JOG(74) 「おおみたから」と「一つ屋根」
神話にこめられた建国の理想を読む。
■1.地名のいわれ■
難波、浪速、浪花・・・大阪市、および、その付近の古称である。作家・日本画家の出雲井晶(いづもい・あき)さんの最近の御著書「教科書の教えない神武天皇」[1]には、これらの地名のいわれが紹介されている。
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播磨灘をこえ明石海峡をすぎると、潮の流れがはげしく速くなってきました。ふたつの大きな河が合流して海にそそいでいます。 その河の流れと海の潮がぶつかり、うかうかすると櫂をとられてしまいます。・・・ 「浪の流れの速いところです。まさに浪速国(なみはやのくに)」・・・ また浪が急なために、浪しぶきが華のように飛び散りましたから、浪華(なみはな)ともいいました。今の大阪難波はこれがなまったものだといわれています。[1,p33]
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今からおよそ二千六百余年前に、日向から大和の地に移って第一代天皇となられたと、古事記や日本書紀に伝えられている神武天皇が、浪速国に上陸する場面である。
■2.ご生誕-宮崎県高原町狭野■
出雲井さんは、この本を書くために、神武天皇(亡くなられた後におくられたお名前で、生前はカムヤマトイワレビコノミコト。以下は、便宜上、神武天皇と呼ぶ)の、日向から大和への道筋をすべてたどられた。この本には、古事記や日本書紀に記された地名や、遺跡、神社などのいわれが数多く紹介されている。そのうちのいくつかを紹介してみよう。
宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)は宮崎市の真西40kmほどにある。神武天皇はこの地でお生まれになったので、ご幼名は狭野命(さののみこと)と申し上げる。
ここにある小高い丘の中ほどに、1mほどの高さの石で囲われた場所がある。土地の人々はここを、神武天皇のお生まれになった地として、この石には牛も馬もつないだりせず、今も弊をたてて、神聖な場所としてしるしている。
神武天皇は、ここから
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東方はまだ国神(くにつかみ)と称する酋長が勢力を争ってさわがしいと聞きます。四方を青い山に囲まれた大和が大八島(=日本)の中心です。天照大神の思し召しである、この国のすべての人々を安らいで、ゆたかにくらせるようにするには、みやこを大和におくのがよいと思います。[1,p10]
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と申されて、出発された。
■3.船出-宮崎県美々津■
神武天皇が船出をされたのは、宮崎市と延岡市の間にある美々津港からであった。
地元の人々は、船出をするご一行のために、あんこ入りだんごを作ろうと準備をしていた。ところが朝2時頃、ちょうど良い風向きとなったので、急遽、出発することとなった。
人々は「起きよ、起きよ」と家々の戸を叩いて回った。だんごもあんを包んでいたのでは間に合わないので、うすにあんも一緒に投げ込んで作った。これが今も、当地に伝わる「搗入(つきれ)だんご」、あるいは「お船出だんご」である。
また、この地では、陰暦8月1日の夜、子どもたちが、竹ざさに短冊をつけたのをもって、家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いてまわる「起きよ祭り」が今も行われている。
神武天皇の船団は、七つばえ島と一つ神島の間を通って出航された。美々津港の漁師達は、ここを「御船出の瀬戸」と呼び、決して通らないようにしている。
■4.大分、福岡、広島、岡山、大阪、和歌山、、■
その後、ご一行は、宇沙(大分県宇佐市)に上陸し、陸上を耶馬渓、福岡県飯塚市を通って、芦屋港あたりから再度、船出をされる。そこから阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を通られて、浪速国にたどり着かれたわけである。そこで、土地の酋長に襲われて苦戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回されて、吉野から、大和に入られた。
この何年にもにおよぶ東遷の間、各地で長期間留まり、土地の人々に農業や漁業、塩作りなどを教えながら、次の行程の準備をされた。この時のいわれが、各地に地名や神社、行事、物産となって残されている。これらの地方に縁のある方は、この本を読まれると面白いだろう。
■5.自らの根っこを探す■
「古事記や日本書紀は、大和朝廷がその支配を正当化するためにでっちあげたものだ」。筆者自身が大学生の時、こんな事を言っていた。これはこれで、理論的にはありうる仮説だ。 たとえば、神武東遷をでっちあげだと言うためには、当時の権力者が、浪速という地名を考え出し、お船出だんごを考案し、「起きよ祭り」を創作し、「御船出の瀬戸」の迷信を地元民に吹き込んだと考えるのも一法であろう。
しかし、こういう大がかりなフィクションを、日向から大和までの津々浦々で行うためには、全国規模の高度な国家統治機構が必要だ。そのような国家がいつ頃、誰によって作られたのか、と問われれば、結局、その国家を建設した初代の天皇がいた、という他はない。話はもとに戻ってしまう。
丹念に神武東遷にまつわる事実を拾い集めた出雲井さんの姿勢に比べれば、何の根拠もなく、「大和朝廷のでっちあげだ」などと得意げに言っていた自分自身のあさはかさに顔が赤らむ思いがする。
古事記には、皇室に都合の悪い記事も書かれているし、日本書紀には、「一書に曰く」と、多くの異説を併記している。古事記や日本書紀をまとめた人々の態度は、遠い過去の自分たちの先祖の足跡を出来る限り、正確に思い出してみようという姿勢だったのかもしれない。出雲井さんの姿勢も同じである。それは、皇后さまのお言葉を借りれば、自らの「根っこ」を見いだそうという姿勢である。[2]
■6.おおみたからの思想■
神武天皇は、たどり着かれた畝傍山の東南の橿原の地に都をつくろうと、みことのりを出される。出雲井さんの本から、美しい現代語訳の一部を引用させていただく。
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このうえは、天照大神のお心にそうように、大和の国のいしずえをしっかりしたものにするように、おたがいにゆたかな心をやしないましょう。人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。
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注目したいのは、このみことのりの原文では、民を「おおみたから」(大御宝)と訓じていることである。民は天照大神から依託された大切な宝物だという思想である。
「おおみたから」の思想は、初代神武天皇から、はるか125代を下った現代の陛下までそのまま受け継がれている。本年、年頭の発表された大御歌を紹介しよう。
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長野パラリンピック冬季競技大会
競技終へしアイススレッジの選手らは笑みさはやかにリンクを巡る
奥尻島の復興状況を聞きて
五年(いつとせ)の昔の禍(まが)を思うとき復興の様しみて嬉しき
集中豪雨の被災者を思ひて
激しかりし集中豪雨を受けし地の人らはいかに冬過ごすらむ
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身体障害に負けずにスポーツに打ち込む青年の姿に見入られ、奥尻島の大地震からの復興を喜ばれ、集中豪雨で家を失った人々の身の上を案ぜられる。国民をかけがえのない「おおみたから」として、一喜一憂される御心の様がそのまま偲ばれる。
■7.一つ屋根の下の大家族■
神武天皇のみことのりのなかに、八紘一宇(あめのしたのすべての人々が一つ屋根の下に住む)という言葉が出てくる。よく日本帝国主義のスローガンであるかのように、紹介される言葉である。
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英国訪問
戦ひの痛みを越えて親しみの心育てし人々を思ふ
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先の英国ご訪問の際の御歌である。この人々の中には、たとえば恵子ホームズさんがいる。恵子さんは日本で捕虜のまま亡くなった英国人捕虜を哀れんで三重県紀和町の人々が作った墓地に、生き残った英国人達を招き、日英の和解に尽力した。[3]
狭くなった地球社会とは、すでに「一つ屋根の下の大家族」だ。皇后さまの言われるように、我々はその中で「平和の架け橋」を作りながら、仲良く生きて行かねばならない。「八紘一宇」とは、そういう理想なのである。[4]
建国記念の日に、「おおみたから」や「八紘一宇」という言葉にこめられた我々の遠い祖先の理想を思い出すのも意味のある事だろう。
[参考]
教科書が教えない神武天皇、出雲井晶、産経新聞ニュース サービス、H11.1、
JOG(69) 平和の架け橋
JOG(37) 恩讐の彼方に
JOG(12) 仁
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