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JOG(671) 西郷従道 ~ 兄・隆盛の遺志を継いだ弟

「南進するロシアから日本を守る」という隆盛の遺志を、従道は生涯をかけて果たしていった。


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■1.「おはんな、東京に残れ」

 世に言う「征韓論争」に敗れた西郷隆盛が陸軍大将、参議などすべての公職を辞して姿を消したのは、明治5(1872)年10月23日のことであった。心配した弟の従道(じゅうどう)が一日中探し回って、ようやく隅田川のほとりの隠れ家に兄を見つけたときは、すでに日は暮れていた。

「兄さぁ、なしてこげんところへ、、、」と、従道は16歳も年上の兄に声をかけた。鹿児島に帰るつもりか、と聞きたかったが、急には言い出せなかった。

 従道は9歳の時に相次いで父母を亡くしてから、この兄が親代わりで育ててくれたのであった。兄はいつも温顔で、きびしいことを言ったことがない。その温顔を崩さずに、兄は言った。[1,p23]

 おいは、日本国のことを考えとった。朝鮮半島は、オロシアが日本を攻める廊下じゃ。それをおさえようと思ってな。

「征韓論」とは言っても、隆盛は朝鮮半島を侵略しようとしていた訳ではない。単身、乗り込んでいって腹を割って話し合い、日本と韓国、さらには清国と手を結んで西洋諸国の侵略から独立を守ろうとしていたのである。[a,b]

 しかし「それをすれば必ず戦争になる、今は内治を優先すべきだ」とする大久保利通らとの論争に敗れて、西郷は鹿児島に帰るつもりだった。そう察した従道は、力なく立ち上がった。その背に向けて隆盛がやや強い調子で言った。「おはんな、東京に残れ」

 これが兄弟の最後の別れとなった。この後、隆盛は鹿児島に戻り、5年後の西南戦争で最期を迎える。隆盛が弟を東京に残したのは、ロシアから日本を守る、という、自分が果たせなかった志を弟に託したのであろう。

■2.「従道、これからも勤めてくれよ」

 明治9(1876)年2月、西郷隆盛を担いで薩摩士族が立ち上がった時、出征した陸軍卿の山県有朋に替わって、従道は陸軍鄕代理として東京を預かることとなった。従道は陸軍省の部下を集めて訓示をした。[1,p314]

 おはんたちの中には、薩摩人もいるが、このさい、動揺してはいけんぞ。もう日本の進路はきまっちょる。

 9月24日、西郷隆盛が城山で自決し、西南戦争が終わった日、従道は陸軍卿代理として戦況を明治天皇に報告した。「ご苦労であった。兄の隆盛は、惜しいことをいたしたのう」と、27歳の若き天皇は信頼していた隆盛の死を悼んだ。

 従道が厚くお礼を言って引き下がろうとすると、「従道、これからも勤めてくれよ」とお言葉をかけられた。朝敵となった兄のことで、従道が引退を考えるようなことのないよう、天皇は釘をさされたのであった。

 従道は、後に伊藤博文から後継総理に推挙され、明治天皇から組閣を命じられたが、「不肖の今日あるは、ひとえに兄隆盛の庇護によるのみでございます。みずから総理大臣になるなどは思いもよらぬところであります」と固辞した。

 微笑しながらこれを聞いていた明治天皇は、静かにうなづかれた。この時は、すでに隆盛は朝敵の汚名を除かれ、正三位に叙せられていたが、それでも表に立つことなく、ただ兄の志を継いで行こうとする従道の気持ちが、天皇にはよく分かるのであった。

■3.「今やロシアは南進政策をとりつつあり」

 ロシアから国を護る、という従道の志は、隆盛の生前から受け継いでいたものであった。下野の前年、明治4年の12月、兵部少輔(しょうゆう、現在の防衛省幹部)となった従道は、陸海軍の軍備を充実させ、国防の完全を期すべきとする建白書を奉呈した。

 その中では、欧米にならった徴兵制、沿海の防衛のための戦艦、海岸砲台の築造、兵器の自給などとともに、次の一節があった。[1,p290]

 今やロシアは南進政策をとりつつあり。廟堂(びょうどう、朝廷)においても世界の大勢を考慮して大計を立てるべきである。

 その後、従道は、文部卿、陸軍卿、農商務卿などいろいろなポストを歴任したが、分からない事には口を出さず、部下に思う存分仕事をさせた。

 文部卿の時は「おいは文盲卿でごわす。予算の分捕りと責任だけはおいが取りもす。後はよろしくおたのみ申す」と言って、黙って書類に判を押していた。「今度の文部卿は大物だぞ。さすがに大西郷の弟だけのことはある」と評判になった。

 明治18(1885)年、第一次伊藤内閣が発足すると、従道は海軍大臣に就任。志であった海軍の増強に取り組んだ。

■4.海軍力増強

 従道の海相としての初仕事は、大軍備拡張計画であった。艦艇54隻、総排水量6万6千3百トンを建造するという日清戦争前の第一期海軍拡張計画である。予算の手当として海軍公債でまかなうこととし、募集を始めると予想以上の人気で、4年分の予算17百万円が一か月ほどで集まった。

 議会で、ある議員が海軍拡張に対して「なぜ、海軍はそれだけの費用がいるのか? いったい軍艦はいかなる働きをしているのか?」と追求した。そんなに予算を投じて、何の役に立つのか、という趣旨の質問であろう。

 騒然たる中で壇上に立った従道は、丁寧にお辞儀をして、「軍艦は鉄でつくってありもす。そして、大砲を撃つのでごわす」と言うと、また丁寧にお辞儀をして壇をおりた。この人を食った答弁に、議会もしーんと静まってしまった。[1,p370]

 明治19(1886)年7月、従道は欧米の海軍視察の旅に出た。特に世界一の海軍国イギリスでは、造船所などの視察のほか、イギリス海軍からの軍艦購入、および、日本海軍の組織、制度、教育を、イギリス海軍式でやりたい旨、申し入れた。

 当時、イギリスはロシアの極東進出を警戒しており、日本がこれを阻止しうる海軍力を持って、イギリスと協力することを望んでいた。従道も、日本海軍がイギリス海軍と同じ組織を持てば、ロシアとの戦いのとき、日英の共同が容易になると考えていた。

 従道の読み通り、16年後の明治35(1902)年日英同盟が発効し、さらにその2年後には日露戦争が始まって、イギリスの協力が大きな後ろ盾になった。その大局観はきわめて正確だった。

 明治22(1889)年には、従道は陸軍大臣・大山巌とともに、国営の製鉄所をつくるべし、という意見を上奏した。艦船、大砲など、近代兵器が鉄でできていることから、まず鉄の国内生産を固めることが、近代兵器の国産化のために重要なステップであった。翌々年、海軍省は、製鉄所予算225万円を帝国議会に提出した。

■5.悍馬(かんば、暴れ馬)を乗りこなす大臣

 従道が2度目の海相を務めたのは、明治26(1893)年3月、第2次伊藤博文内閣においてであった。従道は、一時、下野して、国民協会という在野政党の会頭をしていたが、それが入閣するというので、批判する声もあった。

 国民協会での送別と祝賀の会で挨拶に立った従道は「おいどんが入閣したので、大変驚かれた人も多いようだが、おいどんも大層驚きもした」と言ったので、一同大爆笑。批判する声もなかった。

 大物海軍大臣の復活を待ち構えていたのが、大臣官房主事(軍務課長に相当)であった山本権兵衛(ごんべい)大佐であった。山本は海軍の予算分捕りなどで辣腕をふるっていたので、政府内でも風当たりが強かった。従道は山本に言った。[1,p384]

 おはんに風当たりが強かことは、おいもよう承知しちょる。一大佐の身で難局に当たるのは容易なことではごわはん。今後は外部に対する責任はすべておいが取りもそう。海軍内部のことは全部おはんに任す。誰がまことの忠義か、いずれ事の真相知る人ぞ知る。やがて天空快闊(かいかつ)の気運の開かるる日も来るであろう。

 以降、山本権兵衛の意見は、ほとんど従道によって実施された。山本の兄の子供である山本英輔(海軍大将、連合艦隊司令長官)は、後年、「叔父(権兵衛)も従道候がいなかったら、少佐か中佐でクビだったかもしれない。あんな悍馬(かんば、暴れ馬)を乗りこなす大臣はめったにいないからね」と述懐していた。[1,p388]

■6.初めての近代海戦

 明治27(1894)年7月、朝鮮を自主独立の国として欧米諸国からの侵略を防ごうとする日本と、あくまで朝鮮を自らの属国とする清国との間で、日清戦争が始まった。

 この時点で、清国北洋艦隊は当時、世界最強といわれた8千トン近い戦艦「定遠」「鎮遠」を筆頭に、巡洋艦10隻を擁していた。

 一方、我が連合艦隊の初代旗艦「松島」は4千トン超に過ぎず、それを含めても巡洋艦8隻で、艦数、総トン数ともに、清国よりもはるかに劣勢であった。

 9月17日、黄海で両艦隊が激突し、連合艦隊は高速移動しながら小型の速射砲で大量の砲弾を見舞うという戦術で、清国艦隊を圧倒した。連合艦隊の被害が大破4隻、沈没はゼロなのに対し、清国北洋艦隊は巡洋艦5隻が沈没し、「定遠」「鎮遠」も大破して、残りの艦とともに旅順港に逃げ込んだ。

 こうして日本海軍は初めての近代海戦において、鮮やかな勝利を収めた。制海権を得た日本は、陸軍を増派して旅順要塞を攻略し、北洋艦隊を降伏させた。

 日清戦争の前年までの日本海軍の戦力を見ると、以下の通り、急速に伸張している。

   明治10年 15隻 1万5千トン

   明治20年 23隻 3万8千トン

   明治26年 27隻 5万1千トン

 明治10年を基準にすると、保有トン数で3.4倍となっている。

 日清戦争の直前でも、海軍とは陸軍を護送するのが任務だというような認識がまかり通っていた。議会で「いったい軍艦はいかなる働きをしているのか?」という質問が出たのも、その一端である。

 そんな声を聞き流しながら、従道は地道に限られた国家予算を分捕っては、海軍の増強を進めてきた。またイギリス海軍を範として、人材を育成し、技術の蓄積に努めてきた。日清戦争の勝利には、従道の海相としての陰の働きが大きな貢献をなしていた。

■7.対ロシア戦準備の六六艦隊

 日清戦争の勝利により、遼東半島が日本に割譲されたが、ロシアはドイツ、フランスと語らって、日本に対して清国に返還するよう圧力をかけた。三国干渉である。

 恐露病患者と言われる山県は、この際ロシアと結んで、英独仏の欧州連合軍を破るべきだという意見を持ったが、従道は兄・隆盛の遺志を継いで「次は日露戦争である」という信念を曲げなかった。

 明治28(1895)年3月、軍務局長となった山本権兵衛は、対露決戦用に六六艦隊の構想をまとめた。戦艦6隻、巡洋艦6隻で、ロシアの東洋艦隊と対抗させようという案である。

 これに要する多額の予算に対して、議会で追及を受けたが、従道は「なにしろ軍艦は鉄で作りますので、金がかかりますので、よろしくおねがいします。ご質問があれば、次官に説明させます」と、なまくら問答で議会を通してしまった。

 従道と権兵衛の苦心により、日露戦争直前の明治35(1902)年における海軍の保有トン数では、ロシア19万3千トンに対し、日本は12万9千トンと、3分の2ほどの戦力となった。不足分は、ロシア側に比して射撃速度、命中精度がそれぞれ3倍という練度、下瀬火薬などの先端技術、独創的なT字戦法などでカバーしたのである。[c]

■8.「三人が死んでも『三笠』ができればよか」

 日本海海戦で旗艦として活躍した戦艦「三笠」は、この六六艦隊構想で計画されたものだったが、明治31(1898)年秋の発注段階では、海軍予算は尽きていた。すぐに手付け金を払わねば、発注先の英国のビッカーズ社は契約を解除するという。

 この時点で、海相を引き継いでいた山本権兵衛は困って、内相に横滑りしていた従道に相談した。話を聞いた従道は、「それは一大事」と、同じく薩摩出身の文相・樺山資紀(かばやま・すけのり)を呼んだ。樺山は「いますぐ手付けを送れ。なに、金は別の予算を流用すればよか」と過激なことを言う。従道もこう言った。[1,p417]

 そうじゃ、別途の予算を流用するのは、海軍大臣としては違憲かもしれんが、この建艦は国家の重大事じゃ。もしこれが違憲として、責任を問われたら、われわれ三人が二重橋の前で腹を切ればよか。議会も文句は言うまい。三人が死んでも「三笠」ができればよか。

 こうして「三笠」は日本海海戦に間に合った。こうした従道の陰の働きで、日本海軍は日本海海戦において、英国の著名な戦史家H・W・ウィルソンが「歴史上、未だかつて、このような完全な大勝利を見たことがない」と評する大勝利を得た。[c]

 しかし、その大勝利を見ることなく、従道はその3年前に60歳で没した。縁の下の力持ちとして、「ロシアから日本を守る」という兄・隆盛の遺志を着実に果たした生涯であった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 豊田穣『西郷従道―大西郷兄弟物語』★★、光人社NF文庫、H7

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