中学受験 サピックス5年生 律令国家へ(1)

今回は、サピックス5年生の歴史第二回になります。
問題の内容は上級編になります。本番の入試問題では子供扱いした問題文では出されません。
太字を引いた語句は試験で問われる語句になります。

大和政権と古墳文化


 古墳は地域を支配していた豪族の墓で、三世紀後半から近畿から瀬戸内にかけて造られ始め、6世紀には九州地方から東北地方南部にまで広がりました。その形は前が方形で後部が円い前方後円墳です。奈良県桜井市にある「箸墓古墳」は長さが約280mの最も古い前方後円墳です。
大きな墓である古墳は多くの人が働かなくてはならないため、豪族や王のような富と権力を持った者でないと造れない建造物です。この時代を古墳時代と呼びます。
近畿地方の河内や大和には巨大な前方後円墳が多く見られますが、五世紀には日本最大の古墳である大仙古墳が造られました。この古墳は世界遺産になった百舌鳥もず古墳群の一つで大阪府の堺市にあります。古墳の表面にはふき石がしきつめられ、そのまわりや頂上には人や動物、家や円筒形の形をした埴輪と呼ばれる素焼きの土器が置かれました。
 河内や大和には早くから大きな古墳が造られていて大きな力を持った豪族達が多くいました。四世紀中ごろ彼らが連合して大和政権という、今で言う政府を作りました。その中心となった人物が大王おおきみでした。5世紀になると支配は広がり九州地方から関東地方にまでおよびました。熊本県の江田船山えたふなやま古墳と埼玉県の稲荷山いなりやま古墳からの両方から「ワカタケル大王」と刻んだ鉄刀・鉄剣が出土しており、この地方の豪族が5世紀中ごろワカタケル大王に仕えていたことがわかりました。ワカタケル大王は雄略天皇と言われています。彼は倭の五王の一人で、「宋書倭国伝」によると、この5世紀の大王たちは朝鮮半島や国内での立場を強化するために中国の皇帝に使いを送り高い称号を得ようとしました。

《渡来人》
 稲作が日本に広まったころ大陸や朝鮮半島から日本列島に渡ってきて住み着いた渡来人がいましたが、古墳が造られ始めた頃には大陸や半島の争いをのがれるためにさらに増えました。彼らは養蚕・はたおりなどの工芸技術、用水路・ため池の作り方などの土木建築鍛冶・冶金かじ・やきんなどの金属加工の技術も持っていました。彼らの中には朝廷に仕え文字(漢字)を使って記録を記したり外国への手紙を書く仕事をしたりする者もいました。また孔子の教えである儒教やブッダの教えの仏教なども伝えました。従来の土師器に加えて、渡来人はのぼりがまで焼いた須恵器すえきと呼ばれる新しい土器を普及させました。台を回転させるロクロも使用し形も整った土器となっています。

【飛鳥時代・蘇我氏の勢力・聖徳太子の政治〉
 6世紀中頃豪族の間で誰を天皇に就けるかなど激しい勢力争いがおき、物部氏は、仏教を受け入れる蘇我氏と対抗し、逆に滅ぼされてしまいました。その後蘇我氏を母にもつ女性が593年に推古天皇として即位しました。
 天皇の子として574年に生まれた聖徳太子は593年におばの推古天皇の摂政になり蘇我馬子の協力をえて政治を行いました。天皇を中心とした国作りをするために603年に冠位十二階の制を設け、朝廷に仕える役人を豪族の家柄や出身地で選ばず、能力や功績のあった人を選ぶようにしました。翌年に儒教仏教の教えを参考にして十七条憲法を定め、政治を行う豪族や役人の心構えを示しました。
〈外交・文化〉
 当時の中国はと呼ばれる王朝でした。607年に太子は小野妹子を朝廷の使節としてつかわせました。留学生や留学僧も送り、政治の仕組みや文化・学問を学ばせ取り入れようとしました。蘇我氏は7世紀初めに奈良の飛鳥地方に飛鳥寺を建て大仏を作りました。聖徳太子は四天王寺(大阪)や奈良の斑鳩いかるが法隆寺をつくりました。これは現存する最古の木造建築で世界遺産にもなっています。この後、仏教が信仰されるようになるとそれまでの古墳でなくて寺が建てられるようになりました。

中大兄皇子の政治
 622年に聖徳太子が亡くなり、その後一族も蘇我氏によって滅ぼされました。その後蘇我氏の勢力が強くなり、これに対抗する中大兄皇子中臣鎌足らの力を借りて645年に蘇我蝦夷・入鹿をほろぼしました。
で政治制度などを学んできた留学生や留学僧の協力を得て天皇を中心とする国作りを始めました。大和にいた豪族は朝廷に仕える役人となりました。またこの事件の時に初めて元号を定めたと言われます。この元号にちなんでこの事件を大化の改新と呼んでいます。
 政治の方針が次第に整えられていきました。それまで皇族や豪族の所有していた土地と民は、これ以後朝廷のものとする公地公民の制度が採られたといいます。

都や地方を五畿七道にわけ、さらに「国・郡・里」を定め、国には都から国司と呼ばれる役人を派遣して治めさせる中央集権の仕組みが作られていきました。税の制度では戸籍を作り、それにもとづいて人々に田を割りあて耕作させたり布などを納めさせたりして税の制度を統一したとされています。

朝鮮との関係
 中国では隋をたおした唐が制度を整え大きな勢力を持ちました。朝鮮半島では新羅高句麗百済の三国がありました。そのうち唐と手を結んだ新羅が他の二国を滅ぼし676年に朝鮮半島を統一しました。
 中大兄皇子は660年に滅ぼされた百済の再興を助けるため663年に海を渡り唐と新羅の連合軍と戦い敗れました。これを白村江の戦いの戦いと言います。この後戦争に備えて現在の福岡県に朝鮮式山城の大野城と水城と言われる濠を通した大きな堤防を築きました。またのろし台を作ったり兵士の防人を置いたりして防衛に努めました。そして都を琵琶湖の近くの大津にうつし、即位して天智天皇と称しました。
 天智天皇の死後、息子の大友皇子と大海人皇子とが皇位をめぐって争いました。これを壬申の乱と云います。勝利したのは渡来人などを味方につけた大海人皇子で即位して天武天皇となりました。次の天皇である持統天皇は女性で、天武天皇の皇后でしたが、奈良県橿原市かしはらに唐の都の長安を見習って藤原京を造営しました。天武天皇の時に我が国最初の富本銭が作られました。
 文書に「天皇」という称号を使い出したのはこの頃だとされています。王→大王→天皇と変わっていきました。

【律令政治】
 朝廷は唐の政治制度にならって701年に大宝律令という法律を制定しました。「律」は刑罰で、「令」は政治の仕組みを表します。これに基づいて政治を行うことから「律令政治」とよびます。
 朝廷は都に二官八省の役所を設置しました。都で住んでいた豪族は貴族となり朝廷の役職に就いて政治に参加しました。
 地方は五畿七道に分けました。近畿地方、東海地方、北陸地方、山陽地方、山陰地方などは、現在も当時の名前が使われています。そして六十の国には国司と呼ばれる役人を派遣しました。地方の豪族からは郡司、地元の有力者から里長を選び政治の仕組みを整えました。また大陸に近い九州には役所の大宰府が設けられ、中国や朝鮮半島との外交や九州全体の統治にあたりました。こうして朝廷の命令が地方まで実行される中央集権の国ができたと言われています。

〈税の仕組み〉
 朝廷は中国の制度にならって戸籍を作りました。これは税の徴収と兵の調達の基礎とするためでした。これに基づいて良民の六才以上の男女に口分田という田を貸し与え、死後国に返すようにしました。この制度を決めた法を班田収授法といいます。収穫した稲の三%を租として地方の役所の国府に納税させました。また一般の成人男子には都で十日働くか、その代わりに布で納めると、各地の特産物で納める調などの税がありました。三つのうち庸と調の二つの税は都まで運んで納めなければいけませんでした。また、租庸調の三つのうち、租は男女に課税、庸と調は男子だけに課税されたとされています。 
 兵役では都の警備をする衛士や九州の守りにつく|防人《さきもり》がありました。雑徭ぞうようと呼ばれた労役は地方の役所で年間60日以内働くことになっていました。各地にどのような特産物があったかは荷札として使われた木に墨で書かれた木簡と呼ばれるものからわかります。


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