無題〈夢〉

 「アダムがいて、いたとして、彼はリンゴを食べて、彼は裸で。羞恥を感じる感覚器は彼の脳に元から備わっていたけれど、それが初めて服を着ていない事に作用したのはそのリンゴのおかげで、でも裸体を恥ずかしむ時に使われた脳の領域は、その役目は別に彼の裸体の羞恥を知らしめる為だけに使われていた筈は無い筈で…リンゴは何かの比喩?赤は血の色、太陽の色。それに・・・」
 「なにセンチメンタルになってるの?君のそういう所嫌いじゃないけど・・・今は集中してほしいな・・・私に。」
 「赤は、赤・・・赤・・・丸いリンゴ。赤いリンゴ、丸い赤い・・・。」
 「もう!」
 樹木。根を張り大地に寝、瑞々しい葉を実らす。悠々と伸びる。森の風景。それが私の心象なり快楽の湧き泉のほとりなら、エデンは冷たく芝生を濡らしてケモノ道の脇にあるのだ。死臭の仄かなあぜ道を忘れさせない肉感の巨塔を登るうちに、私の心は開放されてゆく、頂上の監獄を目指す今の胸の内にある可能性のドグマが私の罪だ。捕らわれる。
 「あたたかい?」
 「・・・」
 「いいのよ」
 「乳首・・・」
 「気になるの?」
 なんだろうな、なんでだろうなって
 「眠いの?」
 「・・・小さい頃、家の庭に大きな木が生えててね」
 「また違う事考えてる・・・」
 「こうやってね、耳を当てるとね」
 「あん」
 「水の流れてる音が聞こえたんだ。凄い音がしたんだ。僕の足元のずーっと下から、たくさん水が上がって来てたんだ。」
 「聞こえる?」
 「もうちょっと・・・」
 「いいのよ。」
 「・・・おっきい。たくさん流れてる。すごく近い。うんと耳元で、あったかい。」
 「・・・その音はね、あなたに聞いてもらう為に流れてるの、ドクドクっていうのはね、私の為の音。私が生きるために、心臓が動いてる音。その心臓が流した血の音は、ゴゴゴって音はね、あなたに聞いてもらう為に、流れてるの。」
 「」
 「     」
 「」
 「     」
 「」
 「     」
 「複雑な音がする。あの木の音とは違う。なんかちょっと、気持ち悪い。」
 「まぁ!」
 「ごめんね。」
 「いいのよ。・・・それにね、」
 「」
 「その音は多分、あなたの音よ。」
 「どういうこと!?」
 「ほーら!!」
 「うわ!」
 「今度は私が上ね!」
 「・・・」
 「驚いちゃった?怖い?ほらほら!今度はあなたが枕よ。」
 天井照明の奥に光る鏡面の歪みが映す僕はまるで陸に打ち上げられた深海ぎょのよ
 「海の底」
 「」
 「ホントに聞こえるわ。ゴゴゴゴって・・・凄い音。お魚になったみたい。海の底ってこんな感じなのかな。深い、深ーいところに引っ張られていくような、あなたの中に入っていけるみたいで、」
 「その!えっと!」
 「静かにして!ビックリするでしょ。」
 「ごめん」
 「いいのよ」
 「         」
 「    」
 「         」
 「      」
 「         」
 「        」
 「         」
 「やっぱり、」
 「・・・なに・・・?」
 「私の音が聞こえる。鼓動が2重に重なってる。きっとこの凄い音も、わたしたちの血の音が重なってるから凄い音に聞こえるのよ。」
 「・・・僕も聞きたい。」
 「どーぞ!」
 「うわ!いて!」
 「ほーら。おいで。」
 !
 「ゴツンて聞こえた!」
 「それはあなたが勢いよく頭を当てたからよ。」
 「ごめんね。」
 「。聞いて・・・」
 「あったかい・・・好き・・・」
 「もっとくっ付いたら、もーっと深くに、潜れるかもね。」
 「         」

 登った先には、美しい景色があった。私はこの手に乗った枷が、私の罪だと心から疑わなかった。足元ばかり見ていた私には眩しすぎた。この景色が、この檻に、死臭は遠ざかり、芝が私の足を濡らすことも叶わなくなったか。
 もう何日何夜、私はここに座り続けただろう。ただ美しく、肉感の塔に腹上の灯が灯った蝋燭の暗喩としての私はただただ燃え尽きるのを待つ。待つばかりが私の贖罪だと決めつけている。
 嫌に黒い。この塔の頂上に来て初めて、空が色を変えた。私の前にまるで一帝国のことごとく急伸し空の大地を侵略せんとするかのような黒雲がみるみる立ち込めた。
 雨だ。忘れていた。地上には雨が降っていた。芝生が濡れ、道はぬかるみ、木が水を吸い上げ、リンゴが生った。忘れていた。私の罪をだ。
 これが罪だった。私の前に現れたこれが贖罪か。私の灯を消しに来たのか。塔を濡らし、その震えで私を蹴落とすのか。それとも、
 救いか。
 私は立ち上がり、蝋のように固まった身体がひび割れるのも省みず黒雲に飛び込んだ。身体はたちまち潤うより先に強い雨に崩れ溶け、雨になった。どれくらい座り続けた塔を勢いよく降り落ち、地面に打ち付けられ全身の骨の砕ける音を聞いた。粉々になって完全に溶ける。水になる。あらゆる体験をする。芝生を濡らし、泥を作り、木に吸い上げられ、リンゴに生った。
 何日何夜、私は大地を湿らせただろう。ただ清らかに、贖罪と救いに燃え尽きた純粋な水そのものとしての私はただどこかに流れ着くのを待つ。心地よい赦しと痛みを受け入れる。
 青い。いつからか川に合流した私たち、私、それまで大地に押しつぶされるこの重圧も心地よい贖罪の埋葬と心に決めていた私のからだ、心との境界などとうに濾過された身体は冷たく激しい濁流に鞭を打たれながら、気付けば海に流れ着いた。無間の静けさが身体中の傷口に塩を塗った。塩は瞬く間に浸透し、私は潮水になった。昼の日差しが私を燃やす。塔で燃えている時の方が涼しかった。闇夜の海に浮く強い月光が私の傷口を晒し上げた。
 私は海流に乗り、気付けば海のふかく深く、深海に堕とされた。夜の月も凍えるほどの見たことの無い深い闇、どんどん深く暗くなる、どんどん沈む。沈む。沈む。沈む。
 「沈む・・・」
 誰かいる。闇の中に、誰かがいる。私の目の前、耳元、胸の前、両肩を抱くように。
 「君も・・・」

 「そうよ・・・」

 「あたたかい」「あたたかい」「それはあなたの温度」「私の温度」「あなたの中にある温もり」
 「あたたかい」「あたたかい」「これが私の温度」「あなたの温度」「私の中にある温もり」
 「         」
 「         」
 「         」
 「         」
 「         」


 「どう・・・?」
 「聞こえる?」
 「もしもーし?」
 「・・・」
 「あったかい。」
 「・・・どんな夢見てるのかしら。」
 「まぁ、いいか。おやすみなさい。」

 「沈む・・・」

 「・・・」
 「君も・・・」
 「そうよ・・・」
 「・・・」
 「・・・」
 そっと彼を起こさないように、胸から膝上に移す。脚の肉に沈み込む横顔を撫でながら月を眺める。
 開いた窓、乾いた風に乗る血の残り香は、木の眠りを起こし、獣たちを巣に帰す。

 雨が来る。

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