旅にくちづけを

――――――――――目が覚めまして?


 ハッとする。
 私は、寝ていた。いつも目覚めは突然。ここは、病院。病院?
 「お目覚めになりまして?」
 誰だ。首をグイと右に捻じり、捲って潰れていく右耳を枕に押し付けてでも、カッと目を見開いて、その声の先、持ち主の口元を辿った。
 「お元気?かしら。」

 (やたら色白肌の、派手にフリルの付いた黒蟻の群れのようなドレスを身に纏ながら、長い睫毛の眠そうな目をこちらに向ける美人が座っていた。)彼女は先程まで読んでいたであろう本をチョコンと、まるでテーブルクロスのように膝に敷かれた真っ黒なスカートの真ん中に置いて、両手の指先で押さえていた。真っ白で長い人差し指が蜘蛛の脚のように関節の輪郭を浮きたたせながら、さっきまで読んでいたページに差し込んでいる。その指は彼女の甘い眼差しに反して、まるでよくも読書の邪魔をしてくれたなとでも私に訴えているように小さく震えていた。
 「ここはどこです。」
 「私の知り合いの病院ですの。あなた、私がお家に伺った時、自分の書斎で倒れていらしたのよ。覚えていらして?」
 「あぁ、なるほど。覚えてないな。」
 「あぁ全く、馬鹿な人、ご自分の体調にもう少し敏感になるべきよ。全く、起きたら起きてるだけ机に向かって、いつも気絶するように寝るのよ。あまつさえ今度は本当に倒れてしまうだなんて。」
 「あぁ、そうだね。」
 「もう!人が心配しているのに!あなたは小さい頃からずっとそう!もう!」
 「うん。なるほど。」
 「心配したわ。」
 「うん、ありがとう。ところで、この部屋には何か、物を書けるものは何かない?」
 「もう!私の言う事が分からないの!あなたはしばらく休んでなさい!」
 「あぁ、うん。・・・おっ。それ、その本、少し見せてくれないかな。」
 蜘蛛の脚のように自分を挟むページの紙を爪でカリカリと小刻みに引っ搔いていた人差し指がピタリと止まると、押さえていた指先を浮かせた彼女は自分の膝上に置かれた深紅の表紙をジっと見下ろしていた。本を見つめる彼女の目は意外な程大きく見開かれ、その瞳にはまるで日の差す湖面の輝きを反射したような純粋な幼さが映っていた。
 「別に、構わないですけれど・・・。」

 手元に真っ直ぐ差し出された文庫本ほどのサイズの本は彼女の長い指に摘ままれとても小さく見えた。
 「ありがとう。どれどれ。あぁ、やっぱり・・・。うん・・・。この本は面白い?」
 「え、えっと・・・、そうねぇ・・・。私には少し難しい本ですわ。その・・・、内容が難しいというより、複雑ですの。なぜこんなに、この本の作者の目に映る世界は、グチャグチャで、その、支離滅裂・・・。」
 「ははは。面白いね。」
 「こういうのが面白いのでしたら、やはり私には分からない世界ですわ・・・。」
 「そうかぁ。うん。ところで、君と僕の関係はもうどれくらい経ったっけ?」
 「あら、そうねぇ、もう10余年。もう覚えてないくらい小さい頃から一緒ですわ。なんでも一緒でしたでしょ?よく一緒にお屋敷の近くの湖で遊んでましたわね。びしょ濡れで帰って怒られましたわね。」
 「あぁ。そうだった、ね・・・。」
 「あなたとこうして静かにお話できるのも随分久しぶりになってしまったわね。」


 「ねぇ、もし良ければ、私にその本の読み方を教えてくださらない?」
 「えぇ!?それはちょっと。」
 「なんで!せっかく一緒に過ごせるのに!もう!」
 彼女はさっきまで長いスカートの中で弄んでいたいたのだろう長い脚とヒールをカッと派手な音を立てながら地面に打ち付けた。タイル張りの病室の床にひびが入る心配もする隙を与えない早さで。次の瞬間、枕に沈みかけていた視界は漆黒のカーテンに閉ざされた。
 「うおっ。」
 急いで頭を持ち上げる。視界が開けるにつれて右に柔らかいアールを描いたカーテンはスラリとくねる腰の輪郭をなぞり、起こした上体にちょうど寄りかかってきた。病人にかけていい負荷ではない。
 「読んで、ねぇ。」
 「お願い。」
 なんでそんなに器用に瞳をうるうるさせられるんだ。本当に綺麗な、宝石みたいだ。(いや、きっと彼女の本心なのかもしれないな。俺は一生懸命になり過ぎていたから、彼女は凄く心配してたし、きっと彼女は俺の事が・・・。)
 「・・・そうだなぁ。」
 彼女が押さえ続けてすっかり癖が付いたページからパラパラとめくってみる。(本当はそんな必要もないのかもしれないけれど。)
 「・・・驚かないでほしいんだけど、この本、実は君がちょうど読んでいたページから、多分10ページ前から読めばいいんだよ。」
 「どういうことですの!?」
 「いやぁ!それはなんていうか、説明しづらいんだけど。」
 「たしかに・・・この本、本当に、本当に!支離滅裂ですけれど、たしかに10ページくらい前からは一続きな物語ですの。」
 「やっぱりそうだった?」
 「えぇ・・・。それに・・・、別にそこだけではありませんでしたわ。この本は、何回も何回も、いきなり場面が変わりますの。それはもう突然に。彼の周りの世界が丸ごと、彼を置き去りにするように。それで、主人公はメチャクチャで意味不明で理不尽な状況の中をずっとずっと、歩き回る物語なんですけれど、決まって場面が変わる時にはある事がありますの。」
 「ある事って?」
 「・・・あなた、分かってらっしゃるんじゃないですの?」
 「多分ね。」
 「もう。」
 「主人公が寝る。主人公がベッドにでも入ったり、気絶したり、時には誰かから殺されて、」
 「言わないで。」
 さっきからずっと雨上がりの蜘蛛の糸みたいに真っ直ぐこちらを見下ろしていた目線が外れ、昼下がりの木漏れ日のように本の文字の上で無作為に踊っていた。
 「この本の作者はきっと自分の体験を書いているんだわ。分からないなりにページを、めくって、旅をしていると、なんとなくそう思えるの。この本は、時には彼の旅行鞄の中にギュッと詰め込まれて、時には懐で皺くちゃになったり、それで彼の身に起こったことを何ページも何十ページも、いいえ、何百ページも、全部大事に書き留めているの。」
 「うん。」
 「だからこの本はメチャクチャなんだわ。一続きの文脈は彼の中にだけあるの。私にはどれだけ読んでも、ただの書き殴ったメモの山なのよ。きっと。」

 「なんだ、ちゃんと読めてるじゃないか!」
 「・・・。」
 「どうしたの?」
 「私、この本で一番好きなお話がありますの。」
 「へぇ・・・。どれ?」
 「あなたの言った、10ページくらい前に。それくらいの場所で終わった前の場面の物語。」
 「へぇ・・・。」
 (前の話・・・。それは、どんな、どんな風な話だったんだろう。彼女の目には、本当に、どんな風に映っているんだ。)

 「前の話ねぇ、どれどれ、どんな話だったかな。」
 パラパラとまた、ページを遡っていく。視界に掠める単語の関連を考えながら、言葉と言葉を繋がりを、辿っていく。
 「お、この辺りじゃないかな?」
 流れていく物語に指を突っ込んで大きく見開きを空に向けた。
 「そう、そのページですわ。何度も読み返しましたもの。」
 「へぇ、どんな話だったの?」
 「いわゆる推理小説、だと思いますわ。目を覚ました主人公の手元にある機械のようなものに、主人公の恋人から手紙のような言葉が届いていますの。それを見て恋人の家に駆けつけるけれど、恋人は殺されていて・・・。それで恋人の傍らに落ちていた、日記帳?みたいな機械を便りに犯人を探す物語ですわ。」
 「・・・そんな物語、みたいだね。」

 主人公はずっと落ち着いた風で、淡々と証拠を集めていく。それで生前の恋人と交友を持っていた2人の男に迫っていくと、男たちは恋人に殺してくれと頼まれていたと告白される。話を聞いて行くうちに、恋人は知らず知らずのうちに主人公に追い詰められていたのではないかという疑念が膨らむ。恋人に主人公という存在がいた事を知った男たちは、今度は主人公が真犯人ではないのかと迫っていき、最後は犯人を追っていた筈の主人公が逃げるように推理に奔走し突然何者かから背後を突かれて地面に倒れる。

 「なんていうか、あんまり楽しい話ではないね。」
 「・・・。」
 「どうしてこの話が好きなの?」
 「・・・私は主人公は犯人ではないと思いますわ。」
 「なんで?」
 「とても優しい人だから。なんていうか。この恋人という方は、その、どこか病的な雰囲気があって。主人公は、いいえ、この二人の男たちも、ただただ翻弄されていただけのような気がしますの。」
 「ほぅ・・・面白い読み方だね。」
 「それに、こんなに優しい方が最後にあんな目に合うのはとても悲しくて。不意にこんな悲劇を見せられて、頭から離れなくて。」
 「はは・・・。」


 「傷は治りまして?」


 「え?」


 突然全身が裂けるような痛みが走った。まるで雷にでも撃たれたような。ハッとして胸から下を覆うように被さった布団を左腕で捲り上げる。そこにあったのはぐるぐる巻きになった包帯を真っ赤に染め上げた自分の腹だった。

 「まだ治ってなかったか!」
 「きゃあ!!!!ごめんさなさい!!」
 さっきまで右肩にずっしりと乗っていた体重がフッと抜け、次の瞬間上体を優しく包むようにまた布団に寝かしつけられた。

 「やっぱりそうなのね。」
 「大変なものを見せてしまいましたね。」
 「いいんです!!安静にして。」
 「申し訳ない。」
 「・・・あなたは、私の幼馴染で・・・それで・・・何・・・?」

 「これは私の夢です。」

 「夢?」
 「そう、私は夢の世界を旅しています。夢の世界は全て全く違っていて、それでいて大抵大騒ぎなんです。毎回毎回てんでハチャメチャな目に会って走り回って。」
 「それで、じゃあ、その傷は。」
 「大抵”目が覚めると”何てことないんですがね。今回はそうもいかなかった。」
 「・・・うーん。」
 彼女の口から聞いた事も無いようなぐぐもった溜息のような唸り声が漏れた。腹の痛みで顔を向ける余裕もないけれど、恐らくあの人形のように綺麗な顔にクシャクシャの眉間の皺を寄せて腕でも組みながら出した声なんだろう。
 「・・・じゃあ!じゃあ私とあなたの関係は!?目の前にいる私の幼馴染!小さい頃から大大大好きなあなたの存在はどうなってしまいますの!?私はただのあなたの夢の中の人!?」
 「これは僕にも確信の無い事なんだけれど、恐らく僕が彷徨ってきた数々の世界は、多分僕が目覚める前から僕ありきで成り立ってきた世界なんだ。」
 「・・・えぇ。えぇ。確かに。私は”この世界で、”あなたと共に成長してきましたわ。確かに・・・。」
 「そう、そこに僕が”一時的に当てはまって”は、また”外れて”、別の世界に当てはまっていく・・・。そうやって、やってきた。」
 「・・・じゃあ。私は、あなたの幼馴染でいていいんですの?こうしてあなたの病室であなたの枕元に座って、思い出話をしたりして、いいんですの・・・?」
 「勿論。これは僕にとっても”そうあるもの”だよ。」
 「そう・・・。」

 「不思議なもので。僕も目覚めて知らない世界に立つ度に、知らない世界に来た筈なのに、なんでか全部分かっているような、知っていたような気分なんだ。」
 「それは、あなたの夢だからよ。あなたの夢は、あなたの中のものからしか出来てないですもの。」
 「確かに!」

 「だから君のことも、目覚めて右を向いて、枕元で座っている姿を見た瞬間から、知っていたよ。看病してくれて、ありがとう。綺麗になったね。ドレスも。」
 「・・・もう、改まっちゃって。昔見たいなヤンチャ娘じゃないですもの。」
 「はは!お互い大人になったなぁ。」
 「ふふ。本当に。」

 「・・・なんだか眠くなってきたかも。」
 流石に傷が深い。どんな殺され方をしたのだろうか。自分の死ぬ瞬間は何度味わっても分からない。すっかり全身から体力が無くなっていく。でも今は死ぬ程じゃないな。またひと眠りしたら、”次”は元気に目が覚めて・・・。
 ふと、右に視線を映すと、そこには悲し気な顔を浮かべた彼女がいた。
 「眠ってしまいますの?」
 「うん。ちょっと疲れちゃって。」
 「どうなりますの・・・?」
 どうなるのだろうか。それは自分も、いつからか始まったこの旅の中で何度も考えて、その度に分からず終いを繰り返してきた事だった。でも、多分”その夢”にとっては簡単なことなんだろう。
 「別に、寝て起きるだけだよ。僕は、今から君の目の前で目を閉じて、眠りについて、寝息を立てながら、死んだみたいに、しばらくして。そうしたら今まで通り目を覚ますよ。」
 「そう。」
 「そしたら多分、この傷も治ってるよ。こんなもの”一緒に”持ってってあげるから、心配しないで、僕を起こして。」

 「そうしたら、とびきりの目覚めのキスをしてあげますわ。」

 「え。」
 「とびきりよ。忘れられないような。」
 「・・・いいな。」
 「あら、おかしな事言いますわね。あなたは”あなた”なのに。」
 「はは。確かに。」


 「じゃあ、そろそろ寝るよ。」
 「・・・あなた、リンゴ、好きだったでしょう?」
 「うん、好き。」
 「目が覚めたら、リンゴを剥いておいてあげますわ。あなたの好きなウサギさんの形のリンゴ。」
 「嬉しいな。ありがとう。」
 「ふふ。」
 「君のお屋敷の庭のリンゴ、美味しかったなぁ。よく取って食べたなぁ。」
 「・・・。」

 「じゃあ、そろそろ寝るよ。」
 「ゆっくりお休みになって。」
 「うん。」

 また、1つ落ちる。昔は次の夢がどんな事になるかワクワクしたり、死ぬ程恐ろしかったりしたけれど、もう考える事も疲れてしまった。ただ目を閉じたい時に閉じて、開けて。走る。深呼吸をして、深く。溺れないように・・・。
 「こんなに平穏に寝れるのは、なんだか久しぶりな感じがするなぁ。」
 「・・・。」

 「さようなら。」
 「おやすみなさい。」



 「目、開けないでくださいまし。」
 「え?」

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