中学受験 底力をつける歴史 五街道と海上交通
歴史の出題分野で面白いのは、こういった社会経済に関するものです。個人的には政治史よりもこちらの方が好きですね。面白いことに難関校ほど生活、経済に絡めてくる問題が多いことです。
江戸のまちづくり
秀吉の天下統一後、家康は関東地方に追いやられました。江戸城は廃れており城の前はすぐ海で低地が広がっていました。神田の台地をけずって埋立てたり船が入りやすいように運河を作ったりして町作りをしました。入江だった日比谷や日本橋はこのようにして造成された町でした。江戸城は「のノ字」に掘った濠に囲まれていました。外堀には前田氏や伊達氏などの外様大名に、内堀側には譜代や親藩、旗本などが敷地を得て住んでいました。一方、下町とよばれるのは荒川(隅田川)や湾に面した低地で、多くの町人が長屋と呼ばれるせまい住居に密集して住んでいました。
江戸は台地で水の便も良くありません。井戸を掘ったり神田川からは神田上水、羽村からは玉川上水を引いたりして水を確保しました。江戸は「公方様(将軍)のおひざ元」とよばれ、18世紀には武士が五十万人、彼らの生活を支える町人と合わせて百万人を越える世界有数の大都市でした。 大江戸八百八町と言われ多くの町が有りました。
ここでは、ぜひ地図帳を開いて街道を辿ってください。
《交通の発達》
陸運と水運:参勤交代の制度化で、地方の大名が江戸を行き来するようになって、治安が良くなり、宿泊施設を設けた宿場町が発達しました。
地方と大阪・江戸の間には船を使った水運が発展。川の整備や港、運河を築きました。
庶民の移動は自由ではありませんでしたが、寺社のお参りには寛容だったそうです。お伊勢参り、大山参り(相模国)、善光寺参りなどが有名です。
江戸時代になって大名の参勤交代や年貢米、特産物の輸送などが盛んになりました。陸路の中心は江戸にありました。街道の起点が日本橋に決められ、ここから五街道がのびていきました。五街道とは中山道、奥州街道、甲州街道、東海道、日光街道の五つです。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、奥州街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿は「江戸の四宿」といわれました。
街道には旅人の便を図って江戸からの距離を表す一里塚が建てられ、二、三里ごとには宿場が設けられました。大名が宿泊する宿を本陣と言い、一般の旅人は旅籠に泊まりました。街道が整備されて治安が良くなり手紙や小荷物を運ぶ飛脚も盛んに行き交いしました。
当時「上京」と言えば京都に行くことで、江戸から二つの街道がありました。海沿いを行く東海道と内陸をゆく中山道の二つでした。目指すは京都の三条大橋でした。
東海道
東海道には五十三の宿場がありました。一番目が品川の宿で、次は多摩川をこえた川崎の宿です。三番目は神奈川宿でした。この宿場の隣に横浜村がありました。箱根の手前にあるのは小田原宿でおおいに賑わったそうです。山を登ると芦ノ湖にでます。このほとりに箱根の関所が設けられました。ここでは「入り鉄砲にで女」をきびしく調べました。室町時代の関所は通行税を取るためでしたが、江戸時代の関所は江戸の防備のためでした。
駿河の国に入るといくつかの大きな川を渡らなければなりません。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われたようにこの川には橋を架けず、渡し船で渡ることも禁じられ、渡河の際には川越し人足の手をかりなければなりませんでした。故意に不便にしておくことで江戸の守りを考えていました。
遠江の国は、都から遠く離れた湖という意味ですが、この国に入ると渡し船で渡る浜名湖があり、ここにも新井の関所がありました。三河の国を通って名古屋の熱田神宮あたりまで来ると、木曽川、長良川、揖斐川など大小の河川のある濃尾平野を避けて伊勢湾の「七里の渡し」を船で桑名宿に渡ります。伊勢神宮方面に進んで四日市に行くとここで方向を西に転じ近江との国境になっている鈴鹿山脈をこえます。近江盆地に入り草津の宿で中山道に合流します。最後の宿は琵琶湖の水運で賑わった大津宿で、なだらかな峠をこえると京都に至ります。
東海道は、梅雨の時期などは大きな川の増水・洪水が起きやすく川止めがありました。これを嫌って、遠回りなりますが中山道を選ぶ旅人もいました。
中山道六十九次
日本橋から二里二十五町ほど行くと最初の宿場の板橋宿に着きます。ここには宿場の名前の由来となった橋が石神井川にかかっていました。次に渡る川が荒川で「戸田の渡し」を船で渡り、蕨宿→浦和宿→大宮と武蔵の国を通ります。次に隣の上野の国(群馬)に入ると、今も交通の要所で新幹線の分岐点である高崎宿から方角を西に転じます。関所が設けられた碓氷の峠を800m登り信濃の国に入ります。右手に火山の浅間山を見ながら今は避暑地となって有名な軽井沢、追分宿と通り、道中で標高が千五百mと最も高い和田峠を超え、下って下諏訪(岡谷市)にでます。下諏訪宿は甲州街道の終点でもありました。峠を越えて塩尻に着くと今度は南下します。奈良井宿、鳥井峠をこえ木曽福島、南木曾と木曽川沿いをゆき、今も中山道の風情を残す馬籠宿、中津川を通ります。濃尾平野にでると長良川、揖斐川をわたります。このとき現在の岐阜市や大垣市を通ります。古戦場の関ヶ原をこえると右手に古事記にもでて来る伊吹山を見ながら近江盆地にでます。琵琶湖の南岸を進み草津宿で東海道と合流します。次に大津の宿をぬけてなだらかな峠を越えて都へいきます。
日光・奥州街道
起点の日本橋を出ると江戸四宿の中でも最大の千住宿に行きます。松尾芭蕉の奥の細道にもでてきます。ここで荒川にかかった千住大橋を渡り草加宿、粕壁宿と向かいます。栗橋宿は江戸の北方を守る重要な地点で、関所が設けられ「入り鉄砲と出女」が取り締まられました。利根川は橋が架けられていなかったので、ここで渡し舟でこの川を渡りました。宇都宮に着くと家康と家光をまつった日光へ向かう日光街道と白河へ向かう奥州街道とにわかれます。
甲州街道
他の街道と違って参勤交代で使う藩は多くありませんでした。当初は甲府と江戸を結ぶ軍事用の街道で、八王子には軍役の義務を負う千人同心と呼ばれる下級武士が置かれていました。起点の日本橋を出ると内藤新宿、下高井戸、府中、そして八王子からは山道に入ります。小仏には関所が設けられました。最大の難所である笹子峠を越えると次第に甲府盆地が見えてきます。ここを抜けると北の方向を変えて進みます。富士川の上流の一つである釜無川を上流に向かって進むと右手前方に火山の八ヶ岳の峰々が、左手には身延山地と三千mをこえる赤石山脈が見えます。天竜川の源流である諏訪湖にでて、下諏訪の宿で終点となります。
問題集になります。上記の解説を読んでいただければ解けるようになっています。
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