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予測不能にもほどがある 29 (欧州各国)|イタリア編 (6 昭和的実録 海外ひとり旅日記

       



日記_031 ・・・をたずねて  - 2

 

   8-(2 / july  1978 ” 国は好きだけど

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1 DM≒100Yen


険しいアルプス越えは終わったか、やっとの事で湖が見えて来た。

Zürichは大きな駅だが、目もくれず、Konstanzの一つ手前のKreuzlingen駅に降り立つ。

直ぐEugenに連絡を、とも思ったのだが、”アジア廻って、日本にも行く”とか言っていたし、今晩の宿のYouth Hostel探しが先決だ。

先程降りたKreuzlingen駅はスイス側で、隣接するKonstanzは既にドイツ

薄暗い夕暮れの中、国境があるわけでもなく、行き交う人の変わるわけでもなく、ましてや咎める人もいるわけでもなく、二つの国を行ったり来たり勝手な出入国を繰り返しさ迷いながら、結局YouthはKonstanz側のBodenseeの畔にあった。

   9 / july  人は嫌い”

雨のち曇り
Konstanz〜Offenburg 〜Appenweier〜Kehl〜Strasbourg
train 5h. 29.1DM

time difference 1h ahead
Saito’s Apartment


建物のファッサードに絵が書いてあったり、ゴシック風の教会に出くわすと ”あぁ ヨーロッパも北への入り口なんだな”と一つため息すれば、物哀しさを引き連れてきそうなこのショポショポ雨にも何か愛おしいものを感じながらも、ソッポしたくもなる。

そのゴシック教会の前のCafeで、英語を話すウェイトレスにお願いして、(みんな喋るのはドイツ語系(ドイツ語かスイス語か、はたまた別の言語か判別もつかない)一点張りで弱っていたのだ)Eugenに電話して貰ったのだが、どうも通じないよう。

(目の前で電話したわけではなかったので、どんな風に通じなかったかも不明

呆気なく万策尽きたか、結局スイスは5時間余りで突っ切ってしまうことになる。

(Eugenがトルコの一夜で言っていたこと:国は好きだけれど、人は嫌い


しかし全てが終わった訳ではない、この道筋の先にはStrasbourgが待ち構えていた、Athensの一夜を語り明かしたShigeruをたずねて・・・。

Strasbourgはもうフランス、だからドイツもまともに居たうちには当たらない

(兎に角、この3日間で、LIRA , CHF , DM そして FF と目まぐるしく変わる財布の中は、それどころではないのだ)

(何かVeneziaに旅の一区切り憾があって以降、”旅先で知り合った人々を訪ねよう”シリーズにココロがシフトしている)

  10 / 11 / july  紛れ込んだ別種の蜂

10/晴れ   11/晴れ
Seo’s Apartment×2


ギリシャで遭った、友人と旅していたShigeruクンは、仏で料理コックを2年修行して、今月12日に一旦日本に帰ると言っていた。

滑り込みで間に合ったかなと電話すると、同じく日本人のSugiyama氏の家であった。
(Shigeruクンは住み込みで世話になっていたようだ。既に帰国したとのこと)

結局紹介の紹介で、別の日本人のアパートに泊めてもらうことになった。

中世以来、この辺は仏独で領有権争いの中心となったアルザス=ロレーヌ地域であるが、今ではStrasbourg大学の施設で街は成り立っているようにも見え、そんな面影は微塵も無い。

日本人は70人程居るという。


 コラム_61  Université de Strasbourg



外光の溢れるキャンバスの学食は憧れだった。

東京のど真ん中の大学は運動場もなく、古めかしくカビ臭い小さな庭はコンクリートで覆われ、これから東京で暮らし始めるかもしれない学生に突きつけられた最初の現実だった。

庭園のように整備された芝生は向こうの林らしきに消えている。

別に門構えがある訳でもなく、学生たちは陽射しの中で思い想いのたむろで戯れているよう、多様な外国人Goetheゲーテも在籍していたと云う)も多く感じられる。

温室のような光溢れる学食で一人の先生と二人の学生に遭った。

顔が火照るほど恨めしく思えたことか。
(たかだかの教育の場にメクジラ立てるな)

『ヘルメス文書』朝日出版社1980年(古代ヘルメス文書中、宗教・哲学的な教えを内容とする代表的な17冊の作品群)の翻訳が完了し,帰国を前にしていた学生もこの中に含まれていた。

彼の部屋では、この翻訳の話に限らず、入れ替わり立ち替わり訪れる学生・先生たちとの留学生活のこと・生活費700FF/月位でやっていること・
仏人の冷たいことなど、紛れ込んで来た別種の蜂が久しいのか、群がるかのような勢いで話し始めている。

政治学科専攻の初めての授業「政治学原論」は、脂ぎった教授の
”政治はPower Politics・・故に圧力団体が・・”で始まった。

(何、何っ言ってんの!)
(俺は、理想の政治とは・・の大命題から知りたいのだぁ)

以降4年間、俺は教室での授業の席につくことはなかった

二つ目の現実だった。



  12 / july  Oh, Petit Tokyo !

曇りときどき雷雨
Strasbourg〜Paris
Sugiyama’s car 8h 50FF(Reward)

“Oosaka”

ホテル28FF


学生時代(対比しようもない自分の過ごした日々)に舞い戻ったかの日々に別れを告げ、最初電話したSugiyama氏とその彼女が Parisに出ると云うので、夜半に出るその車に同乗することになった。

Strasbourg郊外、一気(やっぱりフランスは農業国)の田園風景に出た途端、一転俄かに掻き曇り、雷鳴

『未知との遭遇』シーンそのままの大きくうねった丘の一直線道路の先の地平線がバリバリッと光り、あっという間の大豪雨。
しかし怯むことなく、車内は” La Marseillaise ”の大合唱。

Gas Standで給油&小休止。事件は起こった。

ブースの棚の煙草を買おうと手にした途端、給油中のStandの親父が血相変えて跳んで来て、俺の首根っこをいやっと云うほど捻り上げたのだ。

何のことやら解らぬ俺に、Sugiyama氏が”フランスではこの手のコソ泥”が多い”、スーパー以外では商品に触るのはご法度っ”と教えてくれた。
Strasbourgで話していたフランス人への雑言の一端であった。

Parisの第一印象は” Petit Tokyo !  ”

”あっ、ここは渋谷の道玄坂!”  言われてみれば確かにそう。

流石に建物はParisの方が流麗なのは確かだが、至る所、道のカーブやアップダウン、街路植栽など déjà vu 感満載、日本が都市計画など参考にした歴史(我々が話題にした所に影響あるとは思わないが)があったことなど、吹っ飛んでいる。

釣られて”新宿西口公園の浄水場のあった処”、”このカーブ、青山墓地を出た・・・”など、出るわ、出るわで車の中はまるで" Petit Tokyo "構想談義で大盛り上がりだったのだが、放ったらかされたSugiyama氏の彼女とは、その後大丈夫だったのだろうか?

償いも兼ねてと云う訳ではなかったと思うが、3人で「大阪や」と云う和食屋でラーメンを食べ(特別な感慨無し)、交通費替わりにと、僅かながら50FFをSugiyama氏に渡し、その場で別れることとなった。

  13 / july  Parisだというのに

曇り

アールヌーボーのMetro入り口Le Centre Pompidouが同時に見れたらお誂え向きと期待したのだが、残念だがアールヌーボーはハズレ。

仮設足場に原色の空調パイプの外装にスケルトンの直行スロープエスカレータが抱き合わされたようなPompidouは、その建築本体の頑張りほどには、表現すべきモノ未だ模索中の感じだった。

しかし外の広場は大道芸のオンパレードで心浮き立つ。
手品師・パントマイマー・ストリートミュージシャン・果てはインド紛いの火を噴いてみる芸人まで、滑稽なくらい可笑しく、楽しめる。
まあ今は”開かれた場”というより、後楽園感覚位かな。

La Seineセーヌに沿って歩いて試る。
Musée du Louvreの一室を、偶然窓から覗いたらミロのビーナスがあった。照明の具合か、上野で観た時の感動とは比較にならない。

チュイルリー庭園コンコルド広場Champs-Élysées通りと、川沿いを5kmはゆうに歩いたか。


 コラム_62  日記は語る



『Concord広場脇に日の丸があったのは何か?

ここは大使館でも無いが、公賓でも来たかのような観閲ステージもあった・・・しかしChamps-Élyséesは人も多そうだし、トイレにも行きたかったから・・・さぞかし日本人の群に遭えただろう・・・』

高飛車な物言いで、日記にはそれ以上言及もなかったのだが、ちょっと気になった。


”今日は7月13日、・・7 月 14・・日??”
(フッ・フ・ラ・ン・ス・革・命っ・・・??)

調べて見れば確かにそう、 1789/7/14 la Bastilleバスティーユ牢獄襲撃の世界歴史に欠かせない劇的な日だったのか。

ドゴール大統領の時代、今で云うロシアや北朝鮮の軍事パレードと同じことをフランスもやっていた記憶はある。

共和国建国記念日俗称
”Le Quatorze(14) Juillet(7月)

(確かRené Clairルネクレール映画「巴里祭」の原題が、これで
あったように思う。日本ではパリ祭と呼ばれる)

個人主義の典型のように言われる仏人の、国民的休日の使い方あるいはその空気感を味わう絶後の機会を素通りしてしまったと云うことか。

あぁ 🎵バカよね ♬♩




しかしいつもなら、もっと我武者羅に動き回るのに、ここParisだと云うのに、この深入りしない余裕は何なのか?

あれ!もうバスでGare du Nordに向かってる、Paris出るの?

Gare du Nordも古びているが(丁度 上野駅かな)なかなかシックで大きな風態で、降り立った俺の手には既にLondon行きの割引チケット(市内のチケット屋を偶然見つけたのだ)が握られていた。

(そう、一旦はParisを離れるが、未だ” 旅先で知り合った人々を訪ねよう ”
シリーズ
は続いているのだ。
次はDover渡って一気にEnglandって云うのも悪くないだろう)

(ワザワザ回りくどい、不経済なコトをって?)

大丈夫、全ては計算づくさ。


 コラム_63  (欧州各国)| Itary Map_6



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