過去から今を認めること
最近時折、これまでの人生で一番辛かった時のことを思い出す。それまで築き上げた人間関係や、当たり前だと思っていた日常が突然壊れたときのことだ。その出来事が起こるまでのプロセスにも意味があり、そこから何とかやってきた今までの出来事にも意味がある。「全てに意味がある」と分かってはいるが、自分にとってネガティブなことを、人生の肥やしにするまでには時間がかかる。もう何年も経っているのに、完全に「吹っ切れた」と言い切れないほど、それは私にとって辛い出来事だったのかと、改めて感じる。
あの時の自分はどうやって立ち直ろうとしたか。起こった出来事に引きずられないよう、色々な組織で色々な役割を同時並行でこなしながら自分を保とうとした。最大で4つか5つくらいの仕事を一日に入れていた。細切れに働けたおかげで、時間に融通をきかせて勉強会に参加することもできた。仕事と勉強に明け暮れ、自分を必要としてくれる人のことを考えていれば、辛かった出来事に押し潰されずに済んだ。正直、マルチタスクは得意ではない。しかし、あの時ほど掛け持ちをしたことで救われたことはなかった。不思議なことに、その時にできた人間関係が、その後の全く別の仕事で生かされたり、携わった仕事自体が私自身の能力を証明してくれたりもした。人生に無駄はない、と身をもって知った出来事でもあった。
あの時ほどではないとしても、今の私だってそこそこ打撃は食らっている。今年の初めにもしどこか、私に「あなたが必要だ」と言ってくれる組織があったならば、今のような生活はしていなかっただろう。きっと毎朝必死に目を覚まして、満員電車に乗り込み日々を送っていたに違いない。「誰かが自分の存在を必要としてくれている」という意識が、これまでの日々のストレスを耐え抜く原動力だった。反面、今の私は基本一人。何事かを始めたばかりの時、それが誰かに必要とされているかどうかなど、すぐには分からないものだ。走り始めた今の私には、まだ私の提供するものを必要とする人のいるところまで行けていない感覚がある。不要なストレスを抱えてはいないが、充実感を得られるまでにはまだまだ至っていない。しかし、前に進まなければ誰にも出会えない。ここで足を止めるわけにはいかないと思いながらも、不安に駆られそうになることがある。
でも、もしあの頃の私が今の私を見ることができたなら「うらやましい!」と言うに違いないな…とふと思った。あの頃の私は、心に受けた見えない傷口をかばいながら、この世界から消えてしまいたいという思いに取り込まれないよう、何とか踏みとどまっていた。こんなに辛いことがあったのだから、これより酷い目にあうことはないと、どん底から小さな希望の光に向かって這うように進んでいた。誰かの力になりたくても、自分のことで精いっぱいで、無力感に囚われっぱなしだった。そんな私がここまで成長し、自分の目指す世界のために動き始めることができている。あの頃踏み出せなかった一歩を、すでに何歩も進めているのだ。
あの頃と今で、おそらく自分に出来ることは大して変わっていない。しかし、それらを自分が「出来る」と認識する心のありようが変わったのを感じる。人は成長に合わせて課題を越えていこうとするものだが、それまで越えられなかったものを越えるというプロセスは、決して当たり前のものではない。
もっと自分の成長を、ほめて認めてあげなくちゃな、と思う。
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