喉元にて

以下、クトゥルフ神話TRPG「沼男は誰だ?」のネタバレです。
セッションがいい感じだった思い出記録。






平衡感覚を狂わせるほどに果ての見えない螺旋状の階段。
生き物の内臓を思わせる湿気と臭気と熱。
正気を保ったまま無機と有機の境界が曖昧な空間を延々と登り続けられているのは、今が明らかに非常時であるからだろう。

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―――ヒトの真似っ子をする存在の親が、どうしてヒトみたいな形をしているんでしょうね。
爽が「それ」に対して抱いた最初の感想だった。
スワンプマンは元になった人間と寸分違わぬ意識と姿で行動し、無意識に他人を食らう。そして、食われた人間の姿を模倣した同種を生成する。
食われた者は己がそれであるということに気づかずに生活を続ける。そういう存在だ。
目の前のそれが捕食と増殖の指令を送る母体であると聞いていたけれど、だとしたらここに居る彼女は、いったい何の姿を模倣したのだろう。

「それ」は怒りも恐れも諦めも、一切の感情の感じられない口調で我が子たち、と呼びかけると、とうとうと語る。
曰く、捕食を止めることは己の意思ではできない。
つまり、交渉の余地はないのだと。
―――それなら、殺すしかないかな。

「あおい、くん、すこ、少しま、ってください」
体のどこにあるナイフが不意打ちに適しているかを考えていると、基が声をかけてくる。

ありゃ、バレちゃいましたか。まだ動いてもいなかったのに。

話を、と彼は続ける。
「あな、あなたが、いなくなると…仲、仲、間たちは、どうなるのでしょうか」
「それ」は返答の先に生まれる問いを先回りするように、つらつらと答える。
己を殺せば彼らは捕食行動を止め、泥に還ること。
100万近いスワンプマンが人間として生活していること。
殺すのかどうかは、あなたが選ぶのだということ。

そんなことを言われたら、モトイはきっと決められないでしょう。
あんなに意気込んでいたツクシも、今はすっかり静かです。表情は読めないですが。
沢山人を殺しているはずなのに、ヒトの形をしているというだけで、喋るというだけで、こんなに躊躇してしまうなんて。

「僕には、この母体を、殺すことは、できないー、皆さんが、殺そうとするならッー、全力で、抗います」
「そうすると藍美さんも死んでしまうということだね」
筑紫の言葉に背中を押され、基は懸命に言葉を発する。流れの悪いパイプを多量の水で押し流すように。
この三日間で接してきた藍美は自分たちにとって一人の人間であること。母体を殺すことで100万人の人間として生活している者が消滅すること。それらはとても受け入れられないということ。

筑紫は全人類がスワンプマンになったとしたら、母体が死ぬと全員が死んでしまうということを挙げてみせる。
信念や死生観や感情をぶつけるのでなく、現実的なリスクを提示する。爽に年相応の社会経験があれば、経営者らしいやり方だ、などと思ったかもしれない。
基はそれでも、と続ける。
「今からぼ、牧師らしからぬことを言います」
「大切な人、ができたことは、ありません―、ので、それがなくなるのは怖いんですッー、、あんなふうに、喋ってくれる人は、いなかったから――」

爽には理解ができなかった。こうして喋っている間にも、スワンプマンは猛烈な勢いで増殖している。
人を殺したことにも、殺されたことにも気づくこともないままに。
大切な人や己がスワンプマンかどうかなど、どうでもよかった。
起きてしまったことは変えられないけれど、ここで行動を起こせば先に起きることは防ぐことができるからだ。

モトイはお母さんが死んでしまってもいいのかと言いました。
ママがスワンプマンになっていたのだとしたら、僕のママはもう死んでいるということです。
だから、そうなってしまったら、それは仕方ないことです。
悲しい気持ちにはなるかもですが。

モトイの言うことはペットの犬が可愛いから殺せないというのと何が違うですか、この先たくさんの人が死んでもいいというですか、と爽は言う。
そんなことを言いながらもしかし、不思議と苛立ちはない。
これまでの人生において、関わりがあったのは錯乱と平常の境界が曖昧になっていた母と、腫れ物扱いしながら生活の面倒を見てくれていたサーカス団、食料やお金を「収穫」できる人くらいだった。
対話ができる相手ができたのは、爽にとっても生まれて初めてのことだった。
彼は今行われているそれが、対話と呼ばれることを知らない。

―――ふと、曲がった背中が鐘有との間に割って入ってきたときのことが思い出された。
大して身長のない彼の頭越しにナイフを命中させるなど、爽には造作もないことだったが、それをしていたら彼が必要以上に傷ついたであろうことも、今は理解できる。
できれば、殺したくない。
神の御言葉に従い、僕は皆を救いたい。
「だけど」と「だから」が共存するその言葉に、怒りも呆れも驚きもしないけれど、やっぱりですねぇ、という感想を抱いた。
皆を救いたい、だなんて。その一言が矛盾している。

彼は神様のもとに等しく救済があるべきと説いたけれど、スワンプマンは神様が創ったものではない。だから、神様がいるなら自分の生み出した人間に残ってほしいと思うんじゃないか。
そんなことを言った気がする。
基はとうとう黙り込んでしまう。

すっかり項垂れて言葉を失ってしまったモトイの様子を一瞥すると、ぱっぱっと手を振り血を巡らせ、ついでに袖口から得物を取り出す。
まずはナイフを投げる。命中を見届けるよりも先に距離を詰め、胸を突き、抉る。
手品師に教わった手の応用だ。
先に見たような反撃を警戒してのフェイントだったが、引力が導いたかのように二本の刃をまっすぐ受け入れると、「それ」は穴の空いた水風船みたいにあっけなく、急速に死んだ。

彼らの「食べたい」と僕たちの「生きたい」がぶつかっただけで、ここで起きたことが特別な意味を持つわけではないでしょうに。
僕は帰らなきゃいけないです。「10000」があと6枚もあれば、来月のお薬が買えますから。
悪い子は、僕だけでいいです。

基は唸っている。筑紫は自分がどうなるのかを知らない。

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―――ツクシの大きな体が、急に傾く。
いつ終わるともしれない揺れの中。少し疲れたかな、と言う彼の巨体を二人で支え再び登り始めようとするけれど、気づくとその体は既に、溶け始めたアイスのように表面がズレ始めていた。

アレは即死だったのに、意外と時間がかかるんですねぇ。
踏ん張る右脚は徐々に滑っていき、モトイの肩に回した左腕は関節のないところで曲がり始めている。
ツクシはあの時ナイトーに殺されている。ここに居るのはアミさんがその肉片を喰らって生み出したスワンプマンだ。

モトイはそのことについて、何も触れなかった。
優しいんですね。と思った。
でももしかしたら、単に自分で何かを決められないだけなのかも。

「ツクシ、何か伝えることはあるですか」
と訊くと、ツクシは何事かが書かれているであろう紙片を手渡してくる。
これは遺書。僕もママも、サーカスの仕事のときには書かされていました。
今日よりも前に用意していたんでしょう。こんなものまで再現するなんて。悪趣味。

目の前でドロドロに溶けていくそれは明らかに人間ではないはずなのに、紙片から伝わるぬくみに、彼がまだそこに生きているような錯覚を覚える。
だけど、もういないんです。
彼も覚悟していたのだろうか。驚きはしたものの、自分に起こった異常と、爽の態度から、すぐにそのことを理解したようだった。

「皆に、これを」
と言葉短く伝えた彼は、僕らに先に行くように促す。
できません、そんなことできない、と言うモトイの手を引いて階段を登ろうとするが、その腕はするりと抜けてしまい―――爽は、カクン、と膝をついてしまう。

モトイ?
ふと目線をやると、彼は手首に付着した茶色い泥と、包帯の巻かれた何本かの指を呆然と眺めていた。

ありゃりゃ。
いつの間に。なんの自覚もないという話は本当なんですね。
じゃあきっと、------ママも。

「あ、あ、あ、あおい、くん、どど、どうしよう」

モトイは皆を救いたいと言っていましたが、手の届くものしか救えないことくらい、僕にもわかります。
僕たちがもう助からないだろうということも。

「僕にはもう無理ですから、これを頼みます」
と、茶色い泥が染み込み始めている紙片を押し付ける。
モトイはあ、あ、あ、と、腰を抜かして震えている。
置いて行くように促すも、できない、できないと首を振るばかり。

この期に及んで、選べないなんて。仕方ない人ですねぇ。

何かを救うということは同時に、選ばなかったものを救わないということでもある。
ヒトが救うことができるのは、自分の手が届くところまで。ヒトが道具を作るのは、それを少しでも広げるためだ。
僕が僕であるうちに、一人、ここに救える人がいる。
それがこの人なら、悪くないかな。

母が苦しみから解放されたと知った爽には、生にしがみつく理由も、目的も、ひとつとして残っていなかった。


が、
――――――――――――――――死ねない。
頸動脈は切った。急速に意識が消失するような出血もある。
足の付け根の動脈を刺す。心臓を刺し、捻る。壁に立てたナイフに頭突きをする。

気づくと基の姿はなかった。
どちらの決断が早かったか分からないけれど、結果がそうならどちらでもいいか。

「これでも死ねないなんて。難儀ですねぇ」
お父さんとママの血が流れている愛しく憎いこの体は、もうない。
だけど意識だけははっきりここにあって、僕だったものが、崩れていくのをただ見つめている。
体だけでない。ママが若い頃に着ていたこの服も、刻まれた傷も、突き立てたナイフも、一様に溶けていく。フライパンで熱したプラスチックみたいだ。

―――あれ?
ふと、ほとんどペタンコになってしまったツクシを見る。
彼の眼鏡も、相棒も、すっかりとろけて一つの茶色い血溜まりになりつつある。
スワンプマンが生前の姿をそっくり真似て、衣服や道具も再現しているのならば。あの遺書は。

「爽ちゃん、生き物の体には魂が入っているの。体は魂の入れ物なのよ。」
「死んだら体は土や海に、魂はお空に還るの。」

ーーーだとしたらあの中に入っていたのは、やっぱりツクシの魂なんですかねぇ。

「今度は普通の男の子になれますかねぇ」
音のない穏やかな眠りに沈んでいく声に、なれるとも、と血溜まりのあぶくが応えたような気がした。

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