JOG(1275) 日本赤十字の創設者・佐野常民 ~「右手で文明開化、左手で博愛」
前半生は文明開化、後半生は博愛で、幕末・明治の日本を牽引した佐野常民の生き様。
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■1.「なに、官軍だけではなく、賊軍も救うというのか」
佐野常民(つねたみ)が「博愛社」(後の日本赤十字)の設立を「いまこそ」と決心したのは、明治10(1877)年3月のことでした。おりしも西南の役が勃発して、多くの兵が負傷しました。大坂の鎮台病院にも、戦地熊本から移送されてきた負傷者千五百名あまりが、治療を受けていました。
その負傷者たちを、関西地方ご視察中の明治天皇がお見舞いになったのです。24歳の青年天皇は、血のりの匂いと薬品の匂いとが入り交じったベッドの間をおまわりになり、一人一人にお言葉をかけられました。皇太后と皇后も、お手製の包帯を負傷者に賜りました。この報道に全国民が感動した際に、この機を逃してはならないと、常民は決心したのです。
常民は4月6日、「博愛社」設立の嘆願書を政府に差し出しました。「博愛」には、欧米の赤十字と同様、戦地で敵味方の区別なく救護するという精神を込めていました。ところが、「これは、いかん。賊兵まで救うとは何ごとだ。政府の命令に背いた賊兵を救うなどと……、それは、政府の命令に背くのと同じことだ」と担当官から怒鳴られてしまいました。
■2.「官軍に敵対したといっても皇国人民」
しかし、そこは、思い立ったら、貫徹するまで決して諦めない常民です。後に博愛社社員が一向に増えないで困っている時も、周囲を勧誘して廻り、「私は佐野君の7度目の訪問で、とうとう音(ね)をあげてしまったよ」という人まで出たほどです。
常民は思い切った秘策を練りました。熊本で征討軍総督として采配を振るっている有栖川宮(ありすがわのみや)に直接、請願書を差し出すというのです。まず現地司令官の山縣有朋に趣旨を説明すると、「戦場の傷(いた)ましさは、第一線にいる私たちがいちばんよく知っています」と即座に賛成して、山縣からも有栖川宮に直接直訴することを勧められました。
有栖川宮は、山縣の説明を聞き、常民の嘆願書をゆっくりと読み始めました。
総督宮は、ゆっくりと、力強く、答えられました。
この後、半年にわたる戦時救護に従事した博愛社の救護員は延べ199人、救護した患者の総計は1429名という大きな成果を上げました。[吉川、p98]
有栖川宮の賛同を得た明治10(1877)年5月1日が、日本赤十字社の創立記念日とされています。
■3.博愛社を後押しされた皇室の伝統精神
常民は明治天皇の鎮台病院お見舞いの機を生かし、敵兵も看護するという原則への反対を有栖川宮の一声で乗り切ったのですが、その後も博愛社への皇室の後押しは続きます。
8月1日には政府からの正式な認可がおりますが、博愛社の総長として東伏見宮が推戴され、7日には博愛社の結社を「奇特之儀(感心な行い)」とされた皇室の思し召しにより、宮内省から千円が下賜されました。[吉川、p105]
博愛社は明治16(1883)年以降は、皇室から毎年3百円の御手元金を下賜されて基本的な活動資金としました。明治20(1887)年、両陛下は博愛社を皇室の保護のもとに運営されるご意思を示され、万国赤十字社本部に加入して、名称を「日本赤十字社」と改めることが決まりました。
以後も両陛下から毎年下賜金が続き、また明治23(1890)年には病院建設用地として東京府内の1万5千坪が下賜されました。現在の日本赤十字社医療センターです。また、皇后陛下が名誉総裁、皇族妃殿下各位が名誉副総裁という体制は今も続いています。
赤十字の歴史で、大きな転機となったのは、明治天皇のお后である昭憲皇后が、1912(明治45)年の国際赤十字会議に日本政府代表を通じて、戦時の負傷兵救護から平時の災害救護にまで活動を広げる提案をされ、そのための多額の寄付を寄せられた事でした。
この提案に各国代表は深い感銘を受け、基金は「昭憲皇太后基金」と命名され、その後も皇室や明治神宮の寄付により、世界各国の救護活動に使われています。[JOG(988)]
常民が博愛社の設立と運営において皇室の後押しを十二分に受けたのは、欧州の王室の例に学んだだけではありません。国民の安寧を祈ることが、皇室のそもそもの伝統的役割だからです。皇室の「仁愛」は、欧州王室の「博愛」よりもはるかに長い歴史伝統をもっていました。
神武天皇の建国の詔(みことのり)で民を「大御宝(おおみたから)」と呼ばれ、その安寧を祈られたこと[JOG(1250)]を始めとして、聖徳太子以来の施薬院(せやくいん)で民に薬を供給してきました。
明治天皇も践祚後わずか2年半の明治2年8月に「窮民救恤(きゅうじつ)の詔」を発せられ、維新の戦乱で家を焼かれ、生業を失い、またその年の冷夏による不作で困窮する国民を助けられることを宣言されました。宮廷費7万5千石から1万2千石を節約して、その救恤にあてられたのでした。
賊軍兵士であっても「皇国の人民であり、皇室の赤子」という常民の指摘は、皇室の伝統的精神に則ったものでした。有栖川宮が皇族として、即座に賛同されたのは、こういう背景があったからです。
■4.「右手で文明開化、左手で博愛」
常民が「博愛」を教えられたのが、1867(慶応3)年に開かれたパリ万博に赴いた時でした。同行した佐賀の商人・野中湖水は身体が弱く、病気がちでした。その湖水が急病で倒れたとの知らせを受けて、ホテルに駆けつけると、湖水はフランス人医師と看護婦の懇切な看護を受けていましたが、急性肺炎ですでに虫の息でした。
湖水の脈をとっていた看護婦が、そっと身を引き、青い目で常民を見た後、静かに十字を切りました。常民は息を引きとった湖水の手をずいぶん、長い間、握りしめていました。
はるか異国の地で亡くなった同胞の亡骸(なきがら)をどうすればいいのだろう、と常民は途方に暮れていましたが、フランス領事コルトらの思いやりのある、てきぱきとした計らいで、郊外の岡に葬ることになりました。湖水の棺は黒塗りの馬車で運ばれ、たくさんの花束とともに埋葬されました。
帰りの馬車の中で、常民がコルトに「身なりも、習わしもちがう私たちに、こうまでしていただいて、本当にどうお礼をいってよろしいものか」と語ると、コルトはこう答えました。
■5.幕末の西洋科学技術導入の牽引者
「右手で文明開化、左手で博愛」とは、まさに常民の前半生と後半生を語った言葉でもあります。
20代には緒方洪庵の適塾などで西洋の科学技術を学んだ後、カラクリ(現代で言えばロボット)技術の田中久重・儀右衛門親子など4人の専門家を連れて、嘉永4(1851)年に佐賀藩に戻りました。佐賀藩主の鍋島直正は西洋の侵略に対抗できるよう、科学技術の研究開発には費用の出し惜しみなどしません。
直正は「これら4人を使って、科学の研究を命がけでやってみろ!」と常民に命じ、精煉方(せいれんかた)という研究開発部署を作って、常民を主任としました。ここから、佐賀藩のめざましい技術開発が始まります。
常民は、産業革命の中核技術である蒸気機関の開発を目指します。蒸気機関さえあれば、蒸気船も蒸気機関車もできるからです。何度も失敗を重ねた後、わずか4年後の安政2(1855)年には日本で初めての蒸気機関車の製作に成功します。
幕府が長崎に海軍伝習所を開設すると、常民は48名を引き連れて参加します。海軍伝習所の開設時の伝習生は70名でしたので、佐賀藩が7割近くを占めていたことになります。オランダから贈呈された木造蒸気船「観光丸」の艦長には常民が就任し、また蒸気機関の修理ができたのは、佐賀藩士のみでした。
長崎の伝習所は安政6(1859)年に閉鎖されますが、その役割を引き継ぐべく、前年に佐賀藩独自の蒸気船の修理・造船・教育訓練施設「三重津海軍所」が設立されます。ここで慶応元(1865)年に日本最初の実用的な蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」が建造されました。常民、44歳の時です。
常民は、この他にも、反射炉の建設、最新式のアームストロング砲の鋳造、電信機の製作なども行いました。常民は幕末日本で西洋科学技術の吸収を牽引した人物でした。
■6.「一人ひとりがかけがえのない一人」
前半生で「右手で文明開化」を追求した後、56歳で博愛社を設立してからは「左手で博愛」を目指します。
西南の役が収まると、「博愛社は一度解散して、必要なときに、また集まればよかろう」という声が出ました。そういう声に、常民はこう答えました。
確かに戦争は明治27(1894)の日清戦争まで16年間起きませんでしたが、その間、天災が相次ぎました。たとえば明治21年の福島県磐梯山の大噴火、明治24年の愛知県、岐阜県にまたがる濃尾大地震など。濃尾大地震では22万戸ほどが全半壊、死者7千人超、負傷者1万7千人という大きな被害が出ました。
濃尾大地震の報を受けた常民は、現地で直接指揮をとりました。現地には病院もなく、医者もいないために負傷者の手当もできない村々が多く、またほとんどの家が潰れてしまって、救護をする場所もありません。そこで常民は、11カ所の天幕病院を建て、さらに愛知県に19カ所、岐阜県に13カ所の急ごしらえの仮小屋を建て、日頃育成していた救護員を配置して、救護所としました。
それらの小屋に赤十字の旗を掲げます。
と村民たちに伝えました。
明治19(1886)年に日本は赤十字条約(ジュネーヴ条約)に加盟し、翌年、日本赤十字社と改称していたので、赤十字の旗が使えたのです。初代社長はもちろん常民でした。
こうした救護活動が一区切りついた際に、常民は随行していた事務員に救護結果の集計を求めました。事務員は「救護した患者は、総数10,194人にもおよびました。そのうち死亡は、わずかに11人でございます」と答えました。この答えを常民は静かにたしなめます。
■7.「文明開化」は「博愛」実現のための手段
明治10年、56歳にして博愛社を設立してから、明治35年81歳でなくなるまで、常民は25年も「左手で博愛」の活動を続けました。当初数十人しかいなかった社員も、明治35年末には85万人もの大規模組織に成長しました。これも皇室の保護のもと、常民以下のたゆまぬ努力の結果でしょう。
規模の拡大だけではありません。外国人救護の能力もつけて、トルコ軍艦エルトゥールル号の沈没では、救助された69名の救護で全員を回復させ、後に社員3名がトルコ皇帝から勲章を受けています。
また、コレラ等の流行を予防するために、日本で最初の民間衛生推進団体として組織された「大日本市立衛生会」の初代会頭に常民は就きました。
特筆すべきは病院船2隻の建造でしょう。明治33(1900)年の北清事変では、両船で合計14回、合計2850名の傷病兵を国内の病院に運んでいます。そのなかには100名以上のフランス兵もいました。この病院船の構想立案には、常民の若き日の「右手で文明開化」の経験が役立っていたことでしょう。
「右手で文明開化、左手で博愛」が常民の一生でしたが、文明開花と博愛とは横に並びたつものではありません。博愛が目的で、文明開化はその手段なのです。そして、我が国においては、皇室の「大御宝」の安寧を祈る伝統精神が「博愛」への原動力であり、それが皇室のご加護をもたらし、常民を後押しし、さらに多くの国民の力を結集したと言えるでしょう。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
・歴史人物学習館「佐野常民」(小中高校生におすすめの動画、ホームページ、歴史資料館を紹介しています)
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・片岡 繁男『人間の生命(いのち)につかえて 日本赤十字の父 佐野常民』★★★、佐賀新聞社、R01
・國 雄行『佐野常民(佐賀偉人伝)』★★★、 佐賀県立佐賀城本丸歴史館、H25
・吉川 龍子『日赤の創始者 佐野常民』★★、吉川弘文館、H13
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