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記憶が歳を取らなくなってから

大切だった人の誕生日を祝わなくなって、今年で2回目だった。

久しぶりにSNSで見かけたのでアカウントを見に行ってみたら、己の誕生日についての言及はとうとうなかった。プライベートなことは私の知らない、別のアカウントに移したのかもしれない。

その人は作家で、(自分が遅い子供で親が苦労したために)早く結婚して子を持ちたいということと、自らの作品を認められたいという(現代日本ではどうしてだか困難が多い)ことを願っていた。
「アラサー」という言葉と、三十代以降の未来と。それらをタイムリミットのように話していた。今でもそうなのだとすれば、霧の中の未来まで、もうこれであと数歩だ。先は以前にもまして見えにくくなってしまったけれど。

あの人は自分の信じる美学とそれを体現する能力を持っていた人だったけれど、社会的な圧力との折衷に常に苛まれていたように見えた。
きっと似合うからと贈ったアクセサリが仕舞われたままでいたことよりも、私もあの人自身もいたく気に入っていた服を「もういい歳だし」と着なくなり、「大人」の服を、ピアスを、次々と購入していった。
そういうことがあるたび、勇気を称えるべきか、惜しむべきか分からなかった私は、夏の若葉が落ちるたびに無力を悔やむことでその変化に耐えようとしていた。

あるときその人の親が再婚して、それを境にその傾向は加速していったように感じる。
その再婚相手と話す機会が一度あったのだけど、あの人の活動について「それは金になるのかね」と聞かれたとき、私は「今は、まだ」としか答えられなかった。
誰よりもあの人の才能を評価されたかった筈の自分が、いざとなって答えに窮した挙句、そんな消極的な返答をしてしまったことがとても悔しかった。などと言えば聞こえがいいが、それが当時の現実的な答えでもあった。

そういった記憶に残っていること以外にも、あの人自身、「社会」なるものに許容される形になるために伸ばしていた髪をばさりと切り落とすような(実際は逆だったけど)、そういう強迫を歳をとるたび、新しい人と出会うたびに感じていたのだと思う。

そしてその試みは、脱皮は成功していた。今では社会的に受け入れられ、名前が出る仕事も任されて才能を評価されている。この災害下でもきっと励まし合う仲間がいて、支え合える大切な人がいて、だけどそうして「時間切れ」が来たとき、あの人はどうするのだろう。

過去形となってから一度だけ、未来のことを話したけれど、きっとそんなものはないよ、と言うことはついにできなかった。
恐れていた時間切れのことも、もしかしたらの未来のことも。

いつかは若かったなぁ、と笑える未来があるのかもしれないけれど、自分の手で切り落とされた髪を、血肉を、目の前でまだ乾いてもいなかったそれを、体育館の床で擦りむいたときのような嫌な感触を、僕はどうしてあげればよかったのだろう(そしてそれには、自身も含まれる)。

記憶は25歳のままで止まっていて、その影だけが頭の中に棲んでいる。
大切だった人の姿を借りたなにかが今でも生存していて、命日と誕生日が交互に訪れる。


(これは8月に書いた文なのだけど、もうすぐ節目なので思い切ってここに供養します)

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