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あなたはだれぞ?

はじめまして。ジョニキです。

情報発信しないと死ぬ病にかかってしまったので不定期で note を書くことにしました。たまに YouTube でゲームの動画投稿をしていたり配信をしていたり、極まれに qiita で技術ネタを書いてます(書きます)。note は日常、qiita は技術で使い分ける予定です。


何してる人?

インフラ系のシステムインテグレーターです(でした)。趣味でプログラミングをしています。プログラミングに関連ありそうなものは大体好きです。今はフリーのエンジニアです。好きな時間に自分の好きなものを自由に作ってます。eスポーツに絡んだゲームで何か大きな事ができないかなと考えながら生きてます。最近はマイクラの勉強のために海外 MOD の再現とかやってるうちに、気づいたらマイクラが仕事になってました。

生い立ちは?

私が生まれた時に叔父が私の家にパソコンを納めたらしく、私がプログラミングに出会ったのは4歳か5歳くらいのときでした。保育園から帰ってきては BASIC とマシン語でゲームを作る謎の子供でした。周りの子供たちが友達の頭を叩いて遊んでいる頃、私はキーボードを叩いて遊んでいました。

最近ではたまに実家に帰ると親が「誰に似てこんな(プログラミングが)育ったんやろねぇ。」とよく言ってきますが、誰にも似てないけどあんたらがパソコン与えたからこう育ったんやで。

その後、私が10歳ぐらいでパソコンがぶっ壊れてしまい、暫くプログラミングからは離れることになります。12歳ぐらいの頃にゲームボーイ、メガドライブ、PCエンジン、スーパーファミコン、ネオジオと出会い、無事にレトロゲームマニア◎の素質を獲得しました。好きなゲームはウィザードリィとダンジョンマスターと真女神転生と風来のシレンです。中学校時代はスト2無敗でした。ガイルの中垣内と立ちアッパサマーがスキです。

学生時代なにしてた?

中学卒業後、家から電車で4時間離れた高専に進学するために実家を飛び出し、その学校で初めて C 言語と出会いました。私がプログラミング言語をプログラミング言語として認識し、教育を受けたのはそれが初めてです。それまでは1+1=2ぐらいの気持ちでやってたので、授業がとても新鮮な気持ちで、とても楽しくプログラミングを学べた事を覚えています。
(最近は小学校高学年から具体的な言語を学ぶチャンスもあるので、すごく羨ましいです。)

そこで2年間ほど真面目に勉強したあたりで何かに目覚めたのか、教壇に立って情報工学の課題をみんなに講義したり、放課後に居残りしてるみんなにプログラミングを教えて回るくらいには情報工学のスキルが極まりつつありました。その学校を卒業する年に全国プログラミングコンテストに出場するも惜しくも(ここ重要!)優勝を逃しました。マジで惜しかった。この学校では7種類ほどのプログラミング言語に出会い、そのうち、C 言語、C++言語、Java 言語についてはアプリをリリースできるくらいには極まりつつありました。

その後、大学進学と同時に東京に出てきたので中学卒業からほとんど実家に帰っていないことになります(ひでぇやつだ)。大学ではプログラマーのバイトをしながら、研究室ではひたすら FPGA(プログラミングで書き換え可能な集積回路:CPU みたいなもんです)を触ってました。教授たちはいよいよこいつは研究者になるんだろうと期待してたかもしれません。ここで更にプログラミング言語を5つほど使う必要性に迫られ、無事に10言語を使う人生を経験しました。初見の言語でも「あぁこういうことね。」みたいな感覚になった人生で最も脳みそが活発に動いていた時期だと思います。

社会人になるという選択肢

研究職に就くには間違いなくこっちの方が良いだろうという企業2社の内々定を蹴って、何を思ったか私はシステムインテグレーターになりました。高専の教授からは「うちに席が空いてるからうちの教員になってくれ。」と言われましたが「すいやせん、就職先決まっちゃったんで。」と断りました。大学の教授達には「システムエンジニアになんてなりやがって。」ぐらいにボロカスに言われましたが、私はのほほんと社会人になりました。当然プログラマーのバイトも終わり、そこで私とプログラミングもまた暫くの間お別れとなります。就職するタイミングになって、高専時代の恩師が言っていたことを思い出しました。

「君には単科大学じゃなくて総合大学に進学して欲しい。」

その意図としては「同じ専門分野の人と切磋琢磨するよりも、ありとあらゆる角度から話し合える人達と触れ合うことの方が君はより成長できる。」という思いが込められていたとのことですが、私の進学した大学は限りなく専門に寄った大学だったので、その恩師の思いを汲みとることはできませんでした。しかし、システムインテグレーターとなったことで数年越しにそれが実現することとなります。

優れた同僚との出会い

入社して数日で恩師が言っていたことを「なるほど。」と肌で感じた。専門分野の人達と違ってシステムインテグレーターという職種には色々な出身の人がいた。帰国子女もいれば、パソコンをほとんど触ったことが無い人もいれば、プロ雀士もいれば、ダンサーもいれば、アカペラ歌手もいれば、お坊さんまでいた。誰と話しても今まで経験したことのないような新鮮な話を聞かされ、それでいて彼らは自分と同じ職業としていつかプロフェッショナルになるんだなぁと思ったものだ。

大企業に埋もれることへの葛藤

私の就職した会社は良くも悪くも大きな企業だった。企業の中にはこいつはやべぇというプロフェッショナルな先輩もいれば、こいつはやべぇという窓際族のおじさん達もいた。

社会人になって数年であることに気付いた。自分が数十時間連勤してシステムを死の窮地から救ったことがあったが、一方では窓際でキーボードの掃除をしてネットサーフィンをしているおじさん達もいた。個人に対して学んだことは、どこにでも働かない人がいるんだなということ。大企業はそんな社員をクビにできないので窓際族がどんどん増えていくこと。その窓際族の人達は年功序列によって自分よりも多い給料を貰っていること。そして企業自体に対して気付いたことは、安定した会社の成長と失敗しない戦略を長期的に続けるために、安定したシステムの運用と古びたシステムの刷新、という同じ仕事を延々と繰り返していること。

つまりこの会社で働くという事は、少ない人員がひたすらに連勤して、同じ仕事を効率的に回すということだ。これが俗にいう「大企業の歯車」というやつだ。これは決してその企業全体をディスっている訳ではない。この企業にいる間は同じ知識で安定した給料を貰えて、安定した人生を送ることができるし、大多数の人達は素晴らしい人達だ。だが一方で、窓際族を横目にやる気を失いながら、しかも成長できない日々を送る必要があった。それなりの給料を貰っていたため決してブラック企業ではないが、「成長できない。」ということに対して猛烈なストレスを感じていた私はある日上司に会社を辞めることを告げた。

その後の私

2020年になって新しい人生を探し始めました。それはここに書きました。

まとめ

・5歳でマシン語
・レトロゲーム◎(ダンジョン徘徊ゲー◎、やり込みゲー○)
・スト2無敗

おしまい。

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