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灰受けの中からよみがえる時、初めて自分の形が分かる

電池が切れたようになることがある。そういう時は決まってゴミのように転がって、布団を一生の住処とする。ずっと動かないと思いきや、ご飯の時間になると飛び起きて、驚くほどしっかりと食べる。一日三食、それは人間に与えられた、基本的で文化的な生活スタイルだということを免罪符に黙々と食べ、布団に戻れば、睡眠薬でも打たれたようにまた何時間も眠りこけるのだ。

そうした時間を過ごしていると、自分の顔が一体どんな形だったのか、思い出せないかのような感覚に陥る。どんな日も闇は夜にやってきて、全てを覆い尽くしていく。映像は光の反射によって見えるもので、次第に私の感じているものは薄明かりの中のみに集約され、日暮れ、その一縷の薄明かりさえも消失すれば、今布団に触れている掌の感覚と足の重みだけがこの世の全てのように思えてくるのだった。
寝巻きで宇宙空間を漂う私、人工衛星、宇宙ステーション、布団という宇宙船に乗った体躯が無重力を彷徨っている。そうして何年も何年もをただ悪戯に過ごしたような気持ちで朝がくると、ゴミから再び人間へ駆け上がるための梯子が、決まって光によって下ろされるのだ。

その一連の流れは、不死鳥が一度その身を焼き尽くし、その跡に残った灰の中から生まれ出ることに似ていると、ふと思った。風呂にも入らず床に這いつくばり布団にしがみ付く光景は、そんな神聖なものとはかけ離れている気がするが。そういう日を過ごした後は、決まって哀しく渇いていた湧泉が再び、潤ったような気持ちがする。

洗面所で自分の顔と目が合った。何年も会っていない兄弟に会ったように、じっと見つめ返す。顔の形、肌の色、ほくろやシミ、眉毛、鼻、口、目の光が戻ってきた。もう大丈夫なんだろう。

ろくに自分の顔も見ずに過ごしていると、今どこに立っているのか分からなくなってしまうようだ。感覚が慌ただしい日々に慣らされ、ささくれ、目が曇り、心が曇り、世界は曇っていく。今に雨が降り出したとしても、日常の奴隷となってしまってはもう歩みを止められないのだ。歩みの速度が上がっていくと、「もっと早く」と走り出す。ブレーキを知らない私の速度は更に上がっていき、終いにはその速さでこの身を炎で焼き尽くしてしまうというのに。

問題ない。焼き尽くそう、何度でも。

灰の中からよみがえった自分が、鏡の向こうで言っている。自分を燃やし尽くす前に足を止められたなら、生きることがもっとイージーになるのかもしれないが。よみがえりの行程は、実はあらゆる場面、普通の日常に潜んでいるんだろう。目を曇らせて機会を逃しているだけで、気がつかないだけで。しかしイージー。これには一度植え付けられた思考パターンを削ぎ落とす訓練が必要らしい。私はまだそこへは行けない。

さあ、灰を落として旅に出よう。今は自分の形がしっかりと分かるのだから。いつもと同じ道さえも、新たな気付きへと続いてゆくのだから。


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