。もしかしたら大学生かもしれない。
しばらく進んだところで、少女は切り株を指さした。
切られてからそれなりの時間が経っているようで、端っこにキノコが生えていた。
「座ってください。……観光ですか?」
「ええ、まあ」
「泳がないんですか?」
よっこらせ、と腰を降ろしながら適当に返すと、直球の、少なくとも俺にとっては直球の質問が飛んできた。
「泳ぎに来たわけじゃないんで。ただ、ここに来たかった」
「そんな人もいるんですね」
少女はしつこく質問してくるでもなく、ケータイをいじるでもなく、ただ俺をじっと見つめていた。
「何?」
「いえ、別に」
そして、2人とも黙った。
セミの声がうるさいのに、辺りを静寂が支配していた。
少女のワンピースが涼しそうだな、というどうでも良いことを考える。
「……この前、姉ちゃんが死んだんだよ。それで、家の中がすごく暗くてさ。なんか嫌になって飛び出して、気づいたらここの海に来てた」
「思い出の場所ということですか?」
「いや。小学生の頃、たった一度来ただけ」
ふーん、という反応だった。
慰めようとも、話題を変えようともしていなかった。
「……あー、じゃ、俺はもう行きます。声かけてくれてありがとうございました」
「泊まってくなら、『渚の潮旅館』がおすすめですよ」
また適当な返事をして、俺は立ち上がる。
それから、今後のことを何も考えずに林を出た。
――――
太陽の光を月が反射し、それをまた反射して、海には揺れ動く月が浮かんでいた。
ここにやって来たら、思い出せなかった思い出がどんどん溢れ出してきた。
それをもう忘れないよう心に留めたり、口から出したりしていく。
「ここはね、パパとママが初めて出会った場所なんだよ」
「高校生の時だっけ?」
「ママはね。パパは大学生で、夏休みの旅行中だった。海をずっと眺めてたら、『熱中症になりますよ』って声をかけられたんだ」
愛娘の髪をそっと撫でる。
あの時は、自分がこんな未来を歩むなんて思ってもみなかった。
「パパ、熱中症は気をつけなくちゃダメだよー! 注意されるなんて、何してたの?」
「パパは昔からボーッとしがちだったからね。その時も海を眺めてボーッとしてた」
「よく注意されてるよね! 『掃除するから、ボーッとしてないで手伝って! それか出てって!』って」
そうだ、そんなこともあった。
皿洗いも注意されて、風呂掃除でも注意された。
娘から見たら頼りない父親なんだろうけど、事実そうなんだけど、その言葉の1つ1つには独身時代からの思い出が詰まっている。
「……ねぇパパ、大丈夫?」
「別に大丈夫だよ。……それより、ほら、星が綺麗だよ。ママは星になるんだって言ってたろ? 探してみなよ」
「どれだろー、ママは赤が好きだったし、あの星じゃない?」
「どれどれ? 白い星が2つ並んでる右?」
「そっちじゃなくて――」
大丈夫、ではない。
大丈夫じゃないから、思い出の詰まったこの場所に、大好きなこの場所に、娘を連れてきたのだ。
結婚してから義実家の近くに家を建てたから、車に乗れば数分で来れる距離にある。
けれど、ここは何回何十回何百回来ても、いつも俺の心を晴らしてくれた。
海なし県で育ったせいなのか、海を見ると嫌なことも忘れられるのだ。
「寒くない? そろそろ帰ろう」
「えー、まだ星見たい」
「また来れるから。ママも、風邪引くところは見たくないと思うぞ?」
「うん……」
家族を失った。
だけど、俺にはまだ家族がいる。
娘の手を強く握りしめると、砂を踏みしめて駐車場へと向かった。
――――
海はいかなる光を反射することもせず、ただ灰色の雲の下にあった。
ビニール傘が大きな音を立てる中、俺はひたすら待っていた。
やがて、遠くに人影が浮かび上がる。
俺と同じように傘を差した、髪の長い女性。間違いない。
「すみません、遅くなりました」
反射的に「俺も今来たところなので」と出かかるが飲み込んだ。
こっちは数十分待っている。
もっとも、約束の時間はまだ先なのだが。
「娘さんのこと、本当に残念でした」
「ええ。今回お呼びしたのは、他でもない、娘の件です」
「だろうとは思っていました。……あの、さっきメッセージを送りましたけど、雨なのでどこかの店で話しませんか?」
提案は無視する。
ここでなければ、この海の前でなければならない。
「出頭をお願いします」
「なっ……! は、犯人は捕まったんですよね? 実は私が犯人だと?」
「殺人ではなく、誘拐です」
「誘拐なんてしてませんよ!」
下校中に声をかけられ、ついて行った先で、ということだが、日頃から知らない人間にはついて行かないように言っている。
そして、警察によると、無理矢理連れ去った可能性は低いだろうとのことだ。
ならば。
知っている人間について行ったに違いない。
誘拐だか殺人教唆だか共犯だか知らないが、少なくとも娘の死の原因を作ったのはこの女だ。
「あの子が、ホイホイと知らない人の車に乗ると思いますか?」
「私も信じがたかったですが、犯人がそう言っているらしいですし……」
「あなたを庇っているのではなく?」
「その点は、警察にも散々調べられました。その上で、こうやって自由に動けているんです。娘さんを失って辛いのは分かりますが、変なこと言わないでください」
帰りたそうにムズムズしているのを目の端で捉えながら、俺は海を見た。
何十回も見た、雨の日の海でしかなかった。
「俺は別に、あなたが捕まらなくても、捕まって20年30年の判決を受けようとも、どちらでも良いんです」
「え? 出頭しろと言いましたよね?」
「ただ、あなたと海が見たかった」
俺の大嫌いな海を。
心の底から憎い海を。
この人と一緒に眺めたかったのだ。
「はぁ? 何言ってるんですか? 私、もう帰りますね」
早足で駆けていく女の背を、じっと見つめる。
段々と雨に覆われて、やがて見えなくなった。