Liturgy - 93696
先日、女優の橋本愛が謝罪に追い込まれたLGBTQに関する炎上発言は至極真っ当な意見だが(それを発言するに至った経緯はさて置き)、LGBT法案を潰すために橋本愛の発言を利用しようとするネトウヨ(カルト)界隈の浅ましさを「ゴミ」と糾弾することが正しき「知性」というものであり、結局のところ、この話は人間社会を形成する男/女/LGBTQのどのヒエラルキーに属しているかの話ではなく、人として生きる上で常識があるかorないかの話でしかないわけです。
要するに、男にも女にも非常識な輩は存在するし、LGBTQの中にも非常識な輩が一定数いるというだけの話。逆に言えば、今の社会には橋本愛のような「常識的に考えられる人間」が減ってきている、その証左なのかもしれない。これは渋谷区の公衆女子トイレ廃止の件についても同じことが言えるが、米テネシー州の反LGBT法案やウガンダの国会で同性愛者を自認しただけで投獄、最悪死刑とする法案が可決された近々のニュースを筆頭に、依然LGBTQを取り巻く環境と世間の目は俄然厳しさを増しているのが現状だ。
そんな「知性」アリスンギる常識的な俺かっけー!っつー皮肉はさておき、LGBTQ.Q.の当事者であるLiturgyのフロントマンことハンター・ハント=ヘンドリックスは、2020年の5月にインスタグラム上で自身がトランスジェンダーである事をカミングアウトした。そして、名前もキリスト教の総本山であるイタリアの都市名であり(世界遺産の「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」でも有名)、主にイタリアの女性の名前として付けられる「ラヴェンナ」から拝借したハエラ・ラヴェンナ・ハント=ヘンドリックス(Haela Ravenna Hunt-Hendrix)(HRHH)へと改名し、このLiturgyの”フロントマン”ではなく”フロントウーマン”として今現在を生きている。この「ラヴェンナ(Ravenna)」という「カラス(Raven)」が入った名前を聞いて真っ先に思い出したのが、マイアミのラッパーのデンゼル・カリーの肩書の一つであるRaven Miyagiだったのは今さら言うまでもない。
そんな「典礼」を意味するバンド名を冠するLiturgyといえば、端的に言ってしまえばクラシック音楽のフォーマットでブラックメタルを再現するアンタッチャブルな超越者であり、それこそ超越的ブラックメタルすなわち“transcendental black metal”を称するに相応しい、ブラックメタルの歴史その前時代的な思想や概念を覆し、新たな時代のブラックメタルに塗り替えたと言っても過言ではない、現代メタルシーンにおいて最も革新的であり禁忌(タブー)とも呼べるバンドだ。
このLiturgyの一体何が革新的なのかって?イマドキ風に例えるなら、いわゆるZ世代の音楽ジャンルであるハイパーポップの文脈の流れでブラックメタルやってる点で、それは前作の『Origin of the Alimonies』で発現したヒップホップにおけるトラップ(Trap)のビートを応用した、本作の『93696』におけるDjentと見せかけた#2”Djennaration”をはじめ(前作の#5が伏線)、そして#3”Caela”における新世代メタルのコード・オレンジさながらのイキリコアもといグリッチIDMコアに象徴されるように、(故意にバグらせて裏世界に突入するクソゲーの如く)本作においても(バ)グリッチを用いてあらゆる既成概念を超越し、キリスト教的に言えば高次元へとアセンションする革新的な手法は不変で、それこそBMTHのオリィが仕切ってるプレイリスト「misfits 2.0」に名を連ねるハイパーポップ・アーティストと共鳴するセクシャリティの解放、そのHRHHことラヴェンナが身をもって体験した性の解放という禁忌を以って実現させたブラックメタルの解放、トランスジェンダーの当事者として政治的・社会的な束縛や圧迫からの解放、それらの次元を超え、性別を超え、音楽ジャンルすらも超え、終いには369(ミロク)ナンバーの弥勒菩薩という宗教の垣根すらも超越せんと、身を焦がし、血の涙を流しながら、もがき叫んでいるのが本作なのだ。
本作の『93696』は、旧約聖書のユダヤ神秘主義思想における創造論、終末論、メシア論を伴うカバラ数秘術(セフィロトの樹)をモチーフとした、【Sovereignty】【Hierarchy】【Emancipation】【Individuation】という4つの階層(ヒエラルキー)を以って、このLiturgyにしかなし得ない密教的な典礼を過去最大級のスケールで描ききっている。ちなみに、今作の『93696』が指し示す数字は、【9】+【3】+【6】+【9】+【6】=【33】である。
第一界層となる【Sovereignty】は、セフィロトの階層における最上位に位置する神性界(アティルト)、すなわち【神の主権】を意味する。聖書における「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉にもあるように、キリスト教の物質的な食事である種無しパンを示唆する#1”Daily Bread”からして、ラヴェンナが心なしか女性らしい、いや女性としての声色を以って、もはや聖母マリアのような母性すら感じさせる美しい歌声を披露する。
本作はゲストとして様々な協力者を迎えており、ソプラノボーカルのシャーロット・モンディーを筆頭に、ロンドン教会の天使の聖歌隊ことHi Lo Singersによるアメイジング・グレイスさながらの神聖な合唱が響き渡る#4”Angel of Sovereignty”やソロボーカルを迎えた第二界層【Hierarchy】の幕開けを飾る#5”Haelegen 2”、他にもチェンバー・ミュージックとしての側面を担うクラシカルなストリングスを中心に、神の楽器とされるトロンボーンやトランペットなどの管楽器奏者やフルート奏者など多数のゲストミュージシャンを迎えている。
本作のミキシング・エンジニアには、前作に引き続きレーベルメイトのThe Bodyの作品でも知られるセス・マンチェスター、マスタリング・エンジニアにはエイフェックス・ツインやジェイムス・ブレイクを手がけるマット・コルトン、そしてレコーディング・エンジニアとしてノイズ界の重鎮であるスティーヴ・アルビニという錚々たるメンツを迎えて制作されているだけあって、いわゆるノイズ・ミュージック的なアプローチをバンドにもたらしている。
確かに、今作にあのアルビニが関わってると聞いて、自分の中で期待と不安が入り乱れていたのも事実。というのも、アルビニをエンジニアとして迎えるバンドって、どうしても合う合わないが音源として如実に顕れる印象が強く(最近でいうとKEN modeやEsben And The Witchとか)、むしろ自分の好きなバンドとかだとイマイチしっくりこない、どちらかと言えばマイナスイメージがあったけど、今回のLiturgyの場合は互いの持ち味を活かした相乗効果をもたらし、現代ポストメタルの最先端としてワンランク上のサウンド・プロダクションを実現させている。
この『93696』の根幹的な部分を担う、第三界層の【Emancipation】すなわち【解放】を意味する場面を迎え、(Qanonならぬ”Ananon”はさて置き)さながら「ブラックメタル界のダンテの神曲」と言わんばかりの表題曲では、The BodyやThouに代表されるスラッジ/ノイズ界隈の叡智を借りて、男性性のマシズモを象徴する轟音ヘヴィネスを以って「過去のLiturgy」と「過去のハンター・ハント=ヘンドリックス」を超越し、音の気持ちよさ=快楽を追求することで、現代ポストメタル史上最凶となる【No. 33】の狂騒曲を描き切っている。それはまるで、ケイト・ブランシェット主演の映画『TAR/ター』の天才女指揮者さながら、彼女の人生に降りかかった性自認の苦悩と狂気、一般のヘテロセクシュアルには想像もできないような、人生の全てをさらけ出す狂宴の指揮者が彼女ラヴェンナなのだ。
いわゆる人間が棲むとされる第四界層の物質界(アッシャー)で執り行われる【Individuation】すなわち【個性化】は、晴れてハエラ・ラヴェンナ・ハント=ヘンドリックスとなった彼女が自分自身を贖罪し、そして祝福する界層と解釈できなくもない。今作において、クラシック音楽のように優雅に舞い踊るラヴェンナは、この世のものとは思えない崇高な美しさと、イエス・キリストの如く気高くも神々しい光を解き放っている。それこそ、ジョジョ6部における「メイド・イン・ヘヴン」の完成形じゃないけど、あまりに壮絶的過ぎて、説得力の概念を超えて勇気すら湧いてくる。
ラヴェンナは自らの肉体を捨て、LGBTQ.Q.の概念をも超越した高次元の超人へとアセンションする「個性化の過程」を経て、Liturgyの音楽においてフルート奏者の「ハーメルンの笛吹き男」を帯同させながら、グリッチ祭りやトレモロ祭りを催す高速BPMによって「時」を加速させ、この世の地獄(メイドインアビス)に対して激情と慟哭の憤怒を叫ぶ彼女は、聖人か、それとも悪魔か、もはや何者でもないシン・デビルマンとして、彼女は今この世界の中心で愛を語る。正直、ここまでイエス・キリスト並びに弥勒菩薩ばりに超越的なエネルギーに満ち溢れた人物は、少なくとも日本ではKiinaこと氷川きよしの他にいないんじゃないかってくらい。リアルな話、歌手活動を再開したKiinaが急に独りブラックメタル始めたらどうしようw
ラヴェンナが自身の音楽に落とし込んでいる神智学(カバラ)は、仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されている事からも、先述した369=弥勒菩薩というダジャレもさもありなんだし、実に興味深い。ナニワトモアレ、この『93696』を聴いてない人間がLGBT云々の話をしたところで説得力の欠片もないし、そういった意味でも、炎上発言で謝罪した橋本愛こそ今作を聴いて、LGBTについて理解と見識を深めるべきかもしれない。