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無気力は優しさに擬態する

まず、「優しさ」と範囲の広い言葉を使ってしまいましたが、哲学でも道徳でもない主観の話です。なので、話半分に受け取ってください。

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人に優しくするということになにか目的を与えるとしたら、
・愛情や親愛、助力などの見返り
・不利益を被らないための保身
・道徳的達成感
などといったものが早い段階で挙げられると思います。

「優しい振る舞い」にはいくつかの側面がありますが、己にとってのそれは、元々は衝突による傷を回避するための選択だったのではないか、とふと思ったのです。

自分にはいわゆるスクールカーストにおいて上位に立つような才能やコミュニティ、よい評価を得られる能力などはなく、身体的、経済的にも強くはなかったため、意識的にしろ無意識にしろ、他人と傷つけ合ったり、不利益を与え合う可能性を孕んだ選択はできるだけ避けてきたはずです。
故に、優しくありたいという自分の思いは、他人との関係性の変化に伴う不安や痛みを回避することや、自分もそうあることで身を寄せ合っても棘で刺し合わない「優しさ」を共有できる人たちの中で過ごしたいという、保身のための選択だったのではないだろうか?と。

そして、そう考えたとき、今の自分は道徳的な達成感を得るために、相手からの感謝を搾取するために、優しくしようとしているのではないか?と考えてしまいました。

善意に見える原動力を誰かのために使おうとするとき、ときにはそれが相手を傷つけたり、停滞させたり、互いの関係性に悪い影響を及ぼすこともあります。当然ながら。

自分が助けられてきた側の人間なので、なるべく困っている友人の助けにはなりたいとは思っています。
ですが、倫理的であろうとする態度は時に傲慢で、加害性を持つことがあるということに自覚的でなければならないと感じているし、己の価値観や性別が、いつか無自覚のうちに誰かを傷つける原因になってしまうのではないか?今の自分は勘違いした正義感に酔っていないだろうか?そのことが軋轢を生んだり、関係の崩壊を招くのではないか?といった不安をこのごろ感じています。

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もう一つ。ものごとを変えるのには気力が必要で、優しさを倫理観や道徳といった尺度の上に据えたとき、倫理的な振る舞いをすることにもまた気力が必要だ、ということです。

倫理的であろうとすることにはエネルギーが必要です。
誰かと一緒に問題を乗り越えることも、そこから身を退くのも、問題を前にして座っていた時間が長ければ長いほど、腰をあげるのが億劫になります。身近なところでいうならば、焦げ付いているけれども手に馴染んでいる鍋を使い続けてしまうことと似ています。
故に、倫理観のない人間を演じようとするとき、無気力な人になるのが最も手軽な手段のひとつだと思っています。

これは最近見た映画「ミッドサマー」の話なのですが、作中に「数年前の妹の自殺がキッカケで精神を病み度々パニックを起こしてしまう女性」と「周囲には別れたいと零しつつも破局することもできず、泣く彼女を一晩中抱きしめる続ける男性」のカップルが登場します。

関係性の変化や不安の解消のための行動もなく、数年間ただただ同じことを繰り返すだけの関係。映画の開始時点で、既に停滞しきった関係性でした。
なぜ別れないのかという問いに対して、男性側は「(正直別れたいけれど)彼女には僕しかいないから」といった返答をしていたように記憶しています。

作中の祭りで各々が役割と選択肢を与えられたことで、既に終わっていた彼らの関係は一気に破滅するのですが、それが続いてしまっていたのは、進展も破局も望まず、現状のまま行動を起こそうとしなかった彼の無気力が原因だったと感じました。

彼は弱っている彼女を見捨てない優しい人だったかもしれないけれども、その優しさは当たらず触らずの無害さでしかなかった。
少なくとも薬にはならず、相手を蝕んでいる問題を先延ばしにするという意味で、彼のそれは毒として作用していたように見えました。

大切なはずの人の苦しみに対して、寄り添うようなふりをしていながら何もしないことは、無責任だと私は感じます。
が、そういったような変化を忌避する性質は、私の中にもありますし、実際にそのことで取り返しのつかない失敗も経験しています。

「ミッドサマー」を丁度いい題材にしてしまいましたが、先に書いた「優しさは有益性よりも無害に寄った理想像」で言いたかったのは、だいたいこんなところでした。

優しさは砂漠で足を止めさせてしまう枷にもなるけれど、施した気になって満足している本人は、その停滞した関係の暴力性に気づいていないことが多い。
無気力は倫理には到達しない。

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