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特別号外 先人からの贈り物 ~ 自由民主親日国・台湾を隣人にもつ幸運


 日台の先人たちが心と力を合わせて、作り上げた幸運。
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【伊勢雅臣】本号は、昨年12月3日に配信したJOG(1347)の再配信です。
 本年も、同様の「台湾友好歴史探訪ツアー」が開催されますので、ご興味ある方は、ぜひご参加下さい。わが先人たちが遺した台湾近代化に向けての志を現地で実感することができます。

・訪問時期 本年11月28日(木)~12月1日(日)
・見学先 八田與一の鳥山頭ダム、墓、芝山巌の六氏先生の墓、甲子園に出場した義農林学校、李登輝元台湾総統の墓参、元秘書講演など。
・9月30日までの申込みで早期割引価格

詳細・申込み => https://realin.org/l/c/0867mgNi/fL76o0Bl
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■1.自由民主国・台湾は日本の生命線

 11/23~26までの3泊4日間、リアルインサイト社による「日台友好歴史探訪ツアー」に参加しました。おりしも来年1月13日に行われる総統(というよりは大統領)戦の真っ最中でした。

 あちこちを見学する旅の合間に台湾在住の日本人識者の方々の話も伺いましたが、台湾の民主政治もすでに20年の歴史を経て、今では国民党ですら、「自由を捨てて中国と統一」などという策は国民が許さず、どの候補が勝っても中国との距離感が多少変わるだけで、台湾が現状維持で行く、という方向性は変わらない、ということでした。

 台湾は安定した自由民主主義国であるとともに、大変な親日国です。先の東日本大震災では国民一人あたり、生まれたばかりの赤ん坊も含めて、約800円の義援金を贈ってくれました。同じく隣国の韓国は65円、アメリカでも97円です。この数字から見ても、台湾の親日ぶりは「桁が違う」のです。

 我が国は食料やエネルギーの大半を輸入していますが、そのシーレーンのど真ん中に、高度な自由民主主義国であり、かつ大変な親日国があることのありがたさは筆舌に尽くせません。

 仮に台湾が中華人民共和国の支配下に落ちたと仮定してみましょう。その場合、西太平洋は「中国の海」となり、日本列島はそこに浮かぶ「孤島列島」となってしまいます。そうなれば、たとえば中国が北海道に中国人1千万人を移住させようなどという話を日本に持ちかけ、「断ったら、食料とエネルギーの輸入を止めるぞ」と脅かすこともできるのです。

 安倍元首相の「台湾有事は日本有事」という言葉は、単に台湾で戦争が起こったら、日本も巻き込まれる、ということだけでなく、「自由民主の台湾なくして自由民主の日本なし」と解釈しても良いように思えます。

■2.甲子園で準優勝した台湾チーム

 しかし、自由民主親日国・台湾を隣人に持つという幸運は、誰がどのように作ってくれたのか、我々は考えなければなりません。今回のツアーはその解答を与えてくれるものでした。

 ツアーで最初に訪れたのは、台北から新幹線で1時間半ほど南下した嘉義(かぎ)にある国立嘉義大学でした。ここは日本統治時代に「嘉義農林学校」(嘉農)といい、その野球チームが甲子園に出て準優勝しています。『KANO』という映画にもなっています。

 台湾からのチームが甲子園に招かれたのは、台湾は植民地ではなく、あくまで「新領土」であり、台湾の人々は同じ同胞国民として扱われたからです。だからこそ、嘉農チームが甲子園にも出場できたのです。

 嘉農チームは、日本人と漢人、台湾原住民の混成チームでした。足の速い原住民、打撃の強い漢人、守備に長けた日本人と、各民族の長所を組み合わせた嘉農チームの強さは、この多民族協和から来ました。台湾と日本の青少年が力と心を合わせて、準優勝という偉業を成し遂げたのです。[JOG(1055)]

 キャンパスには当時の資料展示や、巨大な野球ボールのオブジェとともに、「飲水思源」という4文字を高々と掲げた塔があります。

「飲水思源」とは、「井戸の水を飲むときは、井戸を掘ってくれた人の苦労を思え」という中国のことわざです。我々が現在、台湾のような自由民主親日の隣人を持つ幸運は、嘉農チームの物語から日台の先人たちが力を合わせて井戸を掘ってくれたからではないか、という気がしてきました。

■3.杉浦・兵曹長のまごころに感応する住民たちのまごころ

 日台の先人たちが力を合わせて井戸を掘ってくれた、という感は、翌日、飛虎将軍廟を訪問して、ますます強まりました。

 飛虎将軍廟は杉浦茂峰・兵曹長を祀っています。昭和19(1944)年10月12日、台南上空で米軍機と空中戦となり撃墜されましたが、村の家々への墜落を避けて、郊外まで操縦してから脱出しました。しかし、落下傘での降下中に米軍機の機銃掃射を浴び、戦死。

 自分の命に代えても住民を護ろうとした杉浦を、村民たちは「神」と称え、この立派な飛虎将軍廟を建てました。杉浦は煙草が好きだったので、今でも毎日、神像の前で何本もの煙草に火をつけ、午前中に『君が代』、午後は『海行ば』を流しています。

 驚かされるのは、この廟の立派なことです。写真でみていただくと、よく分かりますが、現在、日本でこれだけの廟を建てたら、10億円以上はかかるでしょう。こういう立派な廟を村民の力で建て、今に至るまでお祀りを欠かさずに続けているのです。

 台湾は清朝政府から「化外の地」(教化できない蛮地)とされて、収奪される一方で「三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に対する住民の反乱が繰り返されていました。そんな見捨てられていた住民たちが、命をかけて自分たちを守ってくれた杉浦茂峰・兵曹長のまごころに感激したことは容易に想像がつきます。

 しかし、80年近く前の出来事に、かくも立派な廟を建て、以来、線香を絶やさない、という台湾人のまごころにも驚かされます。

■4.村民のために尽くした日本人巡査を祀る義愛公廟

 飛虎将軍廟とよく似たケースが、義愛公廟です。義愛公として祀られている森川清治郎・巡査は、台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務していました。巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えていました。

 また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をしました。

 ある年、総督府は漁業税を制定しました。しかし貧しい村のこと、なんとか税の軽減をお願いできないかと村民たちは森川巡査に嘆願しました。巡査は税の減免を支庁長に嘆願しましたが、逆に森川巡査が村民を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまいました。無念やる方なかった森川巡査は銃で自決してしまいます。

 それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した際に、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げました。村民にその注意を守らせると、伝染病はおさまりました。

 村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感激し、その制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀りました。

 義愛公を祀った廟は、これまた立派なもので、貧しい村で多くの村民が一生懸命、力を合わせて建てたことが窺われます( https://x.gd/8eEwM )。この義愛公廟も、日本人と台湾人のまごころのつながりから生まれてきたものなのです。

■5.日本人と台湾人が力を合わせて作った東洋一のダム

 日本人と台湾人が力を合わせて作った最大の建造物が、烏山頭(うざんとう)ダムでしょう。戦前、東洋一のダムでした。

 ダムの堰堤部は高さ51メートル。これを長さ1.35キロメートルにわたって、盛り土で作り上げています。満水時の貯水量1億5千万トン。これは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当します。

 給排水路は総延長1万6千キロで、台湾南部の嘉南平野の15万ヘクタール近くの荒れ地を肥沃にし、100万人の農家の暮らしを豊かにしました。

 このダムの建設リーダー、八田與一はよく知られていますが、地元の民の協力なくしては、ダム建設は不可能だったでしょう。予算総額4200万円は当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ規模でしたが、1200万円を国庫補助し、残り3千万円を地元農民などが負担しています。

 工事現場には作業員やその家族2千人が住みつきました。学校や病院までも作られ、八田の子供たちも台湾人の子供と一緒にこの学校に通いました。建設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく台湾人作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたといいます。

 トンネル工事の最中にガス爆発が起こり、日台50余名の犠牲者が出ました。工事が続けられるか危ぶまれる中で、台湾人たちはこう言って、八田を励ましました。
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 八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているおやじがいるんだ。おれたちだってへこたれるものか。
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 東洋一のダムは、こうした日台のまごころのつながりから生まれたのでした。[JOG(216)]

■6.「日本人と台湾人が相互の言語を学んで、互いを理解していくことから始めるべし」

 3日目は朝一番に、芝山巌(しざんがん)の六氏先生のお墓参りをしました。六氏先生とは、台湾での教育開始にあたった6人の日本人教師が匪賊に襲われ、命を落とした悲劇です。

 明治28(1895)年5月18日の台湾総督府の始政式の翌日に、伊澤修二(東京師範学校校長などを務めた明治教育界のリーダー)が学務部長心得として教育行政を開始し、6月26日には、この芝山巌の地に学堂を定めて、日本人教員6人が、6人の台湾人生徒と起居を共にしながら、教育を始めたのです。

 翌年1月元日、6名の日本人教師が総督府での新年の拝賀式に出席しようと山を下りる最中に、土地の匪賊に襲われて、命を落としました。匪賊たちは日本人の首で賞金が貰えるとの噂を信じていたようです。伊澤は講習員募集のために日本に帰っていましたが、この悲劇にくじけずに、募集を続けました。芝山巌の悲報にもかかわらず、45名の採用に300名もの応募がありました。

 危険をものともせず、新領土・台湾の民を同じ日本国民として育てようとする志が当時の人々を動かしていました。45名の講習員たちは、2ヶ月半で台湾語を習い、それから台湾各地で設立された14カ所の国語伝習所に旅立っていったのです。

 伊澤は、かつてフランスやイギリスの海外領土での教育事例を調べました。あるフランス人はインドシナを統治する際に、フランス語でフランス風の教育を実施したが、住民の抵抗にあって失敗したと語りました。

 またあるイギリス人は伊澤に助言して、植民地の住民に教育の必要はない、なまじ教育を施せば、本国に反攻する者を育てることになる、と忠告しました。植民地を経済的に収奪するだけなら、この愚民政策がもっとも効率的でしょう。

 伊澤は、台湾においては、フランスのように宗主国の言語・文化を押しつけるのではなく、またイギリスのような愚民政策でもなく、第三の「混和主義」を採るべき、と主張しました。

 これは「我れと彼れと混合融和して不知不識(知らず知らず)の間に同一国に化して往く仕方」です。台湾は日本が経済的な収奪を行う植民地ではなく、北海道や沖縄、樺太と同じ「新附の領土」であり、その人民は民族こそ違え、日本国民同胞として遇すべきという考え方が根底にありました。

 伊澤は台湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文明を知らないだけで、その能力は日本人と同等である事が混和主義を可能にする前提をなすと考えました。

 そのためには、まず日本人と台湾人が相互の言語を学んで、互いを理解していくことから始めなければなりません。統治開始後10年を経た明治38年時点で、台湾人の日本語理解者0.38%に対して、台湾在住の日本人の台湾語理解者は約11%。伊澤の混和主義は着実に実施されていったのです。[JOG(225)]

■7.「台湾経験」が全中国に広まってゆけば

 最終日は李登輝元総統(ではなく元大統領)の生家を訪問して、献花をしてきました。冒頭で台湾の自由民主主義はすでに定着している、ということを紹介しましたが、蒋介石の白色テロ政権を平和裏のうちに自由民主主義に導いたのは、李登輝元大統領の功績です。

 李登輝氏は「自分は22歳(伊勢注: 終戦)までは日本人だった」と語っています。京都帝国大学を卒業し、学徒出陣もしています。戦後も日本語の本を多読し、難しいことは日本語で考えると公言していました。人格自体が、日本と台湾の合作なのです。その李登輝元大統領がこう語っています。[JOG(061)]
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「台湾経験」(伊勢注: 台湾を自由民主主義に導いた経験)が全中国に広まってゆけば、・・・大陸の人々が自由社会の素晴らしさを知って、中央の統制から離れて経済的自立を果たしていく。そのことが将来、共産党による独裁政権政治を解消していく方向に繋がっていく、とおもうんですよ。[李登輝『台湾がめざす未来』
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 中国共産党の独裁政権の余命も、そう長くはないでしょう。一つの王朝が行き詰まったら、各地の軍閥が立ち上がって、内部分裂と抗争の時代を迎えるのが、数千年繰り返された歴史パターンです。

 その中から、イギリスや日本の統治のもとで、自由と人権の近代社会を体験した香港と満洲あたりが先陣を切って、台湾を見習って自由民主主義体制を構築するかも知れません。この李登輝元大統領の夢が実現した時に、初めて日本にとっても、安全安心な未来が開かれます。

 本稿の冒頭で、「飲水思源」(「井戸の水を飲む際には、井戸を掘った人の苦労を思え」)という中国の故事成句を紹介しました。台湾という自由民主親日の国家を遺してくれたのは、日台の先人たちの命をかけた苦闘です。その井戸を掘ってくれた日台の先人たちの心と力を合わせた苦闘ぶりを目の当たりにできたのが、今回の台湾ツアーでした。
(文責 伊勢雅臣)

■おたより

■「自由民主親日国・台湾を隣人にもつ幸運」と「小中華思想に凝り固まった韓国を隣人にもつ不運」(僻目の平田さん)

 今回の講座「台湾を隣人にもつ幸運」を読んで、改めて戦後日本の薄情さと国家安全保障感覚の薄さを感じました。日本は、1895年(明28)から1945年(昭20)まで約50年間 台湾を、1910年(明43)から1945年(昭20)まで約35年間 韓国を、それぞれと合併して、共に日本国として生活した経験があります。

 更に戦後は1952年(昭27)には台湾と日華平和条約を締結して友好国として付き合っていたにもかかわらず中国の巨大市場に目が眩み、台湾との関係を切ってしまいました。

 結果、戦後日本が必死で積み上げて来た産業技術を丸裸で持ち出して今日の巨大経済・軍事大国中国を作り出して、経済的にも軍事的にも脅威に曝される結果となっております。

何故そうなったか。
日本国憲法に云う「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」結果であり、金儲けのためなら敵も味方もないという戦後日本人の精神がもたらした結果ではないでしょうか。

 そういう人倫にも悖る仕打ちをした日本人に対して、台湾人は変わらず暖かい気持ちを持っています。

 一方、韓国の方はどうでしょう? 日台関係より少し短い35年間の日韓関係、共に暮らしてきた関係があるにもかかわらず余り良好な関係とは言えない。何故か?

 そう韓国には「小中華思想」というのがあって、日本などは東夷(東の野蛮人)であり、その野蛮人の下にあった事実は受け入れがたい屈辱の歴史であり、あってはならない事なのでしょう。

「自由民主親日国・台湾を隣人にもつ幸運」と「小中華思想に凝り固まった韓国を隣人にもつ不運」

 世の中なかなかうまく行かないもんですね!

■伊勢雅臣より

 日本が隣人に恵まれないのは、美しい自然と豊かな歴史伝統を持った日本が、隣人にまで恵まれたら、国際社会であまりにも恵まれすぎと神様が公平を計ったから、というジョークがありますね。

 読者からのご意見をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいは以下のブログのコメント欄に記入ください。
http://blog.jog-net.jp/
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