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JOG(695) サイパン島の七生報国 ~ 大場栄・陸軍大尉の戦い(上)

サイパン島陥落後、1年半も戦い続けた男たちがいた。


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■1.37年ぶりに戻ってきた軍刀

 元合衆国海兵隊中佐ハーマン・H・ルイスが、部屋に入ってきて、言った。「大場大尉、またお目にかかれて幸せです」

 昭和57(1982)年、もう終戦から37年も経っているのに、自分のことをいまだに「大場大尉」と呼ぶその男に、大場は「過去をかき乱されたくない」とやや警戒していた。

「あなたに持ってきたものがあります」と言って、ルイスは玄関に戻って、細長い箱を持って戻り、いかにも大事なもののように大場の前のテーブルの上に置いた。

 大場は何も言わなかったが、目頭が潤むのを感じた。彼には、中を見なくても、箱の中のものがわかった。大場はルイスに頭を下げ、うやうやしく箱の蓋をとった。「あなたの軍刀ね」と、妻のみね子が溢れる涙を抑えられずに、あえぐような声で言った。

「心から感謝します。ルイス中佐、ありがとう」 37年ぶりに目の前に現れた軍刀は、大場大尉のルイスに対する警戒を破った。

 37年前の昭和20(1945)年12月1日、午前9時。サイパン島陥落後1年半もの間、タッポーチョ山に籠もって不撓不屈の戦いを続けてきた大場大尉率いる47名の兵士は、上官から正式な降伏命令を受け、米軍に投降したのだった。

 そして、その時に大場大尉がルイス中佐に降伏の印として差し出したのが、この軍刀であった。ルイスは20年前にこの軍刀をカンザス州の在郷軍人会に寄贈していたのだが、その行方をたどり、ニューイングランド州のある少年の寝室の壁に掛けられているのを見つけて、ようやく取り戻したのだった。

■2.大場の戦いを讃えるパーティー

「もう一つ、あなたに見せたいものがあります」と言って、ルイスは上着のポケットから封筒の束を取り出して、テーブルの上に置いた。

「6ヶ月前、あなたに会ってから、私は、今も私に住所がわかっている海兵隊時代の友だち全員に手紙を書きました。これがその返事です」と言って、ルイスはそのいくつかを読み上げた。

 それを聞きながら、大場は、その日を思い出していた。[1,p20]

 あの日の朝の9時には、いや正確には、8時59分には、私は、私の前で手紙を読んでいるこの男の敵だった。その1分後、私は戦争・・・私の戦争を止めたのだ。あの日、その後起こったことは信じられないようなことだった。アメリカ軍は、私を殺さなかった。

 投獄しようとさえしなかった。代わりに、何百人もの若い兵隊たちが私たちを見に押しかけ、私と握手しようとする将校たちが何人か出てきた。

 その夜、大場の戦いを讃えるパーティーが開かれ、大場は司令官や大勢の将校たちと握手をし、乾杯をした。大場は自分が帝国軍人にふさわしくないほど、愛想よく返杯し、笑っていることに気がついた。ついその朝まで、これらの人々は敵だったのに。すべてが奇妙な夢のような感じだった。

 手紙の一つにはこう書かれていた。「・・・そして、もし、彼が合衆国に来ることがあれば、彼はいつでもわれわれのところに泊まる招待を受けているのだ、ということを彼に伝えてもらいたい」

 この手紙の差出人は、ジム・ジョーンズで、パーティーでは感激のあまり酒を飲めなかった男だ、とルイスは紹介した。

「あなたが国のためにしたことを高く評価しているアメリカ人のグループがいるのです」とルイスは付け足した。

■3.「部下たちの命が失われていくのに、自分は何もできない」

 その1年半前、昭和19(1944)年7月3日、大場栄大尉はサイパン島の北部ジャングルにいた。大場の属する歩兵第18連隊は満洲からグアム島への移動を命ぜられ、3月に輸送船で釜山を出港したところ、米潜水艦の攻撃で撃沈され、3900名のうち2200名が海底に消えていた。 氷のように冷たい海で18時間も漂い、なんとか1700名が護衛艦艇に救助された。大場大尉を含む、そのうちの一部がグアムではなく、サイパンに送られてきたのだった。

 アメリカ軍は6月11日から空襲を始め、15日から上陸開始、日本軍は水際撃退作戦をとったが、そのために見通しのよい海岸線の陣地が艦砲射撃や空襲の犠牲となった。6月下旬には、日本軍は島中央の山岳地帯にあるタッポーチョ山に籠もり、抵抗を続けていた。

 彼は満洲や支那ですぐれた兵士であることを証明していた。しかし、このサイパン島では、敵から逃げたり、隠れたりする以外、何もしていないのだ。敵を攻撃するどころか、敵の姿さえ見ていない。それなのに敵の飛行機や重迫撃砲の攻撃を受けて、自分の部下の半数以上が戦死していた。

 司令部からの命令で、3日後の総攻撃に備え、一人で歩けるものは攻撃地点のマタンサに集結し、歩けないものは「それぞれが選ぶ方法で、自らの命を断つのを援助される」と部下に伝えた。

 命令を終えると、大場は渓谷に通じる小道を歩き、部下たちから見えないところまで来ると、地面に身を投げ出して、すすり泣いた。自分が責任を持っている部下たちの命が失われていくのに、自分は何もできない。私は天皇陛下を裏切り、部下の家族たちを裏切っているのではないか。

 手榴弾が炸裂する音が小さな谷間にこだました。歩けなくなった部下が自決している。彼の命令によってだ。

 彼は、拳銃を取り出して、自分のこめかみに当てようとした。自らの命を断つ事が、最も名誉ある行動だ。死ねる。死んでも不名誉ではない。もはや迷いはなくなっていた。

■4.「斃れる前に一人でも多くの敵を斃すことが義務だ」

 しかし、その途端、心の奥の方から、死ぬまで戦うほうがより価値があるのではないか、という声が聞こえてきた。3日後に予定されている総攻撃で、優れた働きをし、誇りある死に方ができるかもしれない。

 そう気づくと、この数週間、心の中を覆っていた霧が晴れていくように感じた。どこでどのように死ねばはっきり分かり、それが名誉あるものであると自覚できた。大場は再び、立ち上がった。

 しかし、マタンサに着くと、司令官・斎藤中将は「ここで生命を捨てることが悠久の大義に生きる道」だと率先自決していた。集まっていた将兵たちも、玉砕する覚悟だった。大場はそこに狂信に近いものを感じて、彼らにこう説かずにはいられなかった。[1,p109]

 おれたちは戦争をしているんだろう。戦争をしている以上、勝たなければならない。個々の戦闘に敗れることがあっても、最後の勝利を目指すことを忘れてはならないはずだ。

 とすれば、われわれは斃(たお)れるとしても、斃れる前に一人でも多くの敵を斃すことが義務だ。それが、天皇陛下の御為に尽くすということではないだろうか?

 われわれが死ぬことは、それだけ皇軍の戦力が弱まることなのだ。もし、皇軍の全将兵が斎藤閣下の例にしたがったら、どうなる? もはや戦争は終わりだ。そして、われわれは、天皇陛下や国を、またわれわれの家族を裏切ることになるんじゃないか?

■5.望みを失った者の無気力さ

 大場は部下を率いて、総攻撃の先陣として敵陣深く突っ込んでいった。まもなくアメリカ兵の一群と遭遇し、肉弾戦を展開した。「突撃!」と大場は叫びながら軍刀を抜いて、米兵の集団に向かっていくと、敵はあまりにも近くに日本兵を見てびっくりしていた。

 軍刀で敵兵の一人を斬り倒すと、別の敵兵の弾丸が大場の頬をかすめた。彼は軍刀を左手に持ち替えると、拳銃を抜いて、その弾丸が来た方向を撃った。撃たれたアメリカ兵がよろよろと立ち上がりながら、もう一度撃とうとした時、大場はそのアメリカ兵に向かって突進し、その手から小銃を蹴り落として、相手に2発を撃ち込んだ。

 こうした戦いを続けながら、前進していくうちに、いつしか交戦の音がはるか後ろに聞こえるようになり、大場は自分たちが完全に敵陣の背後に出てしまっていることを覚った。生き残って彼についている部下は22人に減っていた。

 大場らの一隊はさらに敵陣深く進んでいき、サイパン島の中央部コーヒー山のふもとに辿り着いた。そこには300名近い日本兵と民間人がいた。兵たちはいろいろな部隊の生き残りで、統率者もいなかった。望みを失った者の無気力さが漂っていた。

 彼らの中の軍人たちにさえ、日本の兵士としての不屈さや誇りは、片鱗も見えなかった。何が起こったのか? 武士道の精神は、勝利のときにだけ存在するものなのか? 尽忠の精神も一回の敗北でなくなってしまうものなのか。[1,p156]

■6.敵の銃声が近づいてきた

 その日の午後、彼らのはるか下の方で銃声が聞こえた。民間人や兵士たちは、心配そうな眼差しを交わして、わずかな身の回り品を荷造りしはじめた。

 小銃の銃声に混じって、自動火器の短い連射音が聞こえた。敵が谷を登って来ていることが明らかになった。民間人たちは、反対の方角へ逃げはじめた。敗残の兵士たちも、民間人と同様に逃げ出した。

 大場は彼らに模範を示してやろうという気持ちで、部下たちを二列縦隊に編成し、谷の上流に向かって、整然と移動を開始した。

 巨木の林から100メートルほど出て、緩やかな傾斜の草地へ出た所に、塹壕ひとつとタコツボ壕がいくつかあった。この前の攻防戦のとき掘られたものだろう。迎撃にはお誂え向きの場所だった。大場は部下の半数をタコツボ壕に、残りの半数を塹壕に配置した。

 敵の銃声が近づいてきた。今までいた陣地のあたりで、逃げ遅れた兵士がいたようだ。大場は部下の方を向いて言った。

 いいか。頭を岩から出すな。射撃は、敵が20メートル以内に近づくのを待って開始する。擲弾筒(てきだんとう)の射撃開始も、おれが合図する。

 全員、顔を引き締めて頷いた。それまでの打ちのめされた表情はすっかり消え、彼らは再び兵士の顔に戻っていた。彼らに欠けていたのは、統率と敵に遭う機会だったのだ。

■7.最初の勝利

 それからしばらくして最初のアメリカ兵が、林から現れた。小銃を腰に構え、25メートルの谷幅いっぱいに横に一列に広がって、ゆっくり上ってくる。同じ隊列で、後から後から続いて現れる。150名はいるだろう。

 やがてアメリカ兵によって、斜面の下半分は埋め尽くされた。前方20メートルの所にあった小さな繁みに、先頭のアメリカ兵が達した途端、一斉射撃が始まった。

 大場は、岩の陰から躍り出ては、素早く目標を見つけて、拳銃を撃った。部下の一人は「この野郎!」と、歯を食いしばって、機関銃の引き金を引き続けた。

 最初の5秒で、10人以上の敵兵が倒れた。何人かの敵は、応戦しようと地面に伏せたが、そのほかのものは、雪崩のように林に向かって逃げ始めた。

 投擲筒から発射された榴弾が、弧を描いて、逃げていく敵の真ん中で次々に炸裂した。応戦しようとしていたアメリカ兵も、間断のない大場隊の攻撃にさらされ、ジグザグに逃走し始めた。

「撃ち方、やめ」と大場は叫んだ。そして、敵の残した兵器と弾薬を全部集めさせ、すぐに別の場所へ移る準備をさせた。

■8.「本格的な戦闘を再開したことになる」

 大場隊が戦闘場所から500メートルも離れないうちに、敵からの迫撃砲による一斉射撃の轟音が谷じゅうに反響した。敵は彼らがまだ待ち伏せしていた場所にいるものと思って、砲撃を加えていた。

 これで大場は二度、敵を出し抜いたことになる。しかし、これで本格的な戦闘を再開したことになる、と大場は覚悟した。彼らはアメリカ軍に挑戦したのだ。もはや敵に知られずに、安全な所に隠れていることはできなくなった。

 これから、アメリカ軍が、日本軍の最後の抵抗を根絶するまで、あるいは連合艦隊がサイパン島を奪回しに来るときまで、自分も部下も生き続けてみせる、それが自分の義務だと、改めて決心した。

 翌日、散らばっていた敗残の日本兵や民間人が大場のもとに集まってきた。部下の一人が説明した。

 彼らは、隊長が昨日米軍に勝ったのを聞いて、隊長の指揮の下に入れてもらいたがっているのです。民間人たちは、隊長に保護してもらえないか、と言っております。

 こうして、兵隊は150名近く、民間人は200人近くが大場のもとに集まった。大場大尉の戦いが始まった。

(文責:伊勢雅臣)

次号に続きます。

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. ドン・ジョーンズ『タッポーチョ 太平洋の奇跡 「敵ながら天晴」玉砕の島サイパンで本当にあった感動の物語』★★★、(祥伝社黄金文庫、H23

■「サイパン島の七生報国 ~ 陸軍大尉・大場栄(上)」に寄せられたおたより

■直美さんより

 初めのルイス中佐が大場さんに軍刀を渡す部分を読んだだけで、「人間は捨てたもんじゃない」と、本当に人間と人間として、純粋に人間の本質を認め合い、尊敬の念を持った関係が築かれていることに、心が暖かくなる思いがします。

 今の世の中では、いろんなこと信じがたいことも起こり、一番の信頼関係で結ばれているはずの家族にさえ裏切られ耐え難い苦痛を与えられることさえあります。人間を信じがたくさえ思えるような事件も沢山ありますし、リビアなどの戦争がいつまでも続いています。

 ですがやはり人間は、互いに信じあえるところにその価値があるのだと思います。今回の東日本大震災においても、日本人はこれほどのむごいと言えるほどの被災をしても、被災地の人たちは暴動も略奪もしないで、ひたすら耐えしのいで日々を過ごしている、その現状に対して世界の人々、組織からも暖かい協力、支援があるのは、まさに人間の信頼に基づくもとだと思います。

 時として人間不信になるような事件、事柄があまりに多い現状はありますが、やはり人間は互いに信頼できることを誇りに思いたいです。

■編集長・伊勢雅臣より

 互いに信じ合える前提として、互いを尊敬しあっているという点があると思います。


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