無題

 美しき取捨選択。ゴミと宝の境界線。胸に抱く赤子の息づかいは消え入る蝋燭の火のように切なく儚かった。
 私の知る限り最も慈しみ深い目を浮かべたマリーは、私の聞いた中で一番静かな彼女の声を以て私に囁いた。
 「塔の上に布があるわ。それを持って降りて、丘の上で焼いてちょうだい。」
 彼女の声にはもうすっかり恐怖の青さは消え、真っ白なシルクに刺さる鏡面の縫い針の如く澄みきった強靭な意志をありありと私に見せつける。
 「いい。マッチはここにあります。この子が産み落ちて一番最初に見たのと同じ火です。この火には神聖な力が籠っています。」
 全く今の私にはこれを信じない手はない。これほど暗い夜の中で私がすがれるのはもうすっかり彼女の言葉と眼前で息をする赤子の魂だけだったのだから。
 「わかったよマリー。君のそっくり言う通りにしよう。君にそっくり、私の心と気持ちすら、君に従おう。もう私の意志にはどうにもできなくなった。この夜に敵う力を持っているのは、もう君とこの子だけだよ。マリー。」
 「もう一度契りましょう。さらに強く、固く、私たちの居場所を見失わないように。」
私とマリーは古井戸を覗き込むような、深く深く、そして冷たい接吻をした。とても、永遠にすら感じる程に長く感じられる別れの前夜としての交わりは、私の脳裏に1つのイメエジを教え込むのだった。
 月に照らされた草原の広場。私が登ろうとする小山の壇上は一際白い光のカーテンに囲われ、その中央には一匹の羊と頭上の釣瓶が吊られている。そうか、ここは古井戸の底か。泥で汚れ、石のように重くなった脚を引きづりながら小山を上がった。ゴツゴツとしたカサブタまみれの指で額の先に垂れる瓶に触れようとした瞬間、羊は目を見開き私の手を噛みちぎろうとした。小指と薬指はもうすっかり羊の口の中で奥歯に擦り潰され、牙は中指と人差し指の間をカシメの如く貫いていた。私の手に初めて開いた穴からは生暖かい羊の唾液が沁み込み、その腐ったヌメリに病の予告を受ける。
 「私が恐いか。」
 羊が私の手を嚙み砕きながら器用に口を動かした。
 「あぁ、恐い。」
 羊が見開いた眼でギロギロとこちらの瞳の奥を透かし見ようとしてくる。
 「なら引き返せ。貴様は私にこの手を寄越せ。貴様をこの風吹く丘から解放してやる。」
 伸びる手の方の足にグッと力を入れ、そしてまだ力の入る中指と人差し指をググっと瓶に向かって伸ばした。
 「聞け。お前の愚かさを呪う前にお前に呪いを選ばせてやる。」
 瓶にからがら指を引っかけ胸元に寄せると、瓶の中から充満した葡萄の腐臭と真っ赤な液が大きく波打ち、溢れた分がシャツと鼻腔を染めた。
 「欲しければ飲み干せ。さすれば中身はお前のものだ。ただしこの手は貰う。」
 「クソ!詐欺師め!」
 「黙れ!貴様のような人に選べるものか!己の穢れた身体に纏わり着く忌々しい土の鎧の醜さを思い知るがいい!」
 「私は強い男だ!私はこの酒を飲み干し、得るべきものを得て、お前も殺す!」
 「強欲な忌々しい人間風情が!己の醜く歪んだ魂を潔癖と見紛う程に愚かな脳みそを天に晒す覚悟もない。一生母親の胎の中で指を咥え寝息を着くようなその軽薄な心のどこに信念があろうか!」
 「黙れ!貴様の言葉に負けるものか!」
 「食ってやる!」
 「ほざけ!」
 私は瓶をグイと口元に引き寄せ。一気に葡萄酒を飲み干した。すっかり濁った味で、毒虫の血を煮詰めたように苦く渋い酒が洪水のドブ川の如く喉をゴロゴロと流れていった。喉の焼けるような熱さはやがて全身の端々に広がり、とうとう噛み付く牙の穴にまでその熱は迫った。途端羊の口の中、歯の間という間から降り注ぐ月の光を凝縮したかのような光が漏れ、傷から乳が噴き出した。
 「貴様!」
 羊は堪らないように口を離し、それを見計らって顔の側面を力いっぱいぶん殴ってやった。羊は驚いたようにたじろぎながら吹き飛んでゆくと、怨嗟の籠った目でこちらを睨んでくる。よく見れば羊の真の姿は山羊であった。
 「貴様は稀代の大愚者だ!お前は死後、地獄にも天国にも行くことはできない!ただただ濁った世界の泥として永劫恨まれ、憎しまれ、死ぬこともできずに世界にへばり付く。この世界で最も醜いものになるんだ!」
 「黙れ悪魔め!貴様の言葉なぞ響かぬ!私はこの溢れる乳の祝福を受けた!貴様のような悪しき者には屈しないぞ!」
 飲み干した瓶には乳が溜まっていた。穢れ切った喉を癒すように瓶の中の乳を飲み干すと、すっかり視界は晴れ、喉は聖歌を伴奏する境界のオルガンの如く悠々たる叫びを上げることができた。
 「貴様・・・。」
 「どうした悪魔よ。私を堕とす言葉がお前にあるか。」
 「貴様は愚か者だ!」
 「聞こえぬな。」
 「貴様は愚か者だ!」
 「はっきりと言わぬか腰抜け!」
 「愚か者め。その報われた身体を引きづるがいい。」
 「立ち去れ!」
 瓶の底にキラリと光が見える。手に取るとそれは、金色に輝く笑みを浮かべた赤子の頭だった。赤子はこの世のあらゆる生に祝福を受け、またそれらを祝福するように落ち着いた笑みを浮かべている。
 「おぉ、この世で最も愛おしい我が子よ。私を祝福したまえ。私をこの風吹く丘から導き・・・」
 風が止んでいる。辺りは死んだような静寂に包まれている。この暗闇を私は知らない。私は今までの人生を、かくも勇敢に歩み、そんな中には恐怖も忘れて夜中を駆け抜ける事もあった。しかしこれほど暗い夜はなかった。
 「月は・・・あとどれくらいでこの夜は明ける?」
 空を見上げて初めて、この夜に月が無いことに気付いた。私が見上げているのは夜空ではない。まるっきり本物の闇なのだと、その全てを飲み込み噛み砕こうとする久遠の空に暴力的なまでに気付かされた。
 「私はいったいどこにいる。」
 全身に乳と血と葡萄酒の混ざった鼻の曲がる腐臭を纏わせながら男は初めて自身の虚勢を自白した。
 「ここはどこだ。」
 男の命から発現するあらゆるものは全て一瞬の猶予もなく闇に吸い込まれて行く。男は自身の命の炎だけを頼りに叫び続ける。しかしその輝きは全てこの闇の物であり、完璧に秘匿されてしまったように思えた。
 「私を帰してくれ!!」
 「聴け!!!!!!!」
 男の耳にやっと風の無い丘の唸りの他に音が飛び込んできた。その声の主は今の男にとってもっとも身近で耳に残っているものに違いなかった。
 「私はどうすればいい!?」
 「祈れ。ただ純粋に。己の強欲と無知を懺悔し、後に残るお前の命だけの真の祈りを、ただひたすらに叶うまで祈り続けろ。お前が永遠に祈り、お前の祈りが悪魔の魂に打ち勝った時にやっと、お前の祈りは聞かれる。それまで絶えろ。お前にはもうそれしかできなくなってしまった。」
 「そうか・・・。」
 突然腕が走る馬に手首を繋がれたかのように重く、引きちぎれそうなくらいの力を感じた。手を見るとそこには祝福された赤子の首が乗っている。赤子の口は下弦の三日月の如くグニャリと、粘土にナイフで切れ込みを入れたかのような深い笑みを浮かべ、卵を押し付けたように大きく窪んだ目からは赤い涙が流れていた。
 「よりにもよってお前は赤子を抱いちまった。それが病に伏した死にかけの婆だったのなら、まだお前には人並みの心の救いがあったかもしれない。でもお前は飛び切りのもんに当たっちまったんだ。」
 「あぁ・・・。」
 「俺にもお手上げだ。俺にはもうお前の手も、心臓も、何も食える所は無くなっちまってる。だからお前にはもう祈ることしか教えられない。」
 「私は・・・」
 「この先永遠にも思える時間をかけてその言葉を骨に刻め。お前が祝福された暁には必ずお前の骨を取りに来よう。せめて骨は森で焼いてやる。」
 「・・・。」
 「じゃあな。せめて残った心になけなしの平穏と愛を飼い、ただ残されたたった一つの赦しの可能性に命を燃やせ。」
 山羊は後味が悪そうに奥歯をもごつかせながら闇を一寸開いた森の入口に消えていった。
 「ねんね。ねんね。冷たくお眠り。私のかわいいかわいい子供。」
 灯台の光も刺し込まない暗い暗い塔の一室で、女は氷のように冷たい白い指を眠る赤子の頬に沿わせた。
 「身体が温まってしまうわ。しっかりに布に包まりなさい。」
彼女の指先で死んだように眠る赤子のまつ毛に触れる深紅の爪には、水に滴る絵具のくゆりに似た炎の残滓と煤臭い男の残り香が漂っていた。

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