0708 足跡を幾度も踏み直す

5年前まではあらゆる労力を仕事と極めて少数の大事な人だけに注ぎ込む生き方をしていて、その結果、友達と呼んでよさそうな間柄になれた相手の多くとは疎遠になった。
当時はそれで満足だったし、ごく少数の「大切なもの」以外のことを、必要だとも思っていなかった。

手の届く世界の全てが、好きな仕事と好きな人と好きな音で満ちていて、それはそれで幸せなことだった。
しかしその幸福は、卑近、と言ってしまえばそれまでのことで、それらに手が届いてしまっている以上、発展の未来も目標でしかなく、飛躍や可能性といったエネルギーに満ちた言葉とは縁遠くなっていたのかもしれない。
自ら新天地を目指すことをせず、役に立つことや尽くすことで己の価値に納得しようとする私の性質は、可能性と機会を求めて上京した人々にとっては、都合のいい存在になるか、油断して足を引っ張ったり相容れない存在に変貌してしまうか、どちらにも転ぶものとなるだろう。と想像する。

そしておそらくわたしは、それらの安定した安心の源(つまりは友人だったり恋人だったり家族だったり健康だったりといったもの)が、なくなるものだと思っていなかったのだろう。
今なら単に若かったからだとか、未熟さのせいにすることができるけど、それらは特に想像力の不足や臆病が招いたものだったことが今ではわかる。

自ら選んだ/招いたことではあるけれど、今の職場に入る際に訪れた公私両面での巨大な空洞は、よすがを失った不安定な感覚と同時に、こういう時に人として当然感じていい痛みや怒りや悲しみといったものをひと息に堰き止め、鈍麻させてしまった。

実家は極めて不安定なバランスで保っていたため、長子が就職して安定することは特に喜ばしいことであっただろう。
私は他に目的があったため、それらのことは副産物でしかなかったのだけど。

ともあれかつて望んだ社会的な安定を得ることになった私は、お世話になった先人や友人、親類などから祝福を受けた。
その中には主目的を達成できなくなった理由となる人や、かつて致命的な打撃をプレゼントしてくれた人なんかもいたけれど、彼らに「喜んでいるように見える?」とか、「あんたのせいだよ」とか言うことはついになかった。出さなくていい勇気はいつだって出ないままだ。

あれから月日が経ち、今でこそ「あの時やりたいと思った気持ち」の取りこぼしを回収してささやかな満足を得ることができているが、
最近新しい友達や新しい遊びが楽しいなーというこれは、報われなかった憧れを慰撫しているだけのように思うし、
優しくできる人間でありたい、善き人でありたい、といったような信条をここ数年意識しているけれど、これも誇りのようなものを守っているように見えて、過去の後悔を清算しようとしているだけに思える。
そしてそれは、我を通したり、人との関係性の発展、意見の衝突などの際に働く力を一方方向に偏らせる可能性があり、それだけに縋るのは決していいことではない。
とはいえ、善き人であろうとする理性と衝突が起きてでもなにかを成そうとする衝動や情動と、倫理的道徳的な呵責を天秤にかけると雁字搦めになって動けなくなる気もする。何事も程度問題だ。

歩いたあとに実るものもなく、体力が、衝動が、憧れが、友人が尽きたら終わりだ。そう考えると、己が本質的に抱える、虚無と怠惰と臆病の精神に戻ってしまう気がしている。

賢かったり強かったり、そういう身体や脳の性能に由来する強みがあれば、もう少し自身を保っていられるのだろうかね。
最近は躁に偏っている気がする。きっと揺り戻しを恐れているんだろうな。

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