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VRChatは普通にやれば「時間の無駄」なのは確かである

はじめに

本記事は本日TLを騒がせていた以下のnote記事を読んでの感想である。

というか、これは5/5段階で目を通しており、「あぁ、知られれば燃えるなぁ」と思ってたんですけど、案の定拾われて燃えてるって感じでした。
なので、無料版の時点で読んだことを基に書いていきます。

本題に入る前に、5/6夜時点での無料部分についてまず簡単に述べておこうと思う。

この対応は非常に恥知らずである。仮にもインターネット上に文書を残すということに対して、あまりにも責任感がない。

本文中の言葉を引用すれば

「「個人の日記になんでそこまで突っかかってこれるのか?(それ自体は自由だけれども)」ということで、思った以上に色々面倒だなと思ったので、見たい人だけご覧下さい。」

VRChatとの距離を置こうと思う(時間の無駄という側面)

ということらしいが、文章を公開するということは的を得た批判なり罵詈雑言なり賞賛の言葉なり、それらすべてを受けるという覚悟を持ってするべきであり、それが個人の日記だろうが感想だろうが公的な文書であろうが、そこは同じである。

それを、色々言われたから有料記事にして見せないようにする、ということは反証可能性を奪う行為にほかならず、有用な検証や別な感想を引き出す可能性を無くすものである。たとえそれば「タダの個人の感想を書いた日記」であってもだ。
それゆえに、断じて認められません。
これだけははっきり言っておきたかった。

さて、本題ですが、まずは記憶にある限りの当該noteの内容を振返ったあと、当該noteによってあぶりだされた「VRChatは時間の無駄」という問題について考えていこうと思う。

1、当該noteの主張

本来、こういったnoteを批判/考察する場合には引用しながら行うものであるが、有料にされてしまったのでそれを行えない(買えないということではなく、紹介できない)。なので、5/5時点で読んだ時の記憶を整理しながらまとめていく。

まず、当該noteにおいてVRChatは「無駄だった」と結論づけている。それは、基本的な使い方が「知り合いと喋る」だけになってしまい、そこに得られるものはない。辛うじて外国語話者と話すことにより言語能力を鍛えることができると思われるが、それ以外に明確な有用性がない。それゆえに、VRChatは「時間の無駄」であり、当該note著者は距離を置こうと感じているし、その「時間の無駄」を廃して、自らのスキルアップに役立てるべきである、というものだった。と思う。

インターネット上の反応では、「VRChatをよくわかっていない!」だとか「無駄とはなんだ!」というような主張が散見される。

しかし、筆者はそうは思わない。当該noteは非常に重要な指摘を行っていると思うのだ。
それは、「VRChat自体に目的がない」ということである。
以下、この点について筆者の主張を整理していこう。

2、VRChat自体に目的がないから時間の無駄

本パートの結論を先にまとめておけば、VRChatとは例えば児童館や学校の校庭開放のような「場」である、ということになる。

VRChatはsteamというゲーム販売のプラットフォームでDLすることができるため、一見ゲームのようである。実際、ゲーム制作ソフトのUnityを使用する場合もあるため、ゲーム的な要素はある。

しかし、当該noteから伺えるように、VRChatには、ゲームであるならば当然設定されているべき「目的」がないのだ。
例えば、FF14であったらギルドを結成して何かを倒したり集めたりする、メタバースの一つと言われることもあるどうぶつの森であれば序盤は悪徳商人…いや、たぬきちによって背負わされた多額の借金を返済する、フォートナイトであれば敵を倒し1人だけの生き残りになる、大人数サーバーのマインクラフトも目的はない方であるが、一応エンダードラゴンが存在しているし、「建築物を作る」「ひたすらほる」のようなマインかクラフトを行うことが目的として設定されている。

しかし、翻ってVRChatはどうだろうか。ゲームのような雰囲気でいながら、実はこうした「最終的な目的」が設定されていないのだ。つまり、はじめから(仮の意味であっても)ゴールがないのである。そして、ゴールがないということは「ゴールに向けて進んでいく」という過程が存在しないことを意味し、それは即ち何かに向けたスタートが存在しないということになる。

これを看破し、公にして議論を呼んだという点で、当該noteは一読の価値があった。3000円の価値はないが。

なので、タイトルに引き付けられてめちゃくちゃ言っているTwitterの住人にあっては、より読解力を鍛えることをオススメする。

され、それではVRChatとはなんなのか?ゲームではない。
VRChatとは、「場」である。要するに、広場である。

広場であるから、雑多なニンゲンがあふれている。全世界から集まる事の出来る広場であるから、様々な言語の話者がいる。広場であるから、治安の悪い人物もいれば、聖人君子のような性格の良い人間も当然いる。

広場であるから、偶然話しかけるなどの出会いによって友達ができることもある。そして、その友達の家に遊びに行く(frend only やinvite onlyを建ててそこで遊ぶ)こともありうる。
ニンゲンとニンゲンの出会いであるから、喧嘩することもあれば、「他の何人にも代えがたい関係性」になることもある。

VRChatとは「場」なのである。

3、「場」で何を得るか

上でVRchatは「場」であると形容したわけだが、それでは当該noteに立ち戻って考えよう。当該noteでは、VRchatをすることでなにか「有用な」ものが得られると考えたが、そんなことはなく、「時間の無駄」だったとしている。

普通に考えてみよう。雑多なニンゲンに開かれた「場」に行くだけで何か有用なものが得られるだろうか?

それはないだろう。例えばこれがもっと限定されて「ピアノサークル」とか「料理倶楽部」とかだったら有用なものが得られるだろう。なぜなら、「ピアノサークル」であればピアノを弾きたい/聞きたいヒトたちが集まってきており、先ほどのゲームの例でいうと「演奏会に向けて練習する」だとか「演奏を聞いて感想/批評を言い合う」という目的があるからだ。「料理倶楽部」の場合も同じ。「美味しい料理を作る」「新奇な料理を開発する」といったような目的が設定されており、それにあった人々がそこに集うからだ。
この意味において、VRChatというただの「場」は、それ単体では有用性はなにもないし、ただVRChatをするだけでは意味がない、「時間の無駄」と言う結論に達するのはむしろ当然だろう。

それでは、VRChatで、当該note著者の求めるような有用なものが得るにはどうすればいいだろうか。

それは「自分から何かする」ことである。
広場にいって「なにかすげぇことねぇかなぁ~」とただ待つのでなく、「〇〇について知りたい/やりたいからだれか乗ってくれるヒト居ませんか~」と声を上げる必要があるのだ。

こうすることで、自分でVRChatに欠けている「目的」を設定し、その「目的」を達成するために動くことが可能になる。要するに、「ないものはつくるしかない♪」という気持ちで、自明として存在していない「目的」を自由自在に設定「できる」し、何かを成すには設定「しなければならない」のが、単なる「場」であるVRChatの性質なのだ。

当該note著者は、そこを勘違いしてしまったのだと思う。
VRChatとは、それをするだけで何らかの知識や技術が手に入るものだと、そういった目的のあるサークルの集合体のようなものだと考えていたのではないだろうか。
しかし、実際やってみたら全然そんなことはなく、「場」でダラダラと怠惰に喋る私の…いや、あえて言おう。我々のような人々が転がっているだけだったのだ。

以上の考察ゆえに、筆者は当該noteは、多少のズレはあるもののある程度的を得たものであったと考えている。
そして、当該noteの著者のような人物はこれから益々増加すると考えている。なぜなら、メタバース全体の人口増大がそもそも見込まれるからだ。

そういった時に、今回のように「こいつはVRChatを分かっていない!」「無駄とはなんだ!」とイキリ倒して憤る前に、その齟齬を取り払えないかを考えてみるといいだろう。
あるいは。
そういう新規ユーザーを見つけた場合には、「目的」を設定できるようにアシストしてあげられるとよいのかもしれない。

いずれにせよ、VRChatという漫然とした「場」で、それぞれが各々の「目的」(それは友人とただただ雑談するということでも勿論よい)を設定し、クリアできるような環境/雰囲気であってほしいものだと、筆者は考えている。

おわりに

今回の結論としては、VRChatとは「場」であり、そこで何をするか/すべきかは各々に完全に任されている、ということになる。

筆者個人としては、VRChatを通じて色々な人と出会い、会話し、時には喧嘩をしたりしながら友人関係を深めていくことは「有用」なことだと思う。恐らく、VRChatをやっていなかったら出会わなかったような人々と今日も明日も話せることは得難い経験であると思うのだ。
だから、これからも「時間の無駄」を積み上げて、色々な人々と話してみたいと思うのだ。まぁ、実際に話しかけられるほどコミュニケーション能力があるかは別だが。

しかし、最後に繰り返し言っておくが、インターネット上に掲載した文章を実質的非公開にすることは責任を投げだしているということは強く主張しておきたい。
誰にも見せたくないならチラシの裏にでも書いておくべきだ。「人前に何かを出す」ということが、昨今のソーシャル時代では非常に軽く行われ、軽く考えられているが、そこに責任を持つことは必要なのだ。たとえそれが、個人の感想であってもだ。もちろん、批判をする側も、その責任を重く意識しておかなくてはいけない。

本noteに対する批判、批評などは全て開かれている。Twitterなりコメント欄なり、あらゆる場所で「常識的な範囲で」何を言ってもらっても構わない。
勿論、急に追記して有料にしたりなんかもしない。
思うことはしっかり、言葉に残してほしい。以上でまとめを終える。



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