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小池真理子に熱狂した、18の夏(EP.0 and 1)

18の夏、作家・小池真理子に熱狂した。

彼女の描くストーリー、語彙、表現……彼女の世界観そのものに熱狂し、それと類似したものをなんとか自身の手で、自身の体験をもとに、小説という形で書き起こそうとした。

しかしながら、その試みは呆気なく失敗に終わった。

その1年後の19の夏、一念発起したわたしは彼女の作品を通して自身が思考したことを随筆文で著そうとする。

今度こそ自称小池真理子研究家となったはずであったが、序章を書き終えた段階で手が止まってしまった――自身がそれだけ陶酔するほどの世界観をもつ彼女を手に負えなくなってしまったのだ。

しかし20になった今、半年ほど止まっていた手を再び動かすときがきた、と静かに予感している。

静かではあるが、着実に、あの耽美で虚無な世界に足を踏み入れようとしている。


以下は、19の夏、わたしが書き著した未完成品である。

***

まえがき

わたしは幼い頃から文章を書くのが好きだったんだろう、と思う。定期的に行われる自室の断捨離大会のたびに、わたしは幼い頃に自分が書いた物語ノートやら詩集やら文集を見つけることになるのだが、なかなかその内容は興味深い。小学生の作品にしてはそこそこ上手く出来ている方だったと思う。そしてわたしは大学生になり、いよいよこうして手書きを卒業して、机の前のパソコンと睨めっこしながらタイプしている。
18の夏休み、小説を執筆しようとした。それは作家の小池真理子の世界観に足を踏み入れ、確実に小池氏からインスピレーションを受け始めた頃であった。わたしはもともと、読書家という訳でもなく、これといってハマるほど好きな作家もいなかった。決して本を読むこと自体は嫌いではなかったし、良い暇つぶしにはなると思っていた。が、時代も時代だ。スマートフォンでネットサーフィンしたり、SNSをだらだらと見ている方がはるかに手軽で、いとも簡単に時間を溶かすことができる。無論これはわたしだけの意見ではなく、大衆のほとんどがそう考えるだろう。しかしながら、わたしは所謂その“俗”な過ごし方に嫌気が差していた。今思い返せば、それよりずっと前から、心のどこかで通俗的ではない「何か」を探していた気がする。それが何なのかは長年、自分でもよく分からなかったし、実際、今になってもはっきりとはしない。だがその「何か」を探る――インドに行かずとも――いわば高度な厨二病末期の自分探しに迷走し、ますます自分が分からなくなっていたわたしを心の涅槃の境地に連れ出してくれたのが、小池真理子の作品たちであった。
上記の通り、わたしは小池氏に触発され小説を執筆しようとしたのだが、その意欲はわずか半年で削がれ、執筆を断念することになる。書くことが好きとは雖も、物語を一から作ること自体長期に及んでしていなかったし、況してやそれなりの大学生がパソコンを使って、ともなれば、小学生時代に手書きで認めていたときと同じように、とはいかない。そして何より、その書こうとしていた小説はフィクションの範疇でわたしの実体験を元にしようとしていたのだから、なんせ纏まりはなかったし、脳内で物語を構成するより、筆を取るより先に、わたし自身の物語が激しく動いていたため、途中で完成はほぼ不可能だと思断ってしまった。しかしながら、20まで半年に迫られたわたしは、十代最後の試みとして、自分の青春時代の軌跡を残してみたく思い――青春云々というより若気の至りの回顧録、という方がよほど近いかもしれないが―― “随筆” という形で筆を取ることにした。

1 小池真理子との出会い

数ある小池真理子の作品の中で、わたしが初めて読んだのは『愛するということ』であった。それは、主人公のマヤが別れた男のことを未だに想い続け、その恋を回想するという形で恋愛の始まりから終わり、再生までの出来事を、マヤの心情から紐解いていくように描いている。わたしはこの作品が堪らなくすきなのだ。

幻冬舎はこの作品を以下のように紹介している。

恋愛。この苦しみからどうやって逃れようか。どれほど大きな悲しみ、猛烈な嫉妬、喪失感に襲われようとも、私たちは生きなければならない。快感と絶望が全身を貫く、甘美で強烈な恋愛小説。

快感と絶望が全身を貫く、甘美で強烈な恋愛小説――どうだろうか。本当にそうだろうか。わたしはこの作品を三度、四度と読み返しているが、快感と絶望の起伏というよりもむしろ、一貫した虚無と苦さを感じた。それは回想という形態自体が既に別れという帰結を含有していることに依存するかもしれない。男女がまだ互いに情熱を持っているときですら、後にやって来る不穏な何かが常にマヤの念頭にある。悦びと不安は共存し、絶望の淵に立たされた日には、発狂したいほどの感情とは裏腹に、心の冷静な部分では「やっと来たか」、とさえ思う。世は無常だから、恋の情熱など永久ではないのだ。

わたしと野呂の関係の烈しさ、パッションの強さが、折れ線グラフの頂点を迎えていたのは、まさしくあの頃だったと思う。(幻冬舎文庫『愛するということ』110頁)
だが、わたしたちが力強く描いてきたパッションの折れ線グラフは、あの頃を境に、次第にその動きをゆるめていった。(幻冬舎文庫『愛するということ』114頁)

やがて男には他に好きな女が出来る。

そしていつか、あの女性の出現によって、グラフの折れ線は唐突とも言えるほどの速さで下降し始め、わけがわからずに呆然とするしかなかったわたしの見ている前で、線それ自体も或る日、忽然と消えてしまったのである。(幻冬舎文庫『愛するということ』114頁)

あの初夏に読んだ『愛するということ』は、ろくにアルバイトもしていなかったがためにお金もなく、有り余る時間の中で暇だけを持て余していたわたしに、さらなる倦怠をもたらした。そしてちょうどその頃、わたしは自身の恋人との別れを予感し、身を以て刻々とそれが近づいてくるのを実感していた。

だからこそ、『愛するということ』の主人公の感情を嫌というほど理解できてしまった、と記憶しているつもりだが、むしろその物語の内容それ自体が内包する虚無が、実は、抱えずに済んだ種の感情を引き起こしていたのかもしれない。これは卵が先か鶏が先か、認識が対象に従うのか、対象が認識に従うのか、といった議論と全く同じ構造を有していると確信しているが、このようなわたしの潜在的にあった混沌とした思考は、この夏を境に、「耽美」と「倒錯」という、まさに小池文学の本質そのものに強く惹かれ、その深淵を垣間見ようとし沈んでいった。
人はこれを哲学と呼ぶのだろうか。将又、これは単なる迷走であろうか。気がつけばわたしは常に「思考すること」に固執していた気がする。
それからわたしは、『欲望』『二重生活』『恋』『エリカ』『浪漫的恋愛』『虹の彼方』『無伴奏』『水の翼』『無果実の森』…と小池氏の作品を貪りはじめた。特に、1998年度の島清恋愛文学賞を獲得した『欲望』は、わたしが後に肉体と精神の関わり合いについてあれやこれやと考える原点ともなった。

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(続く)

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