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JOG(1314) 聖武天皇が引き出した国民和合の底力

凶作、地震、伝染病に苦しむ民を救うために、聖武天皇は仏教によって一人ひとりが主体的に支える国を作ろうとした。


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■1.女子中学生も文学博士も感動した聖武天皇のお言葉

 かつて左翼偏向教育が盛んな頃は、中学生の修学旅行を引率してきた教師が大仏殿に来て「先生は入らないが君たちは二百万人もの人民を酷使してつくった大仏をよく見て来い」といって、出口で待つといった光景が伝えられています。[森本、p22] 

 しかし、歴史人物学習館で聖武天皇で学んだ女子中学生は、次のような感想文を書いてくれています。

 奈良県にある大仏。私がそれを写真で初めて見たとき、なぜか惹きつけられたのを覚えている。誰が、何のために? 頭の中に「?」がたくさん浮かんだ。きっと歴史上の人物が自分の権力を示すために作ったに違いない。古墳のように…。でも、それが、人々を救うために、国を鎮めるために作ったと言うことがわかった時、私は驚いた。

 その時の聖武天皇の言葉が印象深い。「まことに朕が不徳のいたすところである」 病気や災害が起きるのは、自分の政治が行き届いていないからだ、と。私はこの言葉を聞いたとき、聖武天皇の人々を思う気持ちや責任感に感動した。ここまで国を一心に考える人物はいないのではないだろうか。・・・JOG(1302)]

「きっと歴史上の人物が自分の権力を示すために作ったに違いない」という先入観に、小学校での偏向教育が窺われますが、「まことに朕が不徳のいたすところである」という聖武天皇の一言で、そんな色眼鏡など一瞬に吹き飛んでしまうのです。こういう所に、歴史人物学習のパワーがよく窺えます。

 実は聖武天皇に関して450ページもの浩瀚な評伝を書かれた東大寺別当・文学博士、森本公誠氏も、こう書かかれています。

「責(せ)めは予(われ)一人に在(あ)り」とは、聖武天皇の詔のうち筆者がもっとも心打たれた言葉である。[森本、p182]

 当時の飢饉、伝染病、地震など、民の受けた不幸の責任を、すべて自身で担おうとする聖武天皇の姿勢に、文学博士も女子中学生も同様に心を動かされているのです。ここに歴史物語が、知識の多寡に関わりなく、人の心を動かす事が見てとれます。

■2.民を救うための聖武天皇の苦闘

 聖武天皇の言葉は口先だけではありません。実際に民を救おうとする数々の施策で、粘り強く自身の責任を果たそうとしているのです。森本氏の著書は、こうした苦闘を詳細に辿っています。

 たとえば、天平4(732)年の夏はほとんど雨が降らず、秋の収穫が惨憺たる有様でした。特に瀬戸内海地方は旱魃の害がひどく、讃岐(香川県)、淡路の人々は翌年の種蒔き用の籾米まで食べてしまったようです。

 明けて天平五年、正月には天皇から勅があって、これら二国や芳野監(よしののげん、伊勢注:奈良県南部)では、国家に納めるべき稲が百姓に無利息で貸し出されることになった。また二月には、紀伊・大倭(やまと、伊勢注: 奈良県北部)、河内の諸国で米穀などが困窮者に配られた。

二月に入ると、遠江(静岡県西部)、淡路でも同様措置が取られ、閏(うるう)二月には天皇から、五穀が稔らなかった和泉監(いずみのげん、伊勢注:大阪府和泉地方)、紀伊・淡路・阿波(徳島県)などの諸国に対し、大税(おおちから)、すなわち国家が諸国の正倉に貯えている稲を無利息で貸し与え、百姓が農業を続けられるようにせよ、との勅が下った。

 かつて、元明天皇(聖武天皇の先々代)の際に、もし郡で10人以上の餓死者が出た場合は管轄する国司や郡司を解任するという勅が出されており、そのために「諸国の国司や郡司は命を受け、職をかけて立ち働いた」と、記されています。

 翌天平6(734)年4月7日には、阪神淡路大震災と同規模の大地震が大阪と奈良の県境沿いの生駒断層帯を震源地として起こり、「圧死せる者多し」という有様になりました。朝廷では畿内のみならず、勅使を七道諸国に派遣して、被害状況を調べさせました。

 調査の結果、聖武天皇は、民衆に「朕がまつりごとの至らざるところが汝ら百姓に及んだのやも知れぬ」と語りかけ、備蓄されていた官稲の無償貸し付け、民間での高利の貸し付けや無理な取り立ての禁止、など、きめ細かい対処を行いました。

■3.多くの人を罪に追いやった「責めは予一人に在り」

 飢饉や災害は人心を荒廃させ、食料を奪うなどの犯罪が激増して、各地の牢屋がいっぱいになってしまいました。そこで、この7月に出されたのが、犯罪者に大赦を与える詔です。

 朕が民を治めるようになってから十年を経たが、自分の徳化が行き届かず、罪を犯す者が牢獄にあふれている。万民が幸福に暮らせるよう寝ても覚めても心遣いをしているが、このところ天災で穀物が不作であるとか、地震がしばしば起こるのは、朕の政治が不明なためで、多くの民を罪に落とすことになった。

 しかしながら、その責任は自分一人にあり、諸々の庶民の与(あずか)るところではない。そこで寛大な政治を行い、人々の生を全うさせたい。よって犯した罪を赦し、自力で更生の道を歩むことを許す。天下に大赦す。[森本、p181]

 この「責任は自分一人にあり」の原文が「責めは予一人に在り」で、「多くの民を罪に落とすことになった」のは、「朕の政治が不明なため」であって、責めを負うべきは犯罪者たちではなく、自分一人だというのです。

 この引用の冒頭の「朕が民を治める」の原文は、「朕(われ)黎元(おほみたから)を撫育(ぶいく)すること」です。「黎元」の「黎(れい)」は黒色、「元」は首の意味で、あわせて漢語では「冠をつけない黒髪の者」、すなわち庶民を意味しますが、わが国の『日本書紀』やこの『続日本紀』では「おほみたから」と訓じて、民は「大御宝」であるという思想を込めています。「撫育」とは、「撫」は撫(な)でる、「育」は育てる、ですから、赤子を撫で育てるように、愛し養うことを意味します。すなわち、民衆を「大御宝」として大切に養うことが天皇の責務なのに、それができずに、民が犯罪を起こさねば生きていけない所まで追い詰めてしまった、その責めは自分一人が負うべき、という凄まじい覚悟なのです。

■4.仏法を頼みとする

 ここでも聖武天皇は「責めは予一人に在り」と言っても、言いっぱなしにはせず、自分の政治に何が足りないのか、多忙な政務の間にも模索を続けました。その結果、中国の儒教などの政治思想よりも、仏教の方が民を治める上では優れているのではないか、と思い至り、一切経、すなわちすべての仏教経典を書写させ、その巻尾にみずからの願文を記させました。そこにはこうあります。

 これまで朕は忙しい政務の合間を縫って、多くの書籍を披覧してきた。〔それは為政者として〕みずからが健康な身体を保ち、それでもって民の生活を安定させ、民の生業を成り立たせる、〔そのような政治の指針は何かと模索するためであったが、〕それには経史(伊勢注: 中国の儒教や歴史書)よりも釈教(伊勢注: 釈迦の教え)がもっとも優れている。

 そこで仏法を頼みとし、かつ一乗(伊勢注: 一つの乗り物、大乗仏教)に帰依するうえから、敬って一切経を書写し、巻軸となすことすでに終えた。これを読む者は至誠の心を、上は国家のために、下は一般庶民にまで及ぼして、永遠かつ大いなる幸福のもたらされることを祈るように。・・・[森本、p184]

■5.「だが予はその思いを具体的に民に伝える手段を講じてこなかった」

 しかし、時代は聖武天皇にさらなる苦難をもたらします。天平7(735)年4,5月頃から、朝鮮半島から伝来した天然痘の流行です。翌々年の天平9年には、第二次流行がありました。

 この間にも、聖武天皇は民を救うための施策に追われました。天平8年には最南端の薩摩国でも、身寄りのない年寄りや寡婦、孤児などに食料供給が行われたという記録が残っています。 天然痘が猛威をふるった天平9(737)年の暮れに、聖武天皇はこう記しています。

 すでに天平四年夏の早魃以来、飢饉、大地震、天然痘と六年連続して天災が襲ってきた。災異を予の治政に対する天帝の譴責と受け止め、飢餓に苦しみ疾病に苦しむ民を救うべく、恩勅を下し、米穀・湯薬の施与、出挙(伊勢注: 稲の種籾の貸出し)の利息・田租(伊勢注:田地に課せられた税)等の免除など、あらゆる手段を講じてきた。責めは予一人にありと罪人にすら君主としての徳を施したつもりである。 

 だが果たして、それで民を救い得ていたであろうか。かねて予は治政の範を得ようと、さまざまな典籍をひもとき、その結果、民を治めるには唐上の教えより仏法のほうがすぐれていると確信した。そのことは天平六年一切経書写にさいし、巻末の願文に記させた。だが予はその思いを具体的に民に伝える手段を講じてこなかった。[森本、p199]

 いくら仏法が優れていても、それを民の一人ひとりに伝えて、互いへの思いやりを持ち、それぞれが国家共同体のために尽くすようにならなければ、幸福な国家は作れない、と考えたのです。

 すると、まるで「天帝」がこの決心を嘉(よみ)したかのように、このあと天然痘は急速に沈静化し、天平4年以来、6年に及ぶ苦難の時代はここで終わりを迎えたのです。

■6.国分寺・国分尼寺による国民教化

 仏法を「具体的に民に伝える手段」として考えられたのが、60余カ国のそれぞれに国分寺、国分尼寺を建てる事だったようです。そこで民は、月の六斎日、すなわち8、14、15、23、29、30日には心身を清浄に保ち、肉食をせず、精進することになりました。

 また、これらの日には国分寺、国分尼寺に来て、僧侶の説法を聞き、また「殺さない、盗まない、嘘をつかない」などの戒律を守ることを勧められました。

 唯物的な考えでは、仏教なぞ飢餓や災害、伝染病に襲われた人々の役に立つはずがない、と思うでしょうが、たとえば東日本大震災での東北の人々の助け合いの様を思い返してみましょう。

 他国なら食料の奪い合いをして犯罪が跋扈するような状況でも、互いへの思いやりに満ちた社会では、人々は力を合わせ、助け合い、それによってはるかに多くの生命が救われます。聖武天皇が目指したのは、そういう社会だったと考えられます。「大御宝」とは単に天皇から大切にされる民衆というだけではなく、一人ひとりが思いやりをもって、国全体を主体的に支える存在を言うのでしょう。

 国分寺には僧20人を置くことが定められましたが、60余カ国では1200人以上の僧が必要となります。これらの大勢の僧侶を育てる役割を担ったのが、首都の国分寺、すなわち後の東大寺でした。

 当時は仏教が貴族の専有物から、行基などの布教により一般民衆にまで浸透しつつあり、僧を目指す男女も多く現れました。これら志ある人々も国分寺・国分尼寺で活躍できるようになったのです。

■7.大仏造立への驚くべき多数の人々の参加

 天平15年に発出された大仏造立発願の詔では、次のような一節がありました。

 もし一枝の草、一把の土という、わずかなものであっても、すすんで造像事業に参加しようとする者があれば みな許そう。国司・郡司の役人たちは、この事業を理由として民の財産を侵害したり、租税を収奪したりしてはならない。[森本、p274]

 ここにも、民衆一人ひとりの主体的な志を大切にする聖武天皇の願いが見てとれます。そして、この言葉もまた、口先だけの綺麗事では終わりませんでした。東大寺の記録によると、驚くべき多数の人々が大仏、および東大寺の建立に参加しました。

 造寺に貢献した人々は、まず材木等寄進者が5万1590人、労働奉仕者が166万5071人、金銭寄進者が37万3075人、公的な使役で参加した役夫が51万4902人となり、集計すると260万3638人という、まさに膨大な数にのぼる。延べ人数であろうが、260万人は当時の日本の人口からすると、およそ半分にあたるとも言われている。[森本、p350]

 寄進者、奉仕者とは、自らの志から大仏と東大寺の建立に協力した人々です。「公的な使役で参加した役夫」とは、税として年に10日の労働を賦課されていましたが、賃金・食料として、一日あたり8合の玄米と、さらに塩・味噌・海藻・漬物・野菜・木の実などがおかずとして出されました。[長部、678]

 冒頭で紹介した「二百万人もの人民を酷使してつくった大仏」などという非難は、史実も調べないで為政者を悪玉視するマルクス主義流の非学問的決めつけでしかありません。大仏の実現には、これだけ多くの志ある国民が主体的に参加していたのです。

■8.聖徳太子の「和」の祈りを具現化した聖武天皇の大仏建立

 この光景から思い起こされるのは、聖徳太子十七条憲法第一条の「和をもって貴しとなす」という言葉です。これは単に「仲良くすることが大切だ」という事ではなく、第一条はこう結ばれています。

上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。[宇治谷、p92]

 互いに「和」の心を持って、知恵を集め力を合わせれば、「どんなことでも成就するだろう」という驚くべき確信です。この聖徳太子の確信を、実際の政治において具現化したのが、聖武天皇の大仏建立だったと思えるのです。大仏は、主体的に国を支えようという志を持った無数の「大御宝」たちの和合の底力によって築かれました。まことに、わが国柄の象徴と言うべきでしょう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 

・宇治谷孟『日本書紀(下)全現代語訳』★★、講談社学術文庫、S63

・長部 日出雄『仏教と資本主義』★★、新潮新書(Kindle版)、H16

・森本公誠『聖武天皇責めはわれ一人にあり』★★、講談社、H22

・中西進『聖武天皇 巨大な夢を生きる』★★、PHP新書、H23

■おたより 

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