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JOG(696) サイパン島の七生報国 ~ 陸軍大尉・大場栄(下)

サイパン島陥落後の1年半を戦い続けた大場大尉の一隊に、米軍は敬意を払った。

(前号より続きます)


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■1.「おれは戦う。そして生き続けてみせるのだ」

 サイパン島中央部のタコ山で、兵士150人、民間人200人ほどの生活が始まった。近くの洞窟には米軍侵攻前に日本軍が隠していた大量の糧食があったので、当分は生活できそうだった。

 タコ山の山頂からは、米軍の基地が見渡せた。カマボコ型の建物がずらりと並び、これだけの建物に兵隊がいるとすれば、敵の数は2万以上になる、と大場大尉は計算した。

 大場は立ち上がって、眼下に広がる敵の陣営を見渡した。そして決心した。「おれは戦う。そして生き続けてみせるのだ。部下たちも生き残らせる。同時に、助けを求めてきたあの民間人たちもだ。」

 大場は運命が自分にこの役割を与えているのだと思った。その役割を果たしきれるかどうかはわからない。しかし、彼は、戦いを続け、米軍に、彼らがまだサイパンを占領してはいないことを思い知らせてやる、と覚悟を決めた。

 武器としては軽機関銃1丁、擲弾筒2筒、小銃40丁、そして米軍から奪った半自動小銃15丁、拳銃15丁があった。これだけあれば、米軍が襲ってきても、一挙に壊滅されるようなことにはならないぞ、と自信を持った。

■2.全面戦争の再開

 それから4ヶ月は、平穏な日々が続いた。米兵の見回りが時々あったが、お座なりなもので、大場大尉らの野営地は見つからずに済んでいた。

 その静けさが突如、破られたのは11月だった。米兵の一隊が日本刀などの戦利品探しに、いつもより奥地にまで踏み込んだところ、タポーチョ山に設けられていた野営地の一つを見つけ、突如、銃撃してきたのだった。大場らも応戦して、撃退した。

 そして、翌日、30名ほどの小隊が、再び、攻撃してきた。これを予知していた大場大尉は全員を周囲に隠れさせ、米兵たちを待ち伏せしていたのだ。待ち伏せ攻撃にあった米兵たちは、命からがら逃げ帰った。

 米軍にその戦力を示したことで、大場の一隊は四六時中、敵の探索の目標となる。全面戦争が再開されたのだ。

 大場は、タッポーチョにいた兵士と民間人を、まだ米軍に発見されていないタコ山の野営地に移動させた。

■3.「おい、あれを見ろ。すごい数のヤンキーだ」

 まだ組織的な抵抗を続けている日本軍の一隊がいる、という事実は、米軍を苛立たせた。すでにサイパン島を占領し、治安が確立したとの本国への報告が間違いだったことになる。

 米軍は残存日本兵の活動区域を、サイパン島中央部のタッポーチョ山を含むジャングル、縦6キロ、幅5キロの地域に絞り込んだ。そして5キロの幅に海兵隊員を1メートル間隔で横に並べ、6キロの帯を隙間なく調べる、という徹底した掃討作戦をとることにした。

 やがて、まるで壁のように一列に並んだ米兵が少しずつ近づいてきた。「おい、あれを見ろ。すごい数のヤンキーだ」と大場は叫んだ。これでは蟻一匹這い出る隙間もない。かつ応戦したら、その途端に、やられてしまう。

 どうすれば良いのか。大場は行動可能半径内のあらゆる地形を考えた。しかし、300人が隠れられる所はなかった。

 その時、大場の脳裏に、掃討する時の米兵の姿が浮かんだ。足場が悪くて視界がきかないジャングルを進む時、彼らは前と下にだけ集中している。上を見ない。

「それだ!」と大場は咄嗟(とっさ)に思った。上に隠れるのだ。その場所はある。タコ山の断崖だ。

■4.「あの野郎は、われわれを出し抜きやがった」

 タコ山は、西側がほとんど絶壁になっていた。高いところは30メートル、低いところで数メートルの断崖が続いていた、その崖のところどころに岩棚が張り出しており、そこは下から伸びたジャングルの木で覆われていて、見えないようになっていた。

 大場はそこに隠れようとした。絶壁の上を歩く米兵は、危ない崖の縁までは近づかない。崖の下を歩く兵士は上を見ない。見つからないという保障はないが、大勢の人間を隠せるところはそこしかなかった。

 大場は民間人を連れて、その絶壁に移動した。岩棚の幅は1メートルほどもあったが、傾斜がついているので、壁に張りついて突起に掴まっているしかない。

 1時間半ほどもそうしていると、米兵の列が現れた。崖の面に直角に並ぶその列は、谷の向こうまで続いていた。崖の上にも来ているに違いない。

 一番近い米兵は、手を伸ばせばヘルメットに手が届くのではないかと思われるほど、すぐ近くを通っていた。もし、米兵の中で一人でも上を見る者がいたら、あるいは、もし岩棚にいる者の中で、声を立てたり咳き込む者があったら、万事休すだ。

 しかし、奇跡的にも誰も声をたてる者はいなかった。米兵も気づかずに通り過ぎていった。やっと米兵が通り過ぎていっても、しばらくは誰も動かなかった。

 掃討作戦が失敗に終わって、米軍の指揮官は悔し紛れにこう言った。「あの野郎は、われわれを出し抜きやがった。指の聞からすり抜けたんだ。われわれは馬鹿扱いされたんだ。」

■5.「大御心にのみ沿い奉る」

 こうして掃討作戦をすり抜けた大場大尉の一隊は、その後も戦いを続けた。米軍基地に忍び込んでは、食糧や医薬品を奪った。しかし昭和20(1945)年9月になると、米兵が山に現れない静かな日々が続いた。大場は「いやな予感がする。 嵐の前の静けさという感じだ」と漏らした。

 やがて米軍の飛行機から大量のビラがばらまかれた。ビラには日本語で「戦争は終わった。日本の指導者たちは、米艦ミズーリ号上で、降伏文書に調印した」とあり、日本軍の全将兵に、天皇の命令に従って、武器を棄てるよう促していた。

「もし戦争が終わったのなら、われわれは日本へ帰ることができる」と大場は考えた。まともな人生を送るという、とうの昔に消えていた望みが蘇ってきた。

 しかし、これは敵の謀略かもしれない。騙されて降伏したのでは、今までの戦いが無駄になる。大場は、米軍に使者を出して、上官からの文書による降伏命令がなければ山を下りない、と伝えた。

 同時に、部下に対しては、いきなり降伏と言われても、すぐには受け入れられないだろうと考えて、全員を集めて、こう話した。

 れわれは、物量豊富なアメリカ軍に屈することなく戦ってきた。われわれは帝国軍人の名誉を守ってきたと信じている。しかし、われわれは、帝国軍人として、大御心にのみ沿い奉るものである。

 もし、伝えられるように、われわれが戦いを止めることが大御心であるならば、われわれはそれに従わなければならない。 しかし、もちろんわれわれは流言にだまされてはならない。

 われわれは、然るべき上官からの正式の命令を受け取らないかぎり、戦いを止めるわけにはいかない。[1,p382]

 それでも降伏を受け入れることを潔しとしない部下たちには、大場はこう説いた。

 もし戦争が終わったとしても、われわれが日本人であることに変わりはない。とすれば、その場合には、国へ帰って新しい日本を建設することに協力するのが、われわれの義務だ。わが国は、これまで以上にわれわれを必要とするはずだ。

 しかし、もし自分が敵の謀略に引っ掛かっていたのなら、ただちに責任をとる、と言明した。その場合は、切腹以外にとる道はない、と大場は覚悟した。

■6.日の丸を先頭に

 米軍は、サイパン島の1100キロ北にある小さな島、パガン島に立て籠もっていた天羽(あもう)少将からの降伏命令書を、大場のもとに届けさせた。

 昭和20(1945)年12月1日朝、大場の隊は、髭を剃り、身なりを整えた。これから米軍に投降するのである。一人の兵士が、2メートルもの長さの日の丸を捧げ持った。大場は感動に胸をつまらせて、日の丸に長い、思いのこもった敬礼をした。

 そして居並ぶ兵士たちにこう語った。

 諸君は見事に戦った。遺憾なく武士道精神を発揮した。しかし、諸君も承知のように、戦いはすでに終わった。このサイパンにおいて、わが軍は玉砕し、ほとんどの戦友が戦死したことを考えると、誠に断腸の思いであるが、天皇陛下の御命令により、ただ今より戦いを終結する。

 諸君は、最後まで戦い続けたことを誇りとし、爾後(じご)は、健康に留意し、一日も早く祖国に帰り、新生日本の建設に邁進(まいしん)せられんことを望む。ここに、天皇陛下の万歳を三唱する。

 全員での万歳三唱が谷間に轟いた。続いて、戦いに斃れた戦友たちの慰霊祭が執り行われ、兵士たちが一斉に発射した弔いの銃声が、2キロ離れた米軍の駐屯地まで響いた。

■7.長い戦いが終わった

 その後、大きな日の丸を先頭に、47人の部隊は高らかに軍歌『歩兵の本領』を歌いながら、米軍駐屯地を目指した。

 弔いの銃声に驚いて、彼らがまだ戦う気なのではないか、と思った米兵たちは、道の横にずらりとならび、大場の一向に銃を向けて迎えた。それを見た大場の一隊は恐れもせずに、一段と歌声を高くした。

 米兵たちは、軍歌を歌いながら行進してくる日本兵を見て、銃を構えたまま、ポカンと立ちすくんでいたが、これでは自分たちの方が礼儀知らずになってしまうと気づいて銃を下ろした。大場は、この瞬間ほど、部下たちの勇気を誇りに思ったことはなかった。

 一隊が広場に着くと、兵士たちは二列に並び、大場の号令一下、銃を地面において、三歩下がり、微動だにせずに直立した。

 大場は、米軍司令官のルイス中佐の前に進み出た。二人は、それぞれの思いに打たれて、しばらく互いに見つめ合っていた。そして大場は軍刀を抜き、羽の切っ先を空に向け、柄を額に当てて、ルイスに敬礼した。

 ルイスは答礼しながら、こみあげてくる感動に胸を詰まらせた。昭和20(1945)年12月1日午前9時、大場隊の1年半、512日にわたる長い戦いが終わった。ルイスは、大場の差し出す軍刀を、両手で受け取った。

■8.誇りの源泉に

 この本の著者ドン・ジョーンズは、戦後生まれの人々に先の大戦について尋ねてみたが、ほとんどの人は何も知らないか、あるいは戦争をした事を恥じていた。そしてその恥は、事実に基づいたものではなく、知識の欠如に基づいたものであった。

 この人たちは、自分たちの父や祖父や伯父たちが、自分たちの国を守るために戦った精神について、何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人たちがしたことになんの尊敬の念も払っていないことです。

 私は、このことをとても残念に思います。日本の兵隊は、よく戦ったのです。彼らは、世界の戦士たちの中でも、最も優れた戦士たちでした。彼らは、自分たちの国のために生命を捨てることを恐れませんでした。私は、そのことを、こういう兵隊たちと三年戦いましたから、よく知っています。[1,p420]

 ジョーンズは、自分の本が刺激となって、さらに多くの誇るべき日本の兵士たちの物語が生まれることを願っている。

 そうなれば、事実によって、現在の知識の真空状態は埋められることになるでしょう。また、先述の恥じる感覚は誇りに変わるでしょう。そして、それは、日本の歴史のこれまで書かれていないページを埋めることになるでしょう。

 そして、それらのページは、今日の若い日本の人たちにとってだけでなく、その子どもや孫にとっても、誇りの源泉になるでしょう。
 それが、私が最も強く持っている願いです。

 大場大尉の一隊の戦いぶりは、まさに楠木正成を思わせる[b]。楠木正成の「七生報国」の志は、長く語り継がれ、それを受け継いだ多くの人々によって、我が国は支えられ、護られてきた。

 大場大尉の物語は、その一章である。それを書き残してくれたドン・ジョーンズ氏に深甚の感謝を捧げる。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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b. 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. ドン・ジョーンズ『タッポーチョ 太平洋の奇跡 「敵ながら天晴」玉砕の島サイパンで本当にあった感動の物語』★★★、(祥伝社黄金文庫、H23

■「サイパン島の七生報国 ~ 陸軍大尉・大場栄(下)」に寄せられたおたより

■ヴェスパさんより

 軍刀をルイス中佐に渡す行で小野田寛郎さんを思い出しました。彼もまた、投降後にフィリピン軍司令官に軍刀を渡しています。投降の意志と、その軍刀で処刑される覚悟もあったのだと思います。これは、自分が日本軍人であることの誇りだと思います。

 今の日本には、そう言う教育が無い事もあって誇りを持たない人が多すぎます。義援金を盗むなど、己に誇りを持つ人間であれば到底あり得ない行為です。

 いい加減「日本は悪」などという下らない教育はやめて、誇りを持てるような教育を行って欲しい物です。

■編集長・伊勢雅臣より

 まずは誇りある先人たちの足跡を学ぶことから始めたいものです。

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