テスカトリポカは美を司る神

 Wikipediaによって広まったこの設定の大本はアイリーン・ニコルソン『マヤ・アステカの神話』のようです。日本語版Wikipediaの「その神性は、夜の空、夜の風、北の方角、大地、黒耀石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている」という記述の参考になったのは英語版の「he is associated with a wide range of concepts, including the night sky, the night winds, hurricanes, the north, the earth, obsidian, enmity, discord, rulership, divination, temptation, jaguars, sorcery, beauty, war and strife.」、そのさらに本は記事が作られた当初の「He was a god of beauty and war.」です。
 この英語版Wikipediaの最初の記事には参考文献が挙げられていませんが、内容から推してアイリーン・ニコルソン『マヤ・アステカの神話』の「戦士の若者、私は、太陽のように輝いている、暁の美しさを身につけて I, the warrior youth, shining like the sun and with the beauty of dawn.」という記述を見て書かれたようです。『マヤ・アステカの神話』ではテスカトリポカがショチケツァルと恋に落ちたときの歌だとされるこれは、実際にはエルナンド・ルイス・デ・アラルコン『当地ヌエバ・エスパーニャの先住民インディオの間に今日も生きる異教の迷信と習慣についての書』第4書第2章「愛情を惹きつける、あるいは生じさせる別の呪文について」に収録された呪文の一部です。術者である男性は自分をヤオトル(テスカトリポカ)、目当ての女性をショチケツァルになぞらえて呪文を唱えることで、恋愛成就を祈願しました。
 問題の箇所のナワトル語原文は「Nómatca néhuatl, nitelpochtli, niyaotl, nonitonac, nonitlathuic.(それは私自身、私は若者、私は敵(戦士)、私は陽光、私は暁)」ですが、「nonitonac, nonitlathuic(私は陽光、私は暁)」というディフラシズモの表現を理解していなかったらしいアラルコンによるスペイン語訳は「Yo el mancebo guerrero que resplandezco como el sol y tengo la hermosura del alba;(私は太陽のように輝き暁の美しさを備える若い戦士)」となっています。そして、アルフォンソ・カソが『太陽の民』にこのスペイン語文を引用し、アイリーン・ニコルソンが『太陽の民』を基に『マヤ・アステカの神話』の件の文章を書いたのでした。しかし、比較により明らかなように、元のナワトル語には「美しい」というような言葉は出てきません。
 元の呪文ではテスカトリポカは、女性を誘惑するという意味での男らしさを表すものとして登場しているようですが、美を司るというような表現はありません。トシュカトルの祭りで生贄にされる、テスカトリポカの化身を勤める捕虜は身体に欠点がなく美しい青年であったことは言えるでしょうが、それをもってテスカトリポカは美の神だとするのは飛躍が過ぎるでしょう。

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