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〈卒論公開〉風になびく日常――大友克洋の反終末論――

卒業論文を書きっぱなしではなくネットの海に放流しようと考えていたのですが、なんやかんやで忘れていました。一応心血注いで書いたので公開しておきます。

最初に感じた読後感の正体を突き詰め、書き切った大友概論になったと思います。



序章 
第一章 大友時代の日本漫画 
  第1節 大友以前 手塚治虫の復活と劇画、青年誌の勃興
  第2節 大友以後 許されるニューウェーブ 
第二章 短編作品論 
  第1節 日常と余白 
   第1項 『BOOGIE WOOGIE WALTZ』
   第2項 『心中――‘74秋――』 
   第3項 『傷だらけの天使 第一話 ――暗夜行路――』 
   第4項 『スカッとスッキリ』
   第5項 『ハイウェイスター』 
   第6項 『宇宙パトロールシゲマ』 
   第7項 『ROUND ABOUT MIDNIGHT』 
   第8項 『天網恢恢疎にして漏らさず』 
   第9項 『SO WHAT』 
   第10項 まとめ 
 第2節 大友の変容 
   第1項 『ヘンゼルとグレーテル』 
   第2項 『大麻境』 
   第3項 『カツ丼』 
   第4項 『信長戦記』 
   第5項 余白の抹消 
   第6項 物語漫画へ 
 第3節 終末と日常 
   第1項 『Fire-Ball』、SF漫画への挑戦 
   第2項 『Fire-Ball』における終末と超能力 
   第3項 『童夢』、ホラー漫画への挑戦 
   第4項 子供と老人 
   第5項 瓦礫の描写 
第三章 『AKIRA』論 
 第1節 大友克洋の集大成 
 第2節 日常に吹く風と聖性 
   第1項 2つの終末 
   第2項 描写の変容 
   第3項 子供と老人、再び 
   第4項 金田、もう一つの聖性 
   第5項 終わりの先の日常 
終章 日常から終末へ、そして日常へ 
参考文献


序章
大友克洋の作品では、しばしば荒廃した世界が描かれている。特に1970年代末以降の『Fire-Ball』(雑誌初出1979年)、『童夢』(1983年)、『AKIRA』(1984-1993年)などには、どれも崩壊が描かれている。しかし、1973年のデビューから1979年の『Fire-Ball』以前までの初期大友作品にさかのぼって検討すると、それらはうだつのあがらない日常を描くものばかりで終末とは縁遠い。『ショート・ピース』、『ハイウェイ・スター』、『さよならにっぽん』など起承転結の起伏が少なく、現実世界のどこかで同じようなことが起こっているとさえ感じさせる。例えば、『ROUND ABOUT MIDNIGHT』は、大学生4人がアパートの1室に集まり徹夜で麻雀をし、盛り上がって言い合いになったところで近隣住民の苦情が来て朝方お開きとなるという話である。漫画の中に限らず、現実の大学生が誰しも経験しうる話を漫画として描き起こしている。ただ、そのなかでも時折殺人が描かれるものなどもある。『辻斬り』では、夢遊病を装った通り魔殺人が繰り返される。主人公には全く身に覚えはないが、自分が夢遊病だと信じ込み殺人を犯してしまう。
大友は時代と自身の関心とともに作風を変化させ、ある時期から「終末」観が現れ始める。では、変化しなかった部分=初期の日常性はどうなったのか。消えたのか、はたまた内包されるようになったのか。まずここで大友の経歴を確認しておきたい。大友克洋は、1954年宮城県登米郡(現・登米市)に生まれた。幼少期には、手塚治虫を愛読し、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』などのテレビアニメーションにも親しんだ。小学生のころにはラジオで洋楽をよく聞き、高校生の頃に運命の1本となる『ウッドストック/愛と平和と音楽の3日間』に出会い、ニュー・ハリウッド(いわゆる「アメリカン・ニューシネマ」)の映画に傾倒する 。これらの影響から、大友は勧善懲悪のストーリーを描くことが自分にはできないと感じる。1973年、『銃声』で漫画家デビュー 。仙台平野のど真ん中で育った大友には、上京したての都会の姿がフィクションの物語よりもおもしろおかしく見え、それをインスピレーションの源泉として描き起こしていった。その結果、大友の漫画は手塚治虫時代のストーリー漫画とは裏腹に、日常的で起承転結の起伏がない平坦な物語が多かった。
そんななか、大友はバンド・デシネに出会う。日本の漫画とは違う絵画作品としても評価に耐えうるような芸術性を有したそれに大友は衝撃を受け、そこから現在に続く緻密な画風が確立されていくことになる。そうしてできあがった『童夢』は、練り上げられたミステリーサスペンスゆたかな脚本、窓ガラス1枚に至るまで一切の手抜きなく緻密に描かれた団地の風景、迫力のある破壊描写や映画を思わせるダイナミックな構図によってこれまでの大友とは明らかに異なる衝撃作となった。大友初の本格的な連載作となった『AKIRA』では、『童夢』で見せた超能力をよりはっきり力の象徴として描き、荒廃した東京を舞台にスクラップ・アンド・ビルドの熱と狂気をネオン煌めく街と荒れ果てた街の描き分けによって物語にうまく浸透させた。バイクのテールランプが光の線となって連なる描写や現代の科学技術以上のテクノロジー、妥協のないメカデザインなどでサイバーパンクな世界観を作りあげている。
大友の作品の変化は、彼が影響を受けたバンド・デシネや1980年代の「終末論」ブームにおいてその源泉を見ることができ、「ある程度は」説明がつくということがわかる。だが、本当にそうなのだろうか。大友作品の描く日常性の根源には、「終わり」のなさ、いつまでも続く日常が見てとれる。それまでに描かれる終末は本当の意味で終末ではなく、いわば日常の起伏や延長に過ぎない。大友の描く終末は、日常の対比として描かれ日常を強調する物語の装置として作用するものではないだろうか。つまり大友作品にみられる主題は日常ではないだろうか。では、なぜ「終末」の世界が描かれるのか。
本論は大友作品の日常性の裏にある「終末観」について考察したい。第一章では大友の幼少期からデビューまでを整理する。1950年代から70年代の日本の漫画は、手塚時代のストーリー漫画(大友以前)の時代から劇画、青年誌が勃興しつつあったニューウェーブ(大友以後)の時代にあたる。第二章では、大友の短編作品を中心に、日常性が前面に出ていた頃とその当時の画面の特徴、だんだんと画やストーリー構成に力を入れ始めた初期の大友からの脱皮と日常性の行方、日常性を前面に出した作風をやめ、凝った舞台設定や終末観が顕著に現れ始める頃というように作品を時系列ごとに考察していく。第三章では、大友の代名詞である『AKIRA』をとりあげ、この作品の試金石となった2つの作品との比較、自身が監督を務めたアニメ映画版との比較、『AKIRA』にこめられた終末観と日常性の考察から漫画家大友克洋が描いた終末と日常について論じていく。

第一章 大友時代の日本漫画
 大友克洋の漫画作品の考察に入る前に、第一節では大友が活躍する前の劇画と青年誌勃興の時代について整理をしておく。漫画史のなかに忽然と現れ、それまでの漫画の常識を打ち破っていく大友克洋を当時の漫画にまつわる時代背景とともに振り返る。また第二節では、大友の出現を境に独自のジャンルに活路を見出し漫画界に大きな広がりをもたらしたニューウェーブについても整理しておく。

第1節 大友以前 手塚治虫の復活と劇画、青年誌の勃興
大友克洋が活躍していく70年代~80年代の前には、劇画の時代があった。紙芝居や貸本文化から成熟してきた60年代の漫画史において、劇画はある種の沸点となった。高度なドラマ性や歴史的事実から派生した舞台設定、必然性のある残虐性、アウトローや妖怪などのダークな描写。子供向けで楽しいイメージの漫画から大きくまた深く派生した。

一九六〇年代の漫画が五〇年代よりもはるかに多様性が広がったのは、貸本漫画の中心だった「劇画」の出現による。しかし、貸本業界は、大手資本による漫画月刊誌、さらに漫画週刊誌によって次第に傾かざるをえなかった。そのために多くの漫画家たちは週刊誌へ仕事を移行したが、表現活動の面では大きな制約があった。長井勝一と白土三平が組んで始めた『ガロ』は、その点で画期的な意味をもった。 

『ガロ』は『カムイ伝』のために1964年に創刊された。実際に『カムイ伝』が連載されたのは4号からだったが、貸本人気作家で後に『子連れ狼』(大友もこの作品のパロディを描いている)でブレイクする小島剛夕や、こちらも貸本作家時代から名をはせ、ゲゲゲの鬼太郎シリーズなど妖怪漫画の第一人者である水木しげる、誌面上で名指しでスカウトされたつげ義春など、そうそうたる面々によって一大劇画雑誌となっていった。大友自身は劇画について「読者層や内容を底上げすることには成功して少し大人になったが、殺伐とした話が多い」 と感想を述べている。もちろんその前には漫画の神様と称される手塚治虫による遺伝子たちがちりばめられているのだが、劇画の隆盛によって手塚は、もはや廃れかけた漫画家として過去の者になりかけていた。手塚からの脱皮によって生まれ育った劇画は、その斬新さによって手塚が欲っしてきた社会的承認をさらっていった。

  それは当時のより「リアルな」劇画の隆盛によるもので、描画のレヴェルでも、主題のレヴェルでも「古臭さ」は指摘されていた。さらに虫プロの倒産といった手塚自身の事情も重なり、この時期の手塚は、とくに少年マンガ家としての作家生命はつきつつあるとすら見られていたのである。しかし、七三年に『週刊少年チャンピオン』で『ブラック・ジャック』の連載を開始、手塚は再び少年マンガの一線に返り咲く。 

手塚はその猛烈なまでの劇画の隆盛に業を煮やして自らも漫画雑誌『COM』を創刊した。手塚の火の鳥を筆頭にした雑誌だったが、それも原稿が間に合わず、石ノ森への嫉妬や確執など多数の問題を抱えた。1973年に虫プロが倒産したことで雑誌も廃刊となった。虫プロや『COM』は、『機動戦士ガンダム』の安彦良和、『妖怪ハンター』の諸星大二郎、『タッチ』のあだち充らを輩出した。手塚の対抗意識から生まれた雑誌であったが、結果的に後世に名を残す新人発掘に成功した。
 大友自身も手塚治虫作品はもちろん、『COM』も愛読していた。

  フツーの少年まんがとは違う社会性を持ったまんがが、自分の成長過程とオーバーラップして、“まんがでも、いろんなことができるんだなァ”と感じましたね。[…]ストーリーとか結末とかをあまり気にせずに、自分の生きざまとか、自分の考え方とかをまんがで表現しようと、かなり気負った感じでしたからね。純文学みたいなまんがをやるというか、そういうジャンルが存在した時代だったんです。 

大友は『COM』を読んで漫画はストーリー漫画だけではない、もっと個性的で描きたいものを描いてもよいと知り自身もその方面に向かっていく。そして、大友が漫画家として活躍するその時、青年誌という活躍の場が用意されていた。
1967年には双葉社から『週刊漫画アクション』が、同年に少年画法社から『ヤングコミック』が、1968年には小学館から『ビッグコミック』が刊行される。『ビッグコミック』は、プロダクション制を敷いていたさいとうたかおを軸に、手塚治虫、白土三平、水木しげる、石ノ森章太郎が同時に連載するモンスター級の新雑誌であった。大友はこうした劇画時代と青年誌勃興の時代を経てついに日の目を見る。脱手塚からの劇画の流行、さらに青年誌の勃興によってより自由に大友自身が描きたいものを描くことが許される土壌ができあがっていたのである。

第2節 大友以後 許されるニューウェーブ
1970年代後半から80年代前半には、ニューウェーブと呼ばれくくられる漫画家たちがいた。彼らもまた手塚治虫へのアンチテーゼとして興った劇画ブームと同じように、今度は劇画へのアンチテーゼとしてよりニッチで新しい漫画を生み出した。

語るべきことは語られてしまったという認識から始めた最初の世代の一人である大友は、語られたものを語り直すことで、80年代の重要な表現者となってしまった。 

ニューウェーブとは時代にあぶれた者たちへの呼称である。少年漫画にも少女漫画にも、はたまた劇画にもジャンル分けできないマイナーでリアリズム溢れる漫画を描く者たちに読者が与えた呼称に過ぎない。しかし、彼らにはひとくくりにできない個性がありすぎたために、個性の集団としてニューウェーブという呼称が与えられたのかもしれない。全員に共通する特徴はなく、世代的にニューウェーブにくくられただけの漫画家もいただろう。しかし、そうしたムーブメントも1979年に集英社から『ヤングジャンプ』が、1980年には講談社から『ヤングマガジン』が創刊し、大手出版社による青年誌への本格参入によって終わりを迎える。ニューウェーブがウェーブでなくなり、一般青年誌に吸収されていった。それは読者が求めていたからこそ成立したムーブメントであり、読者に許されたジャンルであった。

ちょうど「青年誌」が誕生したんです。[…]内面的な部分と結びついた表現が商業誌で発表されて、かつそれを読む読者が多数いるという状況が、あの時代に出てきたわけ。 

 大友と同時期に活躍した高野文子との対談で、高野が「漫画には、はやりすたりがあり、あっというまに古くなり10年も保たない」というのに対し、大友は、「漫画は保つよ。完全に独自に始めてしまったものは、すたれるとかそういうことは関係ないんじゃないの」という発言をしている 。大友にとっては、自分で描きたいことを描いていた結果であり、それは読者に受け入れられるはずだという実感があったのかもしれない。
ニューウェーブの代表格として名前があげられるのが、大友克洋である。大友の出現によって日本の漫画界には大友以前/以後という言葉まで登場した。大友の新しさは、その絵にある。マンガ的デフォルメがほとんどなく、年齢性別に関係なく日本人やアジア人のいわゆるモンゴロイド系の堀の浅い平面的な骨格や筋肉を見たままに描いた。大友の漫画には漫画的な美男美女は登場しないばかりか、子供すら憎たらしいほど無邪気に描かれている。さらに街の風景を事細かに汚れやゴミ、家屋や道路の軋みやヒビにいたるまで描き出す。

  大友の絵のすごさは、単に緻密でリアルというところにあるのではない。[…]大友の絵は資料を軽々と超えるのだ。[…]誰も見たことのないような角度から望遠レンズや広角レンズを駆使して撮影したかのような(ありそうでありえない)光景を、紙の上に再現してみせる。 

 大友はロングショットや俯瞰ショットを多用し、大抵1コマ目には舞台となる古アパートや高層団地など街の風景をもってくる。ドローンを用いた空撮などあるはずもない時代にまるで空を飛びながらスケッチをしたかのようなリアルな風景が繰り広げられる。しかし、そうまでしたリアルな描写は常に一貫しており、派手なものだけに力を入れるのではなく、人の顔、街の風景すべてに反映される。それこそが大友最大の持ち味であり新しさだった。

手塚の絵が、キャラクターの人格や物語の主題を〈意味〉する記号であるのに対し、大友の精密画の人物は、あくまでもシステムの中の一要素であり、〈キャラクター性〉という〈意味〉を誰一人、付与されていない。 

 現実の人間に限りなく肉薄した大友の絵には、これまでの手塚時代の漫画に登場するデフォルメされたキャラクターたちとは異なり、付与される意味はまるで異なる。主人公ならではの目立つキャラクターデザインが施された人物は登場せず、登場人物全員が分け隔てなくどこにでもいるような見た目で描かれている。誰もが大友漫画の中では、登場人物であると同時にそのリアルさから現実の我々自身をたやすく投影する存在になりうる。それによって、大友の描写以上にあたかも自分のまわりで起こっているかもしれないという納得感がもたらされる。
 大友はこれまでの漫画表現に一石を投じ、日本漫画界におけるエポックメイキングな存在となった。かつての手塚時代のストーリー漫画や劇画の流行のように、大友以後その緻密な背景やデフォルメをしない人物描写に挑戦する新人が増えていった。

第二章 短編作品論
第1節 日常と余白
 初期の大友作品には、日常性を前面に出した作品が多い。この節では、初期の大友作品の検討を行い、それぞれの作品の特徴と大友が描く日常性の在りかについてみていく。
率直にいって、大友の初期作品は玉石混交であり自分のスタイルを確立していくように手探りで漫画を描いているような印象を受ける。決められたジャンルやテーマがなく、単発の読みきりの短編作品を雑誌に掲載している。強いて言うなら、大友が上京して見た景色、時代の雰囲気をそのまま描いている話が多い。

第1項 『BOOGIE WOOGIE WALTZ』
単行本に収録されている大友最初期の作品で、『BOOGIE WOOGIE WALTZ』(1974)に収められた表題作品『BOOGIE WOOGIE WALTZ』を見ていく 。タイトルはアメリカのジャズバンドであるウェザー・リポートの4枚目のアルバム『スウィートナイター』(1973)の1曲目のタイトルから取られている。話の内容とは直接関係ないように見えるものの、当時の流行最先端の音楽からタイトルを引用しているところに、大友の源泉を垣間見ることができる。これは、銃の力に過信して娼婦の旦那のヤクザに復讐しようとする冴えない男の話である。彼は弾詰まりにより復讐がかなわず、反対に懲らしめられてしまう。自棄になり今度は拳銃自殺しようとするも、意気地のない男は引き金を引くことができない。
この作品では、主人公は愚痴を吐きながら働くまったく冴えない男性である。みすぼらしいほどではないが、頼りなくとても漫画の主人公としてはふさわしくない小者である。手塚時代のストーリー漫画ではまずありえない。また、作品の描写に注目すると、背景には意識的な空白が多用されている。描きこみはあまりされず、描かない白もしくはベタの塗りつぶしによる黒によって登場人物に視線が行くようになっている。(図版1)顔には細いペンで陰影が描きこまれており、立体的でややごつごつとした濃い印象を受ける顔になっている。これは劇画に通ずるものである。この描写は、劇画の絵で劇画のような物語は語らないという大友の宣言であるといえる。ヤクザや銃というモチーフが作品をより暗く劇画に近くしているが、主人公らしくない主人公を据え、報われない主人公を描いたのは大友が起こした漫画革命のひとつである。

第2項 『心中――‘74秋――』
『BOOGIE WOOGIE WALTZ』と同年に描かれた『心中――‘74秋――』(1974)は、貧乏学生と彼女の逃避行を描いた作品である 。彼女のけい子は心中を持ち掛け、列車から飛び降り自殺をするが、主人公はなかなか決心がつかず、飛び降りた頃には列車は駅のホームに入線したころだった。彼女の想いに応えることができない男の意気地のなさを描いている。
この作品では、主人公の名前が大友となっており、作者自身が主人公の代弁者であり、主人公が作者の代弁者という構図になっている。この主人公もまたずぼらな生活を送る貧乏学生である。当時の大友も自分や自分の周囲にいる人物は、本質的に漫画の主人公の大友のようにぼんやりと流されて生きていると感じていたのかもしれない。この作品で主人公の友人が発する「曖昧さは/堕落だって/…………/お前/言ったろ……」というセリフは、なんとも曖昧に生きているさまを描くこの漫画にとっての錨になっている。(図版2)彼女に心中を持ち掛けられた大友は、自身のこのセリフをリフレインさせながら、曖昧さを払拭しようとするも結果的には失敗に終わる。作者の大友にとっては、曖昧で堕落しているようにも見える人間の日常を描くことが作品のテーマであることを示している。この作品ではオチに微かな滑稽さを持ち込んでいる。シリアスな心中というテーマからの落差によって少し間の抜けた笑いが起きる。堕落した曖昧な人間のおもしろさを描いている。

第3項 『傷だらけの天使 第一話 ――暗夜行路――』
 『傷だらけの天使 第一話 ――暗夜行路――』(1974)では、全く救いのない話が描かれている 。気性の荒いトラック運転手が暴走運転を繰り返し、バイクに乗っている女をナンパするも振られ排気ガスをあびせバイクを転ばせる。転ばされた女の腹いせに暴走族のバイク集団がトラックを追い詰める。運転手はドアを開けバイクを転ばし、暴走族の集団をものともせずトンネルを駆け抜けていく。
この作品では、夜の高速道路が舞台ということもあり、バイクやトラックのヘッドライトを活かして白と黒がきっぱりと描かれている。(図版3)車は黒い影だけ描かれ、かろうじて車と認識できる程度だが、それぞれの車のヘッドライトで道路が照らされ混みあった道路だということがわかる。さらにトラック運転手の嘲る顔とは対照的に、暴走運転を繰り返すトラックはいたって無機質に描かれている。さらに主人公は、無機質なトラックで乱暴狼藉をした後、そのトラックという力を失うことなくトンネルを抜け光の彼方に消えていった。勧善懲悪どころか悪の立場にある主人公に対し、何の制裁もなくこの話は結末を迎える。まさにストーリー漫画へのアンチテーゼである。

第4項 『スカッとスッキリ』
 『スカッとスッキリ』(1975)では、憎たらしいほどに暴れまわる子供が描かれている 。夏の暑い日、ある強盗が家に押し入る。強盗は、偶然その家に訪ねて来た出前や営業マンも続けて捕らえてしまう。しかし、一人娘のゆきえが逃げ出し、たくさんの友人を連れてくる。子供たちは好き放題に家中で遊びまわり、その隙に犯人は捕まる。
この話では、とにかく無邪気な子供が描かれている。しかし、大友の描く子供はまったくかわいげがない。ほとんどデフォルメがなされておらず、はなたれ小僧という表現がよく似合う。(図版4)また、この話では『BOOGIE WOOGIE WALTZ』や『心中――‘74秋――』では残っていた劇画に引っ張られているような黒さがなくなっている。せいぜい影になる部分にのみ黒が使われており、ほとんどの画面が白い。徐々にではあるが、本格的に劇画の影響から卒業し、大友の画風が確立されてきている。

第5項 『ハイウェイスター』
 『ハイウェイ・スター』に収録された表題作品『ハイウェイスター』(1976)では、『傷だらけの天使 第一話 ――暗夜行路――』のようにカーチェイスを主題としている 。しかし、この作品では以前描かれた乾いた暴力性はなく、むしろ構成力が際立つコメディータッチの明るい作品になっている。タイトルはイギリスのロックバンドであるディープ・パープルが1972年に発表したアルバム『マシン・ヘッド』の1曲目に収録された曲から取られている。
ひげ面の男はヒッチハイカーの女を乗せてやることにする。男は一見おんぼろの改造車で数々の車に賭けレースを仕掛ける。男は警察無線で事故現場に警官を誘導したり、暴走族との勝負を不自然に避けたりしていた。女は不思議がりながらレースを繰り返していると男の付け髭が外れてしまう。すると男はいきなり女を車から降ろしてしまう。女は迎えに来た兄の車で帰路につくが警察にスピード違反で捕まってしまう。警官と顔を見合わせるとなんとその警官は賭けレースをしていたあの男だった。見逃してやるから早く帰れとまくしたてるが、男は付け髭をつけて女を見送った。
この話では、大友は伏線を散りばめた話作りをしている。男の車はおんぼろに見えて改造車であったこと、男自身も走り屋ではなく警察官であったことなど読み切りとはいえ伏線を張り、最後は主題もあいまって風が吹き抜けるようなふっと笑える作品になっている。勧善懲悪な話ではないが、大友克洋の構成力、ストーリー漫画としても漫画を描くことができるということを示した。しかし、背景は相変わらず白くスクリーントーンも登場人物の服の陰に使うのみでより白く、空白に読者の想像力を乗せる描き方をしている。(図版5)川本三郎による『ハイウェイ・スター』のあとがきにおいても、ジャンルにとらわれない空白のある絵で表層を自在にすべるとある 。また、人物の顔にもかつてあった黒い陰の描きこみはなくなり、より平面的で日本人的な顔になっている。それによってより表情がわかりやすく顔への効果線が機能的になっている。確実に大友は自分の描き味を変化させつつある。

第6項 『宇宙パトロールシゲマ』
 『宇宙パトロールシゲマ』(1976)では、突拍子もなさと日常、読者を置き去りにする不条理さを織り交ぜた作品になった 。大学生4人が古アパートで新年会をしている。自分の秘密をそれぞれ打ち明けることになり、自分は宇宙人だと言いグラスを割ったり、火を吹いたり証拠を見せつける。最後の1人は宇宙パトロールだと白状し、恥ずかしい見た目のスーツに着替えた。証拠に円盤を見せてやるといい、海まで行って円盤を呼び出す。(図版6)みんなで笑い合い、いい新年会だったとアパートに帰っていった。
話の脈絡はまるでなく、大学生4人がふざけ合っているだけである。それどころか自分は宇宙人だ、宇宙パトロールだと言いだして終わりである。宇宙人を宇宙パトロールが捕まえるでもなく、普通の大学生ではない理由が明かされるでもなく、設定を出して終わる。笑って帰る4人の姿はどこにでもある大学生の日常である。大友が好んで描いてきたありそうな日常の中にとびきりやりたい放題を詰め込んだピーマンの肉詰めのような作品である。

第7項 『ROUND ABOUT MIDNIGHT』
『ROUND ABOUT MIDNIGHT』(1977)では、驚くほど平坦に実際にあったことを漫画にしたような日常を描いた 。タイトルの出典は、トランペット奏者マイルス・デイヴィスの1956年のアルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』の表題曲から取られている。大学生4人が集まって徹夜で麻雀をしている。ビリが買い出しに行ったり、ポンが先かツモが先かで揉めたり、騒がしくなって苦情が来たり、朝になってくたくたな4人は街に繰り出す。単にそれだけの作品である。
大学生であれば、一度は経験があるであろう出来事である。端的に言えば、漫画にするほどの話ではない。徹夜で麻雀をすることは、フィクションよりも現実に近い出来事であるため漫画になった時、物足りなく平凡に感じる作品になっている。しかし、それは大友のリアルでデフォルメのない人物が、誰にでも出来うることをやっているからだ。また、この作品は、先の『宇宙パトロールシゲマ』と同じキャラクターデザイン、名前を引き継いで描かれている。それによってこの4人はただ麻雀をしているように見えて宇宙人・宇宙パトロールなのではないかという疑念が読者に与えられる。その一縷の疑念が読者に含みを与え、大学生が麻雀をしているだけの話にそれだけではない何かを期待させている。

第8項 『天網恢恢疎にして漏らさず』
『天網恢恢疎にして漏らさず』(1977)では、より大友らしさを残しつつフィクションとして成立する作品を描いている 。タイトルは『老子』からとられており、悪事を働けば必ず報いが訪れるという意味だ。主人公の男は作中において悪事を働く様子は描かれていないが、タイトルの意味から推測するに語られていない物語世界では何か悪事を働いたのかもしれない。そう読者に想像させることが大友の狙いなのかもしれない。
男が寝ていると天に召される夢を見る。しかし、それは夢ではなく、現実であった。男はどこにも異常がないと断固拒否するも、天使は男が死ぬのは今か今かと憎たらしくついて回る。一日中付きまとわれ天使に文句を言っていると死んだはずの隣の住人が化けて出てきた。天使たちは連れていく相手を間違えたのだ。無事に隣の部屋の男を連れていくが、男の頭に天使の輪が現れる。
ここでも大友の癖のあるキャラクターがよく出ている。主人公はこれまで通り、いたって普通の特筆することが何もないくらいのどこにでもいる男性である。しかし、天使を描いているが、まったく聖性を感じられない。それどころか迎えに来る人を間違え、早く死ねと言わんばかりの態度である。さらにその見た目は、大友が描く憎たらしい子供によく似ている。大友の子供と天使に抱くイメージが近いことの表れである。
この作品は、大友作品には珍しく死や聖性についてフォーカスされた作品である。死んだ、殺したではなく天使が迎えに来るということは、直接的表現を避けるとともに、大友の死生観や破滅へのイメージも合わさっているのかもしれない。日常を終わらせるものは「死」でありいつか来る破滅は避けられない。途中、本編のストーリーとは何の関係もなく、蛇口がついたビルが崩壊しつつあるコマが描かれている。(図版7)ビルが崩壊するイメージはたくさんの人間の死=天使の出番ともとれる。主人公の頭に最後に天使の輪が現れることも、破滅や死のイメージであり、それは予期せぬタイミングでやってくるということを表すものだ。コメディー調に日常を描いてはいるものの、その裏には大友の死や破滅へのイメージが内包されている。

第9項 『SO WHAT』
『SO WHAT』(1978)では日常の終わりが清々しく青春のひとコマに乗せて描かれている 。タイトルはマイルス・デイヴィスの1959年のアルバム『カインド・オブ・ブルー』の1曲目から取られている。また、1988年に山川直人監督によって実写映画化されている。 田舎の高校生4人は、バンド組んでいながらもそれぞれ将来に不安を感じている。部室でロックをやっていると注意されてしまう。帰り際に番長の彼女に絡み、泣かせてしまう。主人公も自分と同じように誰しも悩みを抱えていることに気づき、田舎にいることの疎外感を自覚する。そしてあっさりとトラックをヒッチハイクし、清々しい顔で家出していった。
この作品では、大友が生まれ育っていたような田舎を舞台に、思春期のモラトリアムな日常を描いている。主人公は、田舎の中で生きづらさを感じながらも、それが自分だけではないと知った時、この日常を放棄しなければ、この生きづらさを払拭することができないことを悟った。そのためバンドを捨て、日常を捨てて旅立った。しかし、本人は何も捨てたとは思っていないだろう。モラトリアムからの卒業を自分の手で為したにすぎない。この主人公はまるで大友が上京しようと思った心情そのものだろう。始まりの前には終わりがあることを、青春の1ページに乗せて描いている。

第10項 まとめ
ここまで検討してきた大友の初期作品には、共通点がある。まずは、日常を描いているということ。大友が見てきた日常のおもしろさをそのまま漫画にしている。田舎育ちゆえの都会のまぶしさ、田舎にはいないおもしろおかしい人々を描くことによって、よりリアルで現実にありそうな話を作ることに成功している。初期作品に登場する主人公は、どれも普通なのである。特別な能力が付与されているわけでもなく、現実世界に存在するとしても違和感がない。それはまるで大友が思い描くペルソナである。自身と年齢が近いようなうだつのあがらない大学生の生産性のないモラトリアムな時間、大きな夢もなく流されるまま働いたりだらだらと時間を浪費したりする大人、ヤクザや暴走族などの日陰者たちのアングラな毎日、一口に日常といえど様々なバリエーションが存在する。しかし、そのどれもが紋切型であり、たやすく予想ができてしまう。現実に存在してもおかしくないほどリアルに肉薄した物語を描いていくがゆえに、その主題である日常についても読者の想像の範囲内に収まってしまう。次に、それを支えるデフォルメされていない画力。人物はより平面的なモンゴリアン的骨格で描かれ、女子供だろうともまったくもってかわいげはない。容赦がないという表現が似合うほどキャラクターではなく人間として描かれている。そして大友の作る話には、少々の笑いがある。笑いといってもギャグで笑わせるのではなく、どうしようもない登場人物に対して起こる微かな笑い、または乾いた笑いである。それは大友が与える読後感に起因する。日常をリアルに描くからこそ起こる風がなびくような読後感。一話完結の作品が多いことも手伝って、まだその作品世界がどこまでも続いていくような気配がある。大友の初期作品は、日常性を前面に出し描かれている。

第2節 大友の変容
第1項 『ヘンゼルとグレーテル』
大友克洋の第1の転機は1978年の『ヘンゼルとグレーテル』からである。『ヘンゼルとグレーテル』は、同名の童話を元に大友が独自にギャグやシリアス要素を足したパロディ作品である 。ほぼ童話そのものの単純なストーリーではあるものの、この作品で大友は驚異的な画力を発揮する。まったくベタ塗りを使わずペン先ひとつで膨大で緻密な森を描き切ってみせた。これまで白の余白と黒のベタ塗りをうまく活用しながら日常を描き、現実味のある人物描写を得意としていた大友であったが、ここでは徹底して背景の緻密さにこだわった。森、岩、波、砂、あらゆる自然物に対して、これでもかというほどの緻密なアプローチがされている。(図版8)

『ヘンゼルとグレーテル』は一人で描きためて、「ヤングコミック」(少年画法社)に持っていきました。「若者のどうしようもなさを描くマンガは、もう飽きたな」って感じだった。 

さらにここで注目すべきなのが、大友自身が持ち込みをしている点である。この時点で大友は漫画読者には認知されているレベルの漫画家であり、自分から持ち込みをする必要はない。漫画家が持ち込みをするのはそれこそ日常であると言えるが、これまでの自分の漫画に「飽きた」という理由で新作を持ち込んでくる漫画家は、ある種、常識離れしているのではないだろうか。そういった点からみても日常性を前面に出した初期の大友から脱皮しつつあったことは間違いない。細いペンを使うタッチはそのままに、よりわかりやすい画面、余白をほとんどなくした緻密な背景描写、より漫画らしい起承転結のあるストーリーを描こうとする姿勢が見てとれる。

第2項 『大麻境』
 同年の『大麻境』では、物語の起承転結を明確にすることで、コメディータッチに磨きがかかっている 。
3人の大学生のもとに先輩が訪ねてきて、山に大麻があると地図を売りつけてきた。小学生の宝さがしのような地図にすがり、大麻の原生地を目指して山を登っていく。丘の上で大麻を見つけ、かけよると大きな揺れにみまわれる。それはゴルフ場建設の工事の揺れで、大麻畑など見る影もない。たくさん苦労をして手に入れたのは3つの大麻草だけであった。そこで3人は先輩のように地図と噂話で一儲けしようと考える。その結果、山には話に乗せられた大学生がたくさん押し寄せた。
この話では、相変わらず主人公には貧乏大学生を据えているものの、起承転結がはっきり読み取れる。ゴルフ場建設工事など当時の日常を織り交ぜながらも、目指すべきお宝=大麻の原生地を設定することにより物語にゴールを発生させている。そしてそれは達成されることはなく、むしろそこから笑いのあるオチに至る。ここでもまたふっと笑いが起こる日常性が描かれている。また、最後は主人公たちに騙され同じ命運をたどることになる大学生が集まる。そうすることで主人公たちも先輩と同じように地図を売りつけたことや大学生の集団は大麻の原生地にはたどり着けないことなど、一連の物語の再現性が読者の頭の中に浮かび上がる。そうすることで読者の心中に虚無感や無常観を連想させることに成功している。

第3項 『カツ丼』
 しかし、完全に大友の作風が完全に変わるのはもう少し先のことである。『カツ丼』(1978)では、終始古びたアパートで日常を描くことでストーリーが完結している 。
古いアパートで田中という大学生が首をつった。田中は定食屋でカツ丼を頼む時しか話さない無口な学生、通称「カツ丼」と親しかった。田中が死んでから1か月後に飲み会をしていると、田中の部屋だったところからうめき声が聞こえる。田中の部屋でカツ丼が死んだ田中を呼び出していた。田中はあの世でも恋愛に苦戦しているようだ。田中が死んで1年後もアパートの日常は変わらない。
この話では『大麻境』とは異なり、初期の大友作品の流れをそのまま汲んでいる。古びたアパートにうだつが上がらない若者、起承転結が曖昧で拍子抜けするような結末、初期大友の得意中の得意がふんだんに盛り込まれている。しかし、全く同じではない。ナレーションを始めと終わりに用いている点や登場人物の自殺、幽霊という現実離れしたキャラクターを(コメディータッチではあるが)登場させている点など、日常性を前面に繰り出すのではなく、ストーリーの中に織り交ぜようとしている。まだ日常のなかにドラマ的なエッセンスを散りばめようとしている段階だが、大友の体験してきた日常を描くのではなく、それをベースにしながら漫画の物語として昇華させようとしている。

第4項 『信長戦記』
 『信長戦記』(1978)では、限りなく現実に近い舞台設定に突拍子のなさを合わせ、さらにエンターテイメント性を高めている 。
静岡県に城が建設され、織田信長と名乗る城主は治外法権を政府に要求してきた。首脳陣はただの狂人だと一蹴するも、騎馬武者たちが主要施設を制圧し始めた。武者の鎧は銃弾を弾き、刀は戦車を真っ二つに切る。静岡県を乗っ取られた政府は信長との会談を設ける。途中、首相たち3人が誘拐され首脳陣はばらばらにされる。会談場所には、鎧姿の首相たちが現れる。すべては首相たちの自作自演だった。これまでの進んだ文明を一気に戻し、先のない未来に進むより始めからやり直そうというのだ。
この話では、実在する場所(静岡県)を舞台にしたことでぐっと現実味が増している。城を建設するという突拍子のなさが際立ち、真面目に不真面目をやることによってシリアスな笑いが成立している。また、この作品には、これまで大友が頻繁に描いていた大学生やヤクザ、浮浪者などは登場しない。むしろ確たる意志を持った主人公を据えている。終始おじさんしか登場しないものの、より話で魅せる漫画になっている。城という大きなモチーフに政治的転覆、ひいては文明を逆行させる終末的思想を盛り込んだスケールの大きな作品になっている。描写に注目しても、1ページ目から迫力ある城の見開きで始まっており引き込まれる。(図版9)さらにこれまでの細い線だけでなく、水墨画のようにかすれた黒を随所に入れることによって和のテイストが引き出され、話と絵がかみ合い両者を引き立たせている。

第5項 余白の抹消
 『ヘンゼルとグレーテル』から始まる70年代後半の変化期において大友は、絵と話の両面から漫画家としての進化を試みている。劇画からの影響を完全に脱し、大友は自身の画風確立を試みる。一連の動きを小気味よく映画のような動画的カット割りを用いて描写することによって没入感を作り出し、ページをめくる手を止めさせない。それでいて、動いているのに止まっているような、カメラで切り取った写真のようなカットを見せ場に持ってくる。さらにコマ割りは非常にシンプルで滅多にコマからはみ出す絵の描き方はしない。映画館でスクリーンを見ているような没入感があり、シンプルに右上から左下に読み進める形を踏まえながらも静と動の動きのデザインによって緩急をつけている。

昔、水木しげるが好きだったんですよ。異様なほど緻密に描かれた背景の中に、鬼太郎なんかがいる絵を見て、「なるほどな」と思った。背景は画面の中で一番面積を取るんだから、そこをしっかり描き込んで人間を立たせるべきだ。 

大友自身、絵に関するインタビューに対しこう答えている。かつては余白を使いこなす漫画家であったが、この頃を境にしてリアルに緻密にそしてそれを意図的に描きこむ漫画家へと変化していった。

第6項 物語漫画へ
絵の変化に伴って話の面では、日常の在りかを変えた。これまでは、大友が上京し経験した都会での刺激的な日々を前面に押し出した作品が多かった。フィクションを創作するよりもおもしろい現実を紙に描き移すことをしてきた。その手法によって一定の到達を遂げた大友は、文字通り話作りをついに始めた。
この時期の大友の作品は、コメディータッチで乾いた笑いを読者にもたらすような作品が多い。その作品たちには、初期の作品のように日常が前面に出されていない。どれも作られた話のなかに日常が織り込まれたり、隠されたりしている。そうすることで日常というエッセンスをより際立たせつつも、ストーリーを構築した漫画として成立させている。また話の中に無常観や死、終末的世界や転覆など一見して日常とは反対にあるエッセンスを盛り込むことで、起承転結の起伏を意識的に高めようとしている。絵を使い、より日常をわかりやすく描くことができるようになった大友は、その創作意欲を今度は物語の面に発揮するようになっていった。第1の転機を迎えた大友作品は、日常をその作品の中に内包しようと試みている。

第3節 終末と日常
 大友克洋の第2の転機は1979年の『Fire-Ball』である 。この作品で大友は、ストーリーを練り上げたSF作品に挑戦する。もはやこの作品に大友が経験し、描いてきた日常はない。完全に創作され構成された作品になっている。タイトルはイギリスのロックバンドであるディープ・パープルのアルバム『ファイアボール』に収録された、1曲目に入っている同名曲より引用されている。ディープ・パープルからの引用は『ハイウェイ・スター』でも行われているが、大友の作風は大きく変化している。これ以降の大友作品には、高い頻度で終末的な演出がなされ、これまで前面に描いてきた日常は鳴りを潜める。漫画家としての大友が徐々に完成形へと近づいていく。

第1項 『Fire-Ball』、SF漫画への挑戦
『Fire-Ball』(1979)の話の大筋は以下の通りだ。
徹底した管理社会のなかで政府打倒のためのデモが活発になっている。機動隊員の大沢は、捕まったデモ隊の中に弟を見つけ解放する。大沢は鉛筆を浮かす超能力が使えたが、弟は能力に開花しなかった。弟は大沢と別れた直後、兄や自分が死んでしまうような予感を感じた。大沢は機動隊の配置転換を願い、上司に直談判に行く。そこで大沢に超能力があることが判明し、検査という名目で解体・研究される。弟はゲリラ隊と共に人工知能ATOMの存在を明るみにするため研究所に侵入するも撃ち殺されてしまう。死の間際の兄を呼ぶ声に呼応し、もはや人の形を成していない大沢が力に目覚め大爆発を起こす。大沢はATOM本体に向かいながら徐々に温度を上昇させていく。大沢がATOMによってやられそうになった時、死んだはずの弟も力に目覚め巨大な爆発を引き起こした。
後に大友の得意分野となる超能力を用いたSF作品はここから始まった。デビュー当時は、手塚のようなストーリー漫画を描くことは自分の漫画ではないとしていた大友だったが、この作品では、近未来を描くストーリー漫画に挑戦している。均一的な直線で描かれた街並みや徹底的に管理された清潔感のある白い余白など、意図を持った「白」がここで復活している。この近未来の街を管理する人工知能に大友は「ATOM」と名付けている。これは言わずもがな手塚治虫の『鉄腕アトム』からの引用である。これまでの方針を転換し、漫画の王道たるストーリー漫画に挑戦するにあたっては、やはり手塚の存在が大友の中にあったのだろう。さらに、解剖されほとんど人間の形を残していない主人公や基地が爆発していく様など、これまでの大友漫画にはない一見理解が追い付かないような派手な描写がなされている。

第2項 『Fire-Ball』における終末と超能力
『Fire-Ball』の最終ページは、宇宙から見た地球の一角の大爆発で占められている。(図版10)これは誌面の都合上ページ数が足りなくなったこともあり、構想段階と比べて未完のラストシーンとなったそうだ 。くしくもこの正解を示さない結末によって、主人公たちの生死や街の結末は読者の想像に委ねられており、この点においては、これまでの大友漫画同様に風がなびくような(今作に限っては強風のようだが)読後感は醸し出されている。しかし、これは、ページ数が足りなかった故に苦肉の策として手癖のようにいつもの終わり方を選択した副産物である。この終末的結末は、これまでの大友作品の日常を描くものとは一線を隔すものになった。日常が崩壊していくさまを描き、日常と正反対の終末を結末に据えることで前半の兄弟の会話がより日常らしく際立っている。そういった意味でこの作品の終末は、結末が読者に委ねられていることも相まって、終始装置として機能している。
ここで最も注目すべき点は、超能力を描いていることだ。これまでうだつのあがらない周縁者の日常を描いてきた大友が、そこから大きく離れた超常現象を描いている。絵や話のレベルを上げ、大友の経験してきた日常を描くことをやめた末にストーリー漫画として選んだのが、超能力を用いたSF漫画であった。

日常のリアルな人間を描いているつもりで、なにかひとりよがりの似たような話ばかり描いているような感じがしてきて、自分で飽きちゃったんじゃなかったかな。
 作品をパターン化せずに、スタイルを作らず、新しいことをやっていこうと考えた。その頃、映画の「スター・ウォーズ」の影響があったのか、スコーンと抜けるダイナミックな絵を描いてみたくなって、SFの話を作る方向にいくかと。まんがは、もともとSF的要素がかなりあるし、ボクの人間描写をSFの中に焼き直していったら、おもしろいかなと思い始めたんです。 

大友自身がこれまで初期衝動で描いてきた日常を描く漫画に対し一定の達成感を覚え、描き切ったのだということがうかがえる。アメリカ映画は、『スター・ウォーズ』の登場によって内省的なものから娯楽大作へシフトしていった。大友もそうした作品の影響を受け方向転換をしていく。70年代の『スター・ウォーズ』、『宇宙戦艦ヤマト』など映画やアニメに起こっていたSFブームに関心のあった大友は、漫画界においてその可能性に目を付けた。そうして描き始めたSF漫画たちが大友の代名詞になっていくのであった。

第3項 『童夢』、ホラー漫画への挑戦
さらに『童夢』(1980-1981)では、『Fire-Ball』から超能力というモチーフを引き継ぎながらホラー要素を盛り込み、その両立を図っている 。
無機質で暖かみのない巨大な団地で原因不明の変死が相次いでいる。すべてはチョウさんという老人の超能力によるものだった。次の日、同じく超能力者の悦子が団地に越してくる。悦子はチョウさんの正体を見抜き、諭すが、チョウさんは聞く耳を持たない。チョウさんは悦子を排除するため、精神的苦痛を与え殺そうとする。悦子とチョウさんは空を飛び念力や衝撃波を駆使して戦う。劣勢のチョウさんは、団地中のガス栓を開け爆発を起こす。悦子は悲しみと怒りに飲まれ力が暴走してしまう。団地の外で悦子は母親と再会し力の暴走が止まる。数日が経って、2人によって崩壊した団地の側でチョウさんがベンチに座っていると悦子が現れる。見えない超能力の応酬が繰り広げられた末にチョウさんは絶命してしまう。悦子は何もなかったように消え、団地にはまた日常が続いていく。
童夢の舞台は、巨大なマンモス団地である。均一的な団地の外観をまったく省略することなく、一つひとつ細いペンで差異のないように描いている。(図版11)これによって鉄筋コンクリートの冷たさや硬さを醸し、無機質な箱として団地を表出させている。また、ところどころにひび割れやシミなどの汚れを描くことで団地の均質化を避け、どこか薄暗く、社会と隔絶された面持ちの団地が終始描かれている。大友は、『エクソシスト』を見て次回作をオカルトホラーにすると決めた。西洋ホラーに洋館はつきものだったので、それを日本ならではの場所でやるにはと考えた末に、当時、高島平団地での自殺が取りざたされていたことから『童夢』の舞台を団地に決めた。

 SFとかオカルトを、いかに日常の中に埋没させていくことができるか。団地なんて見慣れているものでも、派手な絵は描けるんじゃないか、日常の中でもスペクタクルはできるんだ、と思った。 

 大友は、日常を捨て去ったのではなく、スペクタクル性の付与に舵を切った。「日常」という結末は同じであっても、そこに至る過程に大きなカタストロフ(非日常)が存在している。日常を前面に出した作品ではなく、作品の舞台に日常を置くことによって大友が描きたかったものをすべて織り込んでみせたのだ。『フューリー』では、学園という日常と少女の抑えきれない力による終末が描かれているが、それと同様に日常のなかにスペクタクルを置くことで、より読者をひきつける漫画的なおもしろさを持ち合わせながら終末を描くことに成功している。日常と終末を組み合わせることで、ただ日常性を描くよりも説得力を持たせている。大友は、日常のなかでもスペクタクルを持たせることができるという確信を得たのだろう。
登場人物に着目すると、『童夢』では怪事件を捜査する警察官以外は、外に働きに出ている男性の姿は描かれず、女・子供・老人ばかりが目立つ。主人公の悦子は女児、敵役のチョウさんは精神が子供のままの老人、そのほか事件の参考人として挙がるのは、アルコール依存症、精神障害、未発達児などおよそ社会から疎外されるマイノリティーばかりである。こうした疎外された者たちを団地という隔絶された小社会のなかで描くことは、これまで大友が描いてきた周縁者たちの日常と通じる。あえて社会を構成する大多数の働き手の姿が見えないようにしていることや団地に来る以前もしくは引っ越した後の姿が何も語られていない点は、大友が意図的に日常を団地に押し込める構造を選んだということだ。

第4項 子供と老人
『童夢』で超能力を付与されているのも子供と老人である。これまで大友が描く周縁者たちには特別な力は付与されていなかった。日常を形成する多数の大人たちではなく、マイノリティーたちに力を付与することは、革命はそうしたものたちによって起こされることを意味している。太陽の光の向きによって影ができるように、大友が弱者に超能力という光を与えたことによって構造の逆転が起きる。社会の周縁にいる人々に注目するのは以前の大友にもみられた手法だが、彼らに力を与え終末の体現者とすることはこれまでなかった。はみ出し者たちの革命はそれまでの大人たちの体制を覆すことになる。それは多数の大人たちにとっては終末の訪れであり、アウトサイダーたちにとっては新しい日常の始まりでもある。社会を構成するものの数によってその時の普通や常識は変容する。これまでの当たり前が覆るという意味で終末を描くために、大友は弱者たちに力を与えた。その証拠に、作中に一度も「超能力」という言葉は登場しない。ましてやその能力については何一つとして説明されないばかりか、超能力には実態もなくかろうじて飛び散る瓦礫やガラス片でその力がわかる。効果音や効果線は用いられず、独特の浮遊感が与えられている。不自然で不思議なものながら、見えない何かに気づかぬうちに浸食されているような不気味な恐怖感が立ちのぼる。多数派にとっては特殊で超常であっても、もとよりそれを持つ少数の者たちにとっては何かを超越したものではないという意味なのだ。日常と終末を使いこなす『童夢』において両面からのアプローチが意図的になされている。

第5項 瓦礫の描写
 大友が描く巨大団地は物語終盤から悦子とチョウさんの手によって瓦礫の山と化す。一つひとつ丁寧に描かれた生活のための場所であった団地が、バラバラの破片として人の生活から外れていく。そして大友の描く背景は、団地であった時よりも瓦礫になった瞬間の方が生き生きとしている。あえて均一的なコンクリートを描き崩壊する瞬間のひびや瓦礫などの表情を描いているように見える。(図版12)『2001年宇宙の旅』に登場するモノリスのように直線の組み合わせによって理路整然と並び描かれた『童夢』における団地の姿は、人を押し込める箱であり、その姿が本質ではなく破滅へ向かう最中の姿である。日常の姿である団地が、瓦礫になる過程に終末的なイメージが盛り込まれている。しかし、物語の最後には団地での生活は続き、たくさんの子供たちが公園で遊ぶ姿が描かれている。だが、瓦礫となった団地はすぐそばにあり、子供たちが遊ぶ公園のブランコの柱は歪み、座席の鎖がちぎれている。(図版13)そこは悦子が座っていた場所であり傍から見ると不自然に壊れている。団地の中に潜む次なる崩壊のイメージを忍び込ませているのだ。日常を話の前面に出すのではなく、団地という日常を舞台として使う『童夢』において、大友の終末的イメージは、きっぱりと分かれてはいない。ホラーとしてのテイストを加え、日常の背後に終末的演出を混ぜ込むことで、リアリティを担保し我々の日常への想像力を掻き立てる。日常の側には終末が潜んでおり、終末の後には日常が続く。こうした大友の態度を呉智英は「冷ややかで挑戦的な感覚」と述べている 。当時自殺が問題となっていた団地を舞台にしたことも相まって、そうした冷ややかな社会に対する視線を感じるという呉の主張にもうなずける。

『童夢』の半分をしめる団地の(ママ)おける戦いとその崩壊を見届けると、もはやそこに『日本住宅公団10年史』にあった牧歌的にして、まだメルヘン的な面影も有していた初期の団地の風景がもはやまったく失われてしまったことに気づく。そして歴史を経て、様々な事件をも経験してきた上に、八〇年代における終末史観も相乗する団地もまた、このような凶々しいイメージを内包するようになってしまったことも。 

小田光雄は、80年代の団地がメルヘン的なものから「凶々しいイメージを内包する」ものになったといっている。小田がいうようなメルヘンチックな描写は『童夢』には一切登場せず、団地中では変死事件について噂話が蔓延していく。大友自身も当時恐怖のイメージを集めていた高島平団地を模して『童夢』の舞台に団地を選んでいる。そのことを加味しても『童夢』の団地には牧歌的という言葉はまるで似合わない。
大友が作者としてすべてをデザインし、構成し、何1つとして無駄なく作りあげられたのが『童夢』である。箱庭のように社会から隔絶された巨大な団地を舞台に、怪事件を描いていくこの作品には、大友が自身の筆のままに描いてきた作品たちとは明らかに違う。長く映画や漫画に親しんできた大友克洋という漫画家が、特異的な画力と自然と吸収してきた構成力を今度は意識的に組み立てた。それは、大衆の評価も同時に獲得し、後世においても影響を与える超能力表現を生み出した。


第三章 『AKIRA』論
代表作『AKIRA』(全6巻)を最後に大友克洋の漫画家としての活動は下火になっていく。本章は彼が漫画家活動の集大成としていかに『AKIRA』を描いたのか、これまでの日常と終末は『AKIRA』にどのように受け継がれていくのかを検討していく。

第1節 大友克洋の集大成
 『Fire-Ball』『童夢』『AKIRA』では、その舞台を超ハイテクな管理社会、郊外の巨大団地、ネオ東京と作品を経るごとにより身近で想像しやすい舞台に寄せている。そしてその舞台を破壊する。それはつまり大友がおもしろいと思っていた東京に見切りがついたということである。東京の日常を描くより、自分自身が描くフィクションの世界がおもしろくなってしまった。自身の期待を越えてこない都会を描くよりその都会がいっそ壊れていく様に自身の理想を投影している。そしてもう一度きれいさっぱり壊れたところから始まる新しい日常にこそ大友の期待が詰まっているのである。
『AKIRA』は、大友が1982年からアニメ映画制作のための休載期間を含め1990年まで連載した初の長編シリーズ作品である 。アニメ映画版では、原作完結前に先に異なる結末が示されることになった。原作同様に大友のこだわりがこれでもかと詰め込まれている。事前に音声を収録し、それに合わせて口の動きを合わせて描くというプレスコ方式が採用された。それに伴い原画枚数は15万枚、予算10億円と破格の映画になった。元々大友は映画に興味をもち、漫画なら生計を立てられるかもしれないと思い上京してきた 。そうしたきっかけもあり漫画よりもその興味が映画に向いていった。大友が漫画でやってきたリアルな表現をアニメーション映画でもいかんなく披露した。連続した動きがあることによって漫画では成しえない表現やわかりやすさを実現している。例えば、バイクのテールランプが連続した光の線として描かれる。バイクが走るコマひとつではなく、それが連続して起こるのがアニメーションであり、その連続性を大友なりに表現したのがテールランプの連続した光なのだ。また、大友漫画ではよく引きの画でその話の舞台となる建築物を映す構図が多かった。それと同様にアニメ映画版の『AKIRA』でもネオ東京の光輝く街並みやビル群を上から空撮して俯瞰したように映すカメラワークが使われている。

第2節 日常に吹く風と聖性
第1項 2つの終末
 アニメ映画版の『AKIRA』では漫画版の完結前だったことや尺の問題からいくつか変更されている部分がある。その中でもとりわけ大きいのがすでにアキラが死んでいるということだ。アニメ映画版では、ばらばらに解体され生体標本となっている。しかし、漫画版と同じように冷凍封印がなされており、鉄雄に共鳴するようにして力を発揮する。むしろ肉体的には死んでいるはずのアキラがそれでも畏怖の対象であり、超能力を行使する様は、漫画版よりも聖性を高めている。アニメ映画版の物語を締めくくるのはアキラの覚醒による大爆発である。漫画版では、崩壊後のネオ東京が描かれるが原作が途中だったこともありアニメ映画版では、崩壊したままそこで幕を閉じる。しかし、ラストシーンで金田がバイクで走り去るというのはどちらも共通している。さらにアニメ映画版ではそのシーンに合わせてナンバーズの2人が「いつかは私たちにも」「もう始まっているからね」というセリフが重ねられている。これは、アキラや鉄雄のような力を扱えるようにいつかは人類も進化の時が来て、新しい未来がこれから続いていくというメッセージである。それはまさにこの先の崩壊後に始まる日常を示唆するものであり、その点は漫画版と差異はない。終末の観点でいうと、『AKIRA』の大きな特徴は、世界が2回も大破局を迎えることである。そして、それにもまして重要なのは、それにもかかわらず2つの「終末」のあとでもなお人々が生き続けることである。
1982年、世界は第3次世界大戦が始まり大崩壊をする。それから37年後の2019年、復興途中のネオ東京では、ゲリラと軍の小競り合いが続いている。暴走族の少年金田たちはバイクで抗争をしている。そこで仲間の鉄雄が、老人の姿をした奇妙な子供タカシと事故を起こしてしまう。タカシは、政府が秘密裏に進めていた超能力を持つ子供たちを軍事利用する計画のなかで、薬物投与などで成長を止められてしまった子供=老人「ナンバーズ」である。鉄雄は事故の影響で子供たちと同様に超能力に目覚める。金田は行きつけのスナックで見かけたゲリラのケイに言い寄り、軍やナンバーズたちに深入りしていく。もともとは大人しい性格だった鉄雄は、次第に荒々しくなり、かつての仲間であった山形すらも手にかけてしまう。金田はゲリラの一員であるケイたちと軍の施設に忍び込む。鉄雄は暴走する力をなんとか薬で抑えているが、自分たちの完成形である少年アキラの存在に関心を持つ。そして地下深くに冷凍封印されていたアキラを呼び覚ました結果、アキラの力によってネオ東京は再び崩壊する。
廃墟と化したネオ東京では、アキラを教祖とする宗教団体と同じナンバーズのミヤコを教祖とする宗教団体がしのぎを削っていた。鉄雄は覚醒しその力によって集められた大量の瓦礫から行方不明だった金田が現れる。金田は鉄雄と対決する。鉄雄は自分の力に飲み込まれ巨大な胎児のような姿に変わり果ててしまう。アキラと鉄雄が起こした光の中で金田は鉄雄の記憶、世界の理を垣間見る。しかし、ケイの呼ぶ声に呼応して生還する。荒野と化したネオ東京で金田たちは建国を宣言し、「アキラはまだ俺たちの中に生きているぞ」と言い残しバイクで走り抜けていく。

第2項 描写の変容
 『AKIRA』は、これまでの数々の作品の要素をふんだんに盛り込み、昇華させている。未完に終わった『Fire-Ball』から「近未来都市」と「超能力」という要素が引き継がれ、不完全燃焼に終わった構想を再構築し直している。『AKIRA』では、能力者の数と質のバリエーションを増やしており、より話の中枢にある鍵として描かれている。依然として超能力の合理的説明はなされていないが、『Fire-Ball』同様に超能力をコントロールし、軍事的に利用ようとする政府ないし非政府の組織や、超能力によって引き起こされる大爆発や大破壊などのスペクタクルが描かれている。また『童夢』で描かれたものと同様に、超能力は明確な形としてではなく、崩壊した瓦礫やガラス片、爆発や光によって表現される。岡田温司のいう黙示録の映像のうち希薄にして不在なものとは、まさに大友のような表現に他ならない 。また今まで、目が小さく、アジア人特有の凹凸に少ない骨格の人物を描いてきた大友が、目を大きくした漫画的なキャラクターを描いている。リアルな街並みの描写と対比されるように、人物は物語によく馴染むデフォルメがなされている。写実性と虚構性のバランスを絶妙にとりながらあくまでも漫画としてのおもしろさを実現している。
『AKIRA』では、『童夢』で注目を集めた緻密に描かれた建物を崩壊させるという描写をふんだんに行っている。『AKIRA』の舞台であるネオ東京は、ネオンが輝く都心部と未だ廃墟同然の郊外が隣り合っている。(図版14)『童夢』のような団地ひとつではなく、街全体を通して理路整然と発展の象徴の如く伸びるビル群とまるで光の届かない手つかずの旧市街が登場し、物語が進むのは両者をつなぐハイウェイで鉄雄が事故を起こすところからだ。そしてそれらすべてをアキラや鉄雄の力によって崩壊させる。物語の舞台を丸ごとひっくり返すような力の爆発が起きる。(図版15)ビルが折れ、ガラスが飛び散り、空中に浮かび上がる。さらには月までも破壊してしまう。まるで壊されるためにそこに存在しているかのように、そこに暮らす人々のことなどまるで無関心に嬉々として崩壊が招かれる。
 小澤京子は『AKIRA』には2種類の廃墟が描かれていると述べる。1つは、ゴーストタウン化した「完了形」としての廃墟。もう1つは、物語終盤の、高層ビル群が爆発で崩壊していく「現在進行形」の黙示録的な情景の廃墟である。 
究極的な未来を考えた時、それはつまるところ廃墟である。そうしたなか、小澤がいうように大友は2種類の廃墟ひいては2つの時間軸に置かれる廃墟を描いている。それは、大友がこの物語を通して終末と未来を描いているということだ。最初から廃同然の郊外と隣り合わせのネオ東京は、物語が進むにつれてネオ東京自体も廃墟と化していく。それは終末の最中にも未来があることを示しており、それが『AKIRA』という物語のなかで進行していくことになる。これまでとは異なり爆発というモチーフが何度も登場し、それによって新たな廃墟が構築されいくさまは、まさに終末的、黙示録的描写である。

第3項 子供と老人、再び
そして『AKIRA』でも、やはり超能力を持つ者は、『童夢』と同様に子供と老人である。さらに『AKIRA』では、アキラと鉄雄を除くナンバーズと呼ばれる子供たちの見た目は老人そのものであり、『童夢』に登場するチョウさんと近い。しかし、チョウさんのような幼稚な嗜虐的傾向はなく、自分たちの超能力がいかなるものか自覚している。さらに自分たちが薬で生かされていることからどこか諦観した態度が見てとれる。
自分たちのなかで唯一の完全体であるアキラに対しては「くん」付けして呼ぶことから希望が入り混じった畏怖の念を抱いていることがわかる。それはやはり超能力のコントロールに薬を用いていることが大きく関係している。『Fire-Ball』では、超能力の起源は本人であったが、『AKIRA』では研究によってその一端が開かれている。人類の理解を越える力は元をたどれば人類の研究から始まったものだという理由が付与されている。超能力は未知で不明なものではなく、人の人に対する研究の延長でありその結果はみ出しコントロールを失ったものなのである。この破壊的エネルギーとして表象される超能力は、核エネルギーないしは核兵器の象徴である。科学の力つまり人間の力をはみ出したものが核の力である。そうした人間の領域を超える超自然的力を表すのは、白または黒の巨大な爆発である。現実の世界において人ひとりの能力でこれを引き起こすことができない。だからこそこの爆発が超自然的な力のモチーフとして成立している。超能力の起源は人の研究であり、それを抑えるために薬を用いている。あくまで人からはみ出したものであっても完全に人の理を超えることはできていない。
 中沢新一と石井聰互(石井岳龍)の対談では、人間の上位存在である天使が男と女というセックスの世界を知ることによって人間と同じ五感を得て下界に降りてくるというヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』(1987)を引き合いに出している。『AKIRA』では、大人になる前の性分化されていない子供、ひいては人間を超える能力を持ったナンバーズを天使と見て、性を超越した世界を表していると述べている 。『AKIRA』に登場する子供は大人になることはない。時間と可能性が長く残されているという点が大人とは異なる。そういった部分に我々は尊さを抱く。また、老人は終わりに近い存在である。つまり天使が住む死後の世界に近いという意味で子供とは異なる尊さを有している。大友は、その尊さゆえに子供や老人は超能力を有する存在として選んだのではないだろうか。

第4項 金田、もう一つの聖性
 もちろん、中沢や石井のいうように『AKIRA』に登場する超能力者たちは、人間を超えた存在としてある種天使に近いような聖性を帯びている。しかし、違ったベクトルの聖性を帯びている者がいる。それは主人公である金田だ。『Fire-Ball』『童夢』ともに主人公は超能力を持っている。そしてどちらも死または相当なダメージを受ける。しかし、金田は不思議と無傷である。街が廃墟と化すほどの爆発に巻き込まれていながら、かすり傷程度にしかダメージがない。あれだけリアリティにこだわり、必ずフィクションと現実をリンクさせる理由をもって描いてきた大友が、金田だけは、従来のストーリー漫画にありがちな「主人公だから」という理由で作者という見えない手に守られているような聖性を発揮している。超能力はなくただの不良少年である金田に、物語上特別な力はない。であれば、アキラや鉄雄、ナンバーズとはまた別の聖性としか説明がつかない。
大友は、これまで頑なにアンチストーリー漫画を貫き歩んできた。しかし、その大友が自身最大の長編漫画で、主人公に聖性を付与してきた。金田はいってみれば、どこにでもいる普通の少年なのである。そうした少年にも超能力とは別の意味で「聖性」が宿っている。金田もまたアキラや鉄雄とは違う意味で天使なのではないか。最後に、死んで「天使」になってしまった山形や鉄雄らとともにバイクを駆け抜けていくのも、そうした意味があったのではないだろうか。(図版16)金田は大爆発に巻き込まれた際にこの世の真理や鉄雄の記憶に触れた。金田は天使たちと同じ向こうへの切符を手にしたのだ。つまり聖性は人間一人ひとりに宿りえるものであり、誰しもが主人公たりえるのだ。

第5項 終わりの先の日常
『AKIRA』の時代設定は、来年にオリンピックを控えた2019年であり、1964年の東京オリンピックに向けた当時のスクラップ・アンド・ビルドを丁寧になぞっている。大友が嬉々として崩壊を描き終末を描いていることは事実であるが、大友の真意はそこではない。なぜなら崩壊の後、金田は高らかに「アキラはまだ生きている」と宣言し、ただの不良少年であった頃と同じようにバイクで走り去っていく。つまり最後のバイクシーンを描くために大友は好き勝手に廃墟を量産し、これでもかと終末を描いてみせたのだ。大友の本懐は『AKIRA』においても日常にある。『AKIRA』では、終わりの先にもう一度作られていくであろう日常を最後に読者の脳裏に浮かび上がらせた。これは大友が得意とする終わらない結末の示し方である。バイクの疾走感よろしく風がなびく読後感が醸し出されている。この風がなびく感覚は何であろうか。
『AKIRA』のラストシーンは、ポジティヴにもネガティヴにもとらえられる。多くの死と破壊のあとの「虚しさ」としてみるとネガティヴなイメージが先立つ。しかし、周囲の高層ビルには再生の予感があり、彼方の光景の消失点が白く穿たれている先へ金田たちのバイクは向かう。(図版17)それはまさにこの先に続く新たな日常を示唆するものであり、希望というポジティヴなイメージでもある。これだけ終末を描く『AKIRA』が絶望で終わらないのは、虚しさと希望の両方をラストシーンに置いているからである。アニメ映画版の『AKIRA』では、新たな宇宙を作り出してまうほどのアキラや鉄雄の力が完全にコントロールできる変革の時が、いずれ私たち皆に来ることを示唆するセリフで締めくくられている。漫画版においても崩壊後のネオ東京に向かって死んだ山形や鉄雄とともにバイクで走り去っていく。大友が描く終末は、アポカリプスが来たるべきものでも来てしまったものない。今まさに、その変遷の最中に我々はいることを示している。我々は徐々に変革が起きつつある一瞬を生きている。それこそが大友の「風」なのである。


終章 日常から終末へ、そして日常へ
最後に、大友克洋にとっての日常の変遷をまとめていく。大友克洋は初期作品において自分の感性の赴くままに日常を描いていた。ありのままの人間模様を紙に落とし込んだ初期のアンチストーリーの漫画は、それまで誰も漫画で描いてこなかったため、逆説的な新鮮さがあった。誰もが現実世界で同じようなものを見ていただろうからだ。大友漫画の登場人物たちは、読者である私たちとほとんど同じといえる。初期大友漫画の主人公は、ある意味で、日常を生きる私たち自身であった。だからこそ我々は、生きる現実と大友の描く虚構のなかに共通性を見出す。デフォルメをせず、美男美女が登場せず、ストーリーの起伏が感じられない大友の漫画は、青年誌という土壌で新たな市民権を得ていった。
 そして大友はそれらを描くことに、ある時期(本論では『ヘンゼルとグレーテル』)以降、満足した。飽いたといってもいい。ただ日常をそのまま前面に出した作品を描くことをやめ、画力そしてストーリーにこだわり始めた。細いペンで緻密に背景を描き、人物も同じ細さのペンで描くことによって、従来の漫画のような目立つ登場人物を描くのではなく、自然とその物語世界に生きているように同化させている。さらに話作りにおいても、相変わらず起伏の波はあるものの起承転結を意識した構成が多くなっていった。話の中心に据えるのは、これまでと同じようなうだつのあがらない大学生や浮浪者などが多い。そうした現実世界においてどこにでも存在する者たちにリアルさを担保させながら、ストーリーとしてコメディータッチの乾いた笑いやどこか哀愁漂うあっけのなさを演出する。特にこの時期の大友は、狙って作品を作ることが多くなり、風がなびくような読後感を醸している。
「風がなびく」という感覚は、一種の空虚感、虚無感、無常観である。風が吹き去った後には、体に寒さが残り、明らかに風が吹く前とは異なる。それが微妙な体温の変化の場合もあれば、台風のような強い風によって街の姿が変わってしまうこともある。初期の大友作品にあったのは、画面の「余白」と前面に描かれた「日常」である。現実と同じような日常をあえて白い余白を多分に残して描くことで、読者に想像の余地を残した。次第に「リアリティ」の水準が引き上げられることで、白い空白が徐々に黒く緻密な背景描写に変わっていく。描かれる「日常」も前面に出されるのではなく、ストーリーの構成に埋め込まれ馴染んでいく。画面の中に想像の余地は少なくなり、人間の内面の「空白」が目立つようになった。そうした内面的な空白が風がなびくような読後感につながっている。 
 こうした画と話の両面から試行錯誤を繰り返した結果、SF漫画という得意ジャンルにたどり着く。アンチストーリー漫画で始まった大友が、超能力を用いたSFを軸にストーリー漫画に回帰していく。これまで描いてきた日常は、表面上その姿を隠し、終末的な崩壊シーンが目に付く。精巧に描きならべられた街並みが次々と瓦礫の山になり果てる。その表現のダイナミックさは、大友が嬉々と描いているようにすら思える。大友はリアリティのある崩壊のシーンを描くため、緻密な描写を好む。大友の描く終末は、終末を否定している。終末は起こっていないというより、終末はすでに起こっている、終末は現在進行中である、それが大友の反終末なのである。そしてその後のまたはその最中に始まっている日常について読者の想像による補完を促す。大友がその漫画家人生をもって描いてきた作品には、どれも日常が描かれている。一見すると日常が見つからないような後期のSF作品たちも、日常の対極にある終末を全面的に描くことによって風が吹き去った後のような読後感とともに次なる日常が浮かび上がる。
『AKIRA』のようなスケールの大きな作品でさえ、その主人公である金田は普通の人間である。初期作品における登場人物と同じ、私たちと同じ人間である。もうひとつの聖性を宿す金田は、読者である私たち自身でもあるのだ。大友は読者と物語を、よりリアルな描写で日常を描くことによって近づけた。大友の現実に肉薄した漫画には、風がなびく日常と誰にでも宿る聖性が見てとれる。そして大友の描く終末はあくまで舞台装置としての役割に過ぎず、初期作品から一貫した大友の主題は日常である。アレンカ・ジュパンチッチは、アポカリプス(黙示録)はこれから起こる未来ではなく、私たちがすでに経験した現在(あるいは経験してしまった過去)であると述べている。

  アポカリプスには時間が、それもたくさんの時間がかかりうるのである。それは必ずしも瞬間的な出来事ではなく、延々と続き得るのだ――「すべてが終わる」前に別の世界と歴史が生起するくらいには十分長く。 

「黙示録」を終末に置き換えれば、大友の終末観に相違ない。大友にとっての終末は、「瞬間の出来事」ではなく、「膨大な時間」がかかる日常に限りなく近いものだ。日常とは現在進行形の終末の姿なのであり、終末を描くことによってその先の日常を示しているのだ。
大友は、今も存命の作家で、残念ながら漫画作品ではないが新しい作品を準備している。2021年になり、オリンピックの開催は『AKIRA』の通りにはならなかったが、物語の時代を追い抜いた。そして2021年1月に『大友克洋全集』の刊行が発表された 。これまでの大友作品と、残念ながら本論において言及できなかった単行本化されていない作品も合わせて収録し、これまで広く一般に日の目を見なかった漫画家大友克洋の全てがあらわになる。これまで大友が描いてきた日常にまた光が当たるであろう。より完全なかたちでの大友論は今後の課題である。

参考文献
大友克洋漫画作品
(本文中で言及していない作品も含まれる)
『ハイウェイ・スター』双葉社、1979年
『GOOD WEATHER』綺譚社、1981年
『さよならにっぽん』双葉社、1981年
『ヘンゼルとグレーテル』CBSソニー出版、1981年
『気分はもう戦争』双葉社、1982年
『BOOGIE WOOGIE WALTZ』綺譚社、1982年
『童夢』双葉社、1983年
『AKIRA』全6巻、講談社、1984-93年
『ショート・ピース』双葉社、1986年(奇想天外社、1979年の再刊)
『彼女の想いで…』講談社、1990年
『SOS大東京探検隊』講談社、1996年
『Viva Il Ciclissimo!』マガジンハウス、2008年

映像作品(公開順)
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック、1968年
『ウッドストック/愛と平和と音楽の3日間』マイケル・ウォドレー、1970年
『エクソシスト』ウィリアム・フリードキン、1973年
『宇宙戦艦ヤマト』松本零士、1974年
『スター・ウォーズ』ジョージ・ルーカス、1977年
『フューリー』ブライアン・デ・パルマ、1978年
『ベルリン・天使の詩』ヴィム・ヴェンダース、1987年
『AKIRA』大友克洋、1988年
『SO WHAT』山川直人、1988年

文献等
伊藤剛『テヅカイズデッド――ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版株式会社、2005年
大塚英志『〈まんが〉の構造』弓立社、1988年
岡田温司『映画と黙示録』みすず書房、2019年
小澤京子「1980年代の日本のサブカルチャーに現れた「廃墟」や「遺棄された場所」のイメージ」、『和洋女子大学紀要』第61号、2020年、35-48頁
小田光雄『郊外の果てへの旅/混住社会論』論創社、2017年
呉智英『現代マンガの全体像』双葉社、1990年
斎藤宣彦『マンガ熱――マンガ家の現場ではなにが起こっているのか』筑摩書房、2016
桜井哲夫『廃墟の残響――戦後漫画の原像』NTT出版株式会社、2015年
ジュパンチッチ、アレンカ「アポカリプスは(いまなお)失望させる」髙山花子、髙村峰生訳、『表象』第14号、2020年、69-88頁
根岸康雄『オレのまんが道――まんが家インタビュー(1)』小学館、1989年
南信長『現代マンガの冒険者たち――大友克洋からオノ・ナツメまで』NTT出版、2008年
『美術手帖』1998年12月号、美術出版社、1998年
『芸術新潮』2012年4月号、新潮社、2012年
『芸術新潮』2016年7月号、新潮社、2016年
『ユリイカ』2016年7月号、青土社、2016年
『ユリイカ』1988年8月臨時増刊号、青土社、1988年


後記と謝辞
大友克洋との最初の出会いは映画版『AKIRA』であった。颯爽と駆けるバイク、芯の通った主人公、緻密に描かれた街並みとその崩壊、どれもが私をひきつけた。そして原作版を読んだとき、自身の主張をここまで織り込みながらエンターテイメントとして漫画としておもしろいものが描ける大友克洋の才能に恐れ入った。そして、卒業論文執筆にあたり刊行されている初期作品を読んだとき、残念ながら私の最初の感想は「つまらない」だった。しかしそれと同時に、あまりに『AKIRA』とかけ離れた出来にむしろ大友の人間臭さを感じた。
本論では、現存する大友作品を可能な範囲で読破し、限りなく網羅したつもりだ。しかし、どうしても単行本未収録作とくにデビュー作を確認できていないのは口惜しい。大友のいわば最初期の作品に関する言及がどうしても足りていない。また、大友はその作品の随所にパロディがちりばめている。『童夢』に登場する、鳥山明の『Dr.スランプ』の主人公アラレちゃんの帽子などわかりやすく目に付くものがある。今後、『大友克洋全集』を活用した全作品網羅的な研究がなされるとすれば、大友作品のパロディの系譜に期待したい。
私は、大友克洋と言えば終末を描くSF作品というこれまでの評価に一石を投じるべく本論を執筆した。現に『AKIRA』に対する論考は多数存在していても、すべての作品を網羅的に論じているものはまだまだ少ない。ましてこの先は、大友が描いた『AKIRA』の時代を越えていく。『AKIRA』が想像した時代を超えた今、大友克洋という表現者はどうなっていくのだろうか。どういう日常=終末を描くのかだろうか。願わくは、また紙の上で大友の描く日常と再会したい。
大友の作品の多くは絶版となっており、私のような世代にはなかなか浸透していない。それは大変心苦しいことである。卒業論文の執筆も大詰めを迎えたそんな時、『大友克洋全集』の刊行が決まった。もちろん資料として大変貴重であり、率直に言って、もう1年早く出てほしかったところだが、大友の作品が多くの人の手に取りやすくなることが何よりもうれしい。新作映画『ORBITAL ERA』の制作も始まっており、続報が待たれる。『AKIRA』で描いた2019年、オリンピック中止を予言した2020年を過ぎ、大友克洋が再び動き出した。それはまるで作中でのアキラの復活のようだ。また漫画界・アニメ界に大友克洋という風が吹くことを切に願う。

本研究にあたりご指導を頂いた大久保清朗先生に深く感謝申し上げます。何よりたくさんの作品を世に放ち創作活動を継続されている大友克洋先生に感謝と敬意を表します。



ここまで読んでくださりありがとうございました。
図版や引用の脚注がうまく入れられず割愛した部分もあります。ご了承ください。


最後に、みんな『AKIRA』見てみよう!

大体コーヒーか漫画に使います。もし万が一この若造にコーヒーや酒の1杯おごってやってもいいと思う方がいらっしゃるのなら嬉しい限りです。