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面白くないこととの向き合い方【前提を変える】

Q. 生きていて、”面白くない”と思うことがあった時、「面白くない事に時間を使っている自分」が嫌になる。でも、その場所に居なくちゃいけない。じゃあどうするか?

A. 「前提を変えれば問題なし」



私たちは、身の回りの世界、自分の目で見ている世界の事を、特定の価値観に沿って見ています。


それは「青色が好き」みたいなところから始まり「イケメン美女を見たらテンションが上がる」「知識がリンクする時に面白さを感じる」「人から嫌われたくない」「人から褒められたい」「国家試験レベルで勉強を止めるとかマジで糞」とか本当に色々あります。

日常生活過ごしていると、あらゆる場面で決断を強いられます。そしてそのたびに私たちは、決断をしています。


さて、現実に面白くないと思うことに出くわす。しかしその場所にいる必要がある。こんな時、どうするでしょうか。


その場所から離れて、自分がやりたいことをやる事が出来ないときがあります。

何故出来ないんでしょうか?


別に「やりたいことをやれ」と言っている訳では無いんです。
ただ、「どうしてやらないのか」ということを問うている。

ここで重要になるのが上で触れた「特定の価値観」なのです。


手術の手伝いをする、「ありがとう」という麻薬



突然ですが医学生の人で、オペ見学の途中、やることが無くて困っている人はいませんか?
そんな状況を打開する方法をお伝えします。

それは「手術を手伝う」ことです。

学生の立場で手伝うことが出来ないって?何寝ぼけたこと言ってるんですか。

術野の中だけがオペではありません。
麻酔科が居て、外回り看護師がいて、臨床検査技師が居て、手術室をキレイにしてくれる看護助手だとか清掃員の人が居て、それ以外にも色んな人が協力して初めて手術が成り立ちます。

掃除をしろ、と言いたいんじゃないんです。別にやっても良いですけど。

医学生が求められるのは「手術中にそこにいる」ことですよね。

本当に「そこにいる」ことなんでしょうか。

能動的に術野を見学する「姿勢を見せる」
麻酔科の投薬方法に関して(γ計算や、薬剤投与量、人工呼吸など)興味がある「姿勢を見せる」
外回り看護師の業務になっているようなことを、手伝う「姿勢を見せる」(実際に手伝う)

オペ室にただいるだけというのは、これらの事を「しない」選択をしている、とも言えます。


もちろん、外回り看護師の仕事を手伝うという事に関して、色んな流派の考えがあることも知っています。

「看護師の仕事を取るな!」「分からないなら邪魔するな!」とか。
これらはひとえに「手伝ってくれる気持ちはありがたいが、それで失敗した時の責任の所在が分からなくなる」ということから来る発言なのでは無いかと思っています。


「看護師さんの仕事を奪ってしまっては、仕事がなくなって”かわいそう”」だからやらない??


言い訳もたいがいにして下さい。そんな慈悲に見せかけた偽善いりません。看護師さんはもっといろんな仕事があります。そんな雑用ばかりではありません。しらんけど。




「本来その仕事についている人の仕事を奪ってしまう」「自分は給料をもらっていないのに動くのは癪だ」

色々考え方はあるかもしれません。そこで登場するのがやはり最初に紹介した「特定の価値観」です。

確かに、外回り看護師の仕事の一部をやったところで自分に給料が入るわけではありません。

でもそれ以上に、「何もせずぼーーっとする」=無為な時間を過ごす、のが嫌。

そんな価値観を持っているのであれば、手伝えばよいのです。

ダラダラとしているのも嫌いじゃない、そのような時間があるからこそ頭の中で考えを巡らす事が出来る。
そんな価値観を持っている人は恐らく「そこに居る」事が上手い人、もしくは「他の人の評価、他の人から受ける扱いが悪くても気にしない」人なんではないでしょうか。そんな人の背景にある特定の価値観は「自分の頭での言語化が出来ることが最優先」「人からの評価は二の次」などがありますかね。


大半の学生は黙って術野のあたりをうろうろ、たまに先生に質問する。程よいタイミングでスッと抜ける。

そんな状況だからこそ、手伝いをしたり能動的な姿勢を見せたりすることの評価は相対的に上がります。


能動的な学生を見たら先生はどう思うでしょうか。

自分の科に興味があるのかな、と思うのです。
だって自分がそうだったから。自分が興味が無い科のオペなんて、面白かった試しがないから。能動的に参加した機会が少ないから。
だから、声を掛けるのです。褒めるんです。

【優秀やね、気が利くね、察しがいいね】
と。
【先生ほんと助かるわ、ありがとう
と。

これは嬉しい麻薬です。癖になります。人からお礼を言われて嫌な人なんていません。

でも最近の私は「目先の利益を得て、遠くの利益を逃しているのではないか」と考えるようになっています。

例えば1日に100問、問題を解かないと3日後の就職試験に間に合わないとしたら?その時、同じ様に手術見学をするでしょうか。

恐らく黙って手術室から、退室します。
「あれ、先生は?」「最近じょんくん見ないね」と認識されていればまだ良い方で、実際は居なくなったことにも気が付かれない事も多い。自分が考えすぎていただけなのです。学生がそこに居ようと居まいと、手術は回るんです。


では手術に参加する間、学べる事は無いのか?そんな事はないです。例えば、

言語ゲームが成立している様相を見る。

・外科の先生には見えている世界が、自分には見えていないという事実を元に「人間は一人ひとり違うのだな」と感じ、その違いはどこにあるのだろう、と言語化する。

・経験を積むことで私には「赤とオレンジと黄色と白の混合物」に見えるものを「これは〇〇動脈、これは筋膜、これは神経、これは腫瘍」と見分ける事が出来る。その経験、って何?今の自分は知らない世界、言ってみたいその世界。

・解剖構造を理解することでオペの術式を理解する。

・外科医師がどの様な働き方をしているのか(オペに清潔で入らず見学している医師は、入院患者のカルテを書いていることもあった)

・オペに入ってから病室に戻るまでの患者の辿る流れ。

・オペをする前、外来でどの様な検査をオーダーする必要があるのか。

・先生がオペに踏み切った過程や、保存療法ではだめだった理由

・麻酔導入の手順(酸素投与、筋弛緩薬、挿管、、、)

・麻酔薬の選択(またそれにともなう副作用と、それぞれ投与時に注意しなくてはならないバイタルサイン)


ここで言語化出来ていない様な事も、恐らく沢山学べています。

しかし手術を見学する選択肢を取った私にとって「自分がやりたいと思ったことが出来ているのか?」という問いに答えられていない、どこか目をそらしてしまっている様な感覚があるのです。


知識も面白い

「なんとなく行う手術見学よりも、やりたいことが何か、人生を賭けてコミットすることを考えたほうが良いと言うけれど、それは何か?」


今の段階では、答えが出ません。
Jamboard に書き出してみましたが、それでも分からない。そういうもんなのかもしれないです。人生を過ごしながら、なんとなく決まっていくのかもしれません。



最後に

オペ室に入る事が悪いと言っているわけではないのです。人の役に立てて、社会に貢献することで自分の価値を再確認する、そういうのも素敵です。

ただ、オペに能動的に参加して褒められることが目的になってはイケない、ということです。

オペに参加してお礼を言ってもらって気持ちよくなっているけれど、何かもっと考えないといけないことから目を逸らしていないか?

と考える癖を付けていきましょう。





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