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もしものことがあったら読んでください

父、母、弟、そして友人へ。

もしもの事がぼくにあったら、この手紙を読んでください。

たとえば、長い間意識を失ってしまったとき。たとえば、治る見込みのない病になったとき。また、治る見込みはあっても多額のお金や多大な労力がかかるとき。これらの状況が訪れたときにどのように自分を取り扱ってほしいかを書きます。つまり、生死に関するぼくの価値観を書きます。

家族へ。この価値観は年月を重ねるうちに変化するかもしれません。このブログの存在は父と母には明かしていませんが、弟にはこの文章を書くのを手伝ってもらったのできっと覚えているはずです。「note」と呼ばれるこのSNSにはこの文章の他にもいくつかのエッセィを残しています。必要ならそれらの文章も参照してください。

友人へ。もし可能なら「城は(ひろしは)こんな人だったよ」と家族に伝えてください。生まれたときからずっと一緒だった家族が特別なのと同じように、ぼくと出会って、ぼくを選んでくれた友人のみんなはきっとぼくのことをよく知っているはずです。ぼくがどんな人だったか、伝えてくれると嬉しい。こんなところに書くのもアレだけど、君のことを深く知りたいと、話したいと、いつでも思っています。今度、君自身についても聞かせてください。

ぼくの死生観

概要
- 意識があるなら自分で判断したい
- 意識があっても、精神があまりに依然とかけ離れていたら代わりに判断してもらいたい
- 意識がないなら生命を止めても構わない
- その場合は所有物の一切を処分してほしい
- 自分の生命に関する判断は、意識を失う直前にぼくともっとも近しい関係にある人にしてもらいたい。家族である必要はないが、手続き上の問題がある場合は家族に判断してもらいたい

以下は価値観を補足するための文章です。上記で伝わらないニュアンスが伝わればと願います。

* * *

ぼくはきっと往生すると思う。生まれてこの方32年、大きな怪我をしたことが一度もない。病気になったこともない。きっと神様に守られている。ぼくは特定の宗教には傾倒していないが、神秘的な思想を持っている。人間には過去生があり、今生は前世からの連続である。この世に偶然はない。すべては必然である。もし今自分がつらい状況にいるのなら、そこには理由がある。徳を積めば、自分も周りも少しずつ善くなっていく。そう信じている。だから、この先大きな怪我はあっても意識を失うことはない。そんな気がする。

でも、そんな根拠のない考えでは家族に迷惑をかけることもあるでしょう。だから、一応言葉にします。何かがあったとき、もし意識があるならぼくは自分で判断したい。そして、ぼくの意識がしばらく戻らない場合には、生命を止めても構いません。また、たとえ意識がある場合でも精神に異常がある場合には生命を止めても構いません。記憶障害、幼児退行、etc...。「記憶を失っても人格は残っているかもしれない」「幼児退行しても元に戻るかもしれない」「人格とはどこにあるのか?」などと哲学的な議論を始めたいところですが、その頃にはぼくの意識は存在していないので結論を出しようもありません。

ぼくの生命を止める場合、ぼくの所有物の一切は捨ててください。全部です。特にノートや日記、パソコンなどの言葉が残っているものは処分してほしいです。基本的に、ぼくが遺したいものはSNS等で公開しているものだけです。それ以外の情報は誰の目にもついてほしくありません。捨てない場合は、家族か本当に近しい人の間にだけ留めてほしいです。

また、生命を止める判断は、ぼくが意識を失う直前にもっとも近しい関係にあった人にお願いしたいです。パートナーか、親友か、弟か。家族で判断する場合、年齢を考えると父母よりは弟が判断するのが妥当に感じますが、委細は任せます。誰が判断するにせよ、ぼくが生前どんな考えを持っていたかを把握した上で判断してもらえると喜ばしいです(無理のない範囲で)。でも、わがままを言えない領分でもあるので任せます。親友などが判断することに手続き上の問題がある場合、家族が判断してください。万物には死が訪れます。どうにもならないことに時間とお金をつかってほしくありません。

弟ととの人生会議

2021年1月17日(日)に弟と人生会議をしました。人生会議については神戸大学のページを参照してください。「人生会議」とGoogle検索すると出てきます。リンク切れすることはないと思いますが、念のため概要だけ引用します。

「人生会議」とは、アドバンス・ケア・ プランニング(Advance Care Planning)の愛称です。
アドバンス・ケア・プランニングとは、あなたの大切にしていることや望み、どのような医療やケアを望んでいるかについて、自ら考え、また、あなたの信頼する人たちと話し合うことを言います。
- 人生会議とは?

以下は弟との人生会議の振りかえりです。

* * *

「もしバナゲーム」というカードゲームを弟とLINE通話でやった。

もしバナゲームとは「人生の最期にどう在りたいか」というテーマについてライトに話し合うためのカードゲーム。去年、アドバンスドケアプランニング(ACP)について話した友人から教えてもらった。

もしバナゲームでは36枚のカードを3つの束に分ける。
・私(あなた)にとって、とても重要
・私(あなた)にとって、ある程度重要
・私(あなた)にとって、重要でない

分けたカードの束を見ながら、なぜそのように分けたのか。自分と相手の価値観はなにが一緒で、どこが異なるのかを話し合う。そうしてお互いについての理解を深める。カードには「呼吸が苦しくない」「親友が近くにいる」「人との温かいつながりがある」といった言葉が書かれている。

僕にとって特に重要だったカードは以下の5枚。

・死生観について話せる
 もしバナゲームも含めて、自分の死生観や考えを近しい人に伝えたい。知っておいてほしい。自分にもしものことがあったらその思想に沿って代わりに判断してほしい。
・人との温かいつながりがある
 恋人、伴侶、パートナーの有無、意識の有無にかかわらず、家族や友人や人生を通して関わってきた人々と温かいつながりが残っているといい。そんな関係を紡ぎ続けたいと望んでいる。
・信頼できる主治医がいる
 どんな感情的な望みも科学のバックアップがあってこそ。そして信頼できる、託せる専門家がいてこそ。技術面と心理面、両方頼りたい。
・怖いと思うことについて話せる / 私の思いを聴いてくれる人がいる
 もしもの時はきっと今からじゃ想像もできないくらい取り乱した、不安定な自分がいるだろう。そうならないようにしたいけれど、そうなってしまうかもしれない。そんなときに、どうか甘えさせてほしい。
・祈る
 自分、家族、友人、親友、大切に想っている人の幸せを毎日祈っている。自分がどうなったとしても、そうあり続けたい。

重要でないと分類したカードは3枚だけだった。

・神が共にいて平安である
 そういった宗教観がない。
・自分の身体がどう変わっていくかを知る
 あまり自分の身体に興味がなかった。でも、興味を持った方がいいのかもしれない。
・自分の人生を振り返る
 ふだんからやっている。

嬉しかったのは弟が僕のカードを概ね当てていたこと。弟とは北海道の実家で幼少期から一緒に過ごした15年の歳月があるものの、互いの思想について語ったことは少ない。一方で「人との縁(えにし)を大切にするタイプかな」などと鋭い洞察をしていた。

ゲームを終えようとしたとき、弟から以下のように尋ねられた。

「意識がない状態で生きていたいの?」
「その状態になったひろにいを殺していいの?生かしたほうがいい?」

*「ひろにい」とは兄に対する愛称

その質問に咄嗟に答えることができなかった。話しながら考えをまとめていくうちにポロっと出た言葉が「僕は、思い出の中でだけ生きててほしい」だった。もし自分の意識がなくなったら、もし植物状態になってしまったら、生命を止める判断をしても構わない。でも、そのときは僕の所有物はすべて捨ててほしい。個人的な日記やパソコンに残されている未公開の文章は読まれたくない。憶測で人格を規定されたくない。生きている間ならば否定も訂正もできるけれど、死後は何もできない。部屋のものもすべて捨ててほしい。物理的な痕跡を残したくない。僕は、思い出の中でだけ生きていたい。そう言った。

恐れがある。たとえば晩年に身体や精神に異常をきたしたら、身の回りの人や友人に辛くあたってしまうんじゃないか。自分の醜い面がバレてしまうんじゃないか。嫌われてしまうじゃないか。一生懸命徳を積んでも、情けなくなった自分が晒されてしまえばなかったことになるんじゃないか

日記やパソコンの中身からそこまで推測する人なんてきっといやしない。でも、その片鱗は確かに存在している。それらは僕の理想とする人間的な美しさと矛盾するものだ。作り上げられた「城 拓」という人間像を、幻想を、壊すに値するものだ。詰まるところ、評価が揺らぐと恐れている。生きているなら、醜い自分を修正できる。更新できる。でも死後は何もできない。美しくない人だったと一度思われてしまえば、もうその評価は覆らない。

とある性格診断は「愛されるに相応しくないこと」を僕が恐れていると結論付けた。愛されるに相応しくない、人として美しくない存在であることを、確かに僕は恐れている。何かで失敗したら必要以上に自分を責めて、反省して、カイゼンを心掛けてしまう。人として強くありたいと常日頃心がけている。それは弱い自分が愛されるに相応しくないと考えているからだ。人を傷つけたり、罪を犯すことよりも、それらの結果として人に蔑まれること、ぼくを見る人の目が変わることを恐れている。

でも、ほんとうに目を向けるべきなのはありのままの自分なのだろう。

身体はいつか失われてしまう。言葉もいつか忘れられるだろう。思い出されなくなるやもしれない。でも、記憶は消えない。ふとしたときにそっと思い出される。そんな思い出の中でだけ生きていたい。

最後に

これまで育ててくれた両親へ。この手紙が読まれているということは、ぼくは親不孝な息子になってしまったのかもしれません。願わくばこの手紙が一生読まれることのないよう。

弟へ。すまん、世話かけるな。たいした遺産はないと思うが、適当に使ってくれ。ありがとな。

友人へ。そして近くにいてくれる人へ。ぼくは友人を、近しい関係にいる人を愛しているので、そのことを生きている間に十分に伝えるようにこれからも生きます。万が一この文章を通して初めて伝わるようなことがあるなら、それはまだ対話の余地があるのかもしれない。おしゃべりしましょう。伝わっているなら、それに勝る喜びはありません。

文字にすることが大切なように、ともに過ごした時間や交わし合った言葉もぼくにとっては大切です。願わくば、これからもあなたと関わりあえますように。

この文章を読んでくれて、ぼくと関わってくれて、どうもありがとう。

#わたしたちの人生会議
#ぶんしょう舎



Grazie per leggere. Ci vediamo. 読んでくれてありがとう。また会おう!