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JOG(600) 二宮金次郎と「積小為大」

二宮金次郎の農村復興事業が、日本人の勤勉な国民性を形成した。


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■1.「学者につきあっている暇はない」」■

 天保10(1839)年6月1日、相馬藩(現在の福島県相馬市)藩士の富田高慶(こうけい、26歳)は、二宮金次郎に弟子入りを頼もうと、やってきた。

 富田は相馬藩の財政難を救いたいという志を持って、江戸に出て儒学を学び、数年にして師の代講ができるほど学業は進んだ。しかし、相馬藩の財政問題を解決できるような実践的な教えには出会えなかった。

 そんな時、金次郎が村々の復興に着々と成果を上げていると聞き及び、「それこそ自分の求めている師に違いない」と身の周りを整理して、金次郎のもとを訪れたのである。

 しかし、金次郎は「儒者や学者に会う必要はない」とにべもなかった。「自分は荒廃した農村を復興し、衰亡していく農家を救うのに忙しいのだ。理屈屋の学者につきあっている暇はない」と会ってもくれなかった。その後、数日おきに4度も訪問したが、面会を許されなかった。それでも富田はあきらめることなく、近くの村に漢学の寺子屋を開き、それで生計を立てながら、面会の機会を待ち続けた。

 待つこと4か月。ついに金次郎もその熱意に打たれて「それでは会ってみようか」と初対面が実現し、その場で入門を許した。金次郎がなかなか面会を許さなかったのは、相手の真剣さを試すためであった。

■2.相馬藩の財政破綻■

 相馬藩はもともと禄高は6万石、226カ村に人口8万人を抱える藩だった。藩は山野の開墾を奨励し、農民たちも豊かにになった。そこで相馬藩は検地をし直して、新たに開墾された3万8千石にも年貢を課した。

 収入が増加したので、藩財政も放漫となった。一方、農民は農地開墾の意欲を失い、ひいては日々の農作業への志気も低下して、収穫は減少していった。藩は不足する収入を借金でまかない、その利子払いのために課税を増やし、ますます農民は窮乏する、という悪循環に陥っていた。

 そこに天明の大飢饉が襲いかかり、領民人口は餓死、離散により半減した。藩の借金も30万両を超えた。そこで藩主・相馬益胤(ますたね)は、草野正辰(まさとき)と池田胤直(たねなお)の二人を家老に抜擢して、藩の復興を命じた。

 二人の家老は藩の経費を大幅に削り、年貢米を引き下げ、また用水路の補修などを通じて、生産の回復に努めた。こうした努力が10年続き、ようやく復興が軌道に乗り始めた頃、今度は天保の大飢饉が襲いかかった。米の出来高は10分の一以下に激減した。

 藩は備蓄米を放出し、また藩外から米を買い集めて、なんとか領民を救ったが、藩財政は振り出しに戻ってしまった。この危機に藩主の座を継いだのが、嫡子・充胤(みちたね)だった。

 充胤は幼少の時から草野の手できびしく教育され、賢明な人物に育っていたが、いかんせん、まだ若く経験がない。一方、草野は70歳、池田も50歳を超え、これから藩を引っ張って行くには年を取りすぎていた。

 26歳の富田高慶が藩の危機を憂えて、金次郎の許を訪れたのは、こうした時だった。

■3.「そもそも相馬藩には分度が確立しておるのか」■

 富田は金次郎の人物に接して、「相馬藩を救うには、二宮先生の力によるほかはない」と確信し、草野、池田の両家老に報告した。二人とも非常に喜び、「ぜひ二宮先生に藩政再建をお願いしよう」と決心した。藩主もすぐに賛成して、郡代の一条七郎左右衛門を金次郎のもとに派遣した。

 富田が一条と会ってくれるよう頼むと、金次郎は「多忙であるから、そのような暇はない」と断った。

藩の基本に関するものは、藩主みずからが行うべきものである。藩主が本当にやる気があるなら、藩主が教えを聞きに来るべきである。しかし、藩主がみずからというわけにはいかないとすれば、藩政の責任者(家老)がやって来るべきではないか。郡代の一条殿では、藩政の責任者だと、わたしは認めない。一条殿はわたしから復興の対策を聞きたいのであろうが、わたしの言いたいのはそのような方法論ではなく、藩政の基本方針である。そもそも相馬藩には分度が確立しておるのか。[1,p384]

「分度」とは、藩の実収入から、返すべき借金の利子などを差し引いて、残った額である。藩の経費を身の丈にあった分度まで切り詰め、借金を返済しながら、剰余金が出れば領内の復興事業に充てる、というのが、金次郎のアプローチであった。ただ藩全体が何年も分度内で切り詰めた生活をするには、非常な覚悟がいる。金次郎は、その覚悟のほどを見極めたかったのである。

 富田が「とても分度を決める段階にまで行っていない」と答えると、金次郎は「分度も決まっていないのに会う必要はない」と突っぱねた。富田がこれを一条に伝えると、「二宮先生のお考えがそのように深いとも知らず、簡単に考えていて恥じ入るばかりです」と、金次郎に会えないまま、国許に報告に帰った。

■4.「小さなものを積み上げて、大きなものにする」■

 翌年、江戸詰め家老の草野が、金次郎を訪ねた。草野が藩内の数千町歩の荒地を開墾するにはどうしたら良いかと聞くと、金次郎はこう答えた。

「小さなものを積み上げて、大きなものにする」、これが金次郎の「積小為大」の思想であった。

 草野は感激し、「これからはその教えにしたがって、相馬藩の復興に生命をかけよう」と固く心に誓った。

 しかし、国許では余所者の金次郎に頼ることへの反対が強かった。「わが相馬家は、代々この地を治めて6百年になり、その間に盛衰はあったが、一度も他から力を借りたことはない」という誇りからだった。

 国許家老の池田胤直が熱心に家臣たちに説いたが、それでも納得しないものが多かった。家中の意見がなかなか一致しないのを見るに見かねた藩主・相馬充胤は「凡人はいつも目の前のことにこだわって、事の本質が見抜けない。いつまでもそんな者の意見にこだわっている必要はない」と断じ、国許家老の池田を江戸に呼び寄せて、「二宮先生の教えにしたがい、草野と力をあわせて相馬藩の復興を推進するように」と強く命じた。

■5.60年に渡る復興計画■

 両家老は一緒に金次郎に会い、改めて「分度」の確立の大切さを理解した。二人の報告を聞いた藩主は、さっそく自筆で依頼書を書き、両家老がそれを金次郎のもとに届けた。金次郎はその書を読んで、「藩主の相馬公がこのように仁の心が厚く、忠臣が多ければ、藩の復興はまちがいない」と嘆賞した。

 草野は分度の確立のために、過去188年間の財政資料を調べ上げた。最初の60年は14万俵の租税収入があったが、それが直近の60年にはその半分以下に落ち込んでいた。

 金次郎はこの調査から、今後10年を復興第一期とし、その間の分度を6万6776俵と定めた。それ以上の租税収入は領内復興の費用にあてて増産を図り、その結果を見て11年目以降の第2期からの分度を見直す。これを繰り返して、60年で藩政復興を計るという雄大な計画だった。

 この計画書を見て、反対してきた家臣たちも、初めて賛意を表した。分度以上の収入は、復興資金として特定の村に注ぎ込む。これを模範村として、10年かけて徐々に増やしていく。

 その模範村として名乗りを上げたのが、宇陀郡の成田村と坪田村だった。この2カ村の代官助役をしていた高野丹吾は、今まで両村の復興に力を尽くしていたが、金次郎の話を伝え聞いて、村民たちに呼びかけた。両村の名主をはじめ村人も大賛成だった。

 高野は両村の戸数、田畑・荒地の面積、村民の貧富の度合いなどを調査し、復興事業嘆願書をまとめて、国許家老の池田に差し出した。池田は喜び、「さっそく高野自身が江戸に行って、二宮先生にお願いするように」と命じた。

 高野は江戸家老・草野に連れられて、金次郎に会った。金次郎は「成田村、坪田村が、そのように率先して誠意を示してきたのは賞賛すべきことである。では、さっそくこの両村から始めよう」と、答えた。そして、金次郎は多忙でとても相馬にはいけないので、富田高慶を代理の指導役として派遣した。

■6.「村民みずからが積極的に動かなければ駄目なんだ」■

 富田と高野は、成田村の村民一同を集めて、復興事業の計画をくわしく説明した。その開始にあたって、まず勤勉な者12人を投票で選び、表彰した。さらに屋根の傷みのひどい家を投票で3軒選び、修繕をした。坪田村でも同じ事をした。

 こうした動きに、両村の村民たちは感激し、今までの怠惰の風は一気に改まった。これまでは正月は半ば頃まで、酒興におぼれ、遊びほうけていたのが、この年は正月2日から縄ないを始め、4日からは山野に入って薪をとり、柴を刈り、農作業を始めていた。

 さらに富田は村人を指揮して、道路、橋、用水路の修復、そして荒地の開墾に着手した。村人たちは希望に満ちて、再建事業に邁進した。

 この復興のための資金は、藩主や両家老、代官たちが拠出し合ったものだった。富田も藩から給与されていた旅費などを節約して貯蓄していた20両を出した。高野も父兄を含め、14両を拠出した。

 2年目以降なら、分度以上の収入を復興費用に充てることができるが、最初の年はこれがないため、自発的な拠出に頼ったのである。金次郎も2百両もの巨額の資金を出した。金次郎が日頃から倹約を説いていたのは、こういう時に使うためであった。

 成田村、坪田村の復興運動が活発に動き出すと、その評判は四方に広まり、他村の人々も「復興事業というものは、上からの指示を待っているだけでは駄目で、村民みずからが積極的に動かなければ駄目なんだ」と悟った。そして、みずから米や金を復興資金として供出して、復興事業の開始を誓願する村が増えてきた。

 金次郎は「大きな事業をするには、急いではならない。数十カ村を一時に行えば、どれも中途半端になり、失敗してしまう」と反対したが、各村の熱心さに負けて、7カ村だけ追加した。

■7.27年間続けられた復興事業■

 第一期は計9カ村で復興事業が進められたが、いずれも10年のうちに、村の荒廃は治まり、負債なども整理されて、饑饉用の備蓄ができるまでに復興した。この9カ村の復興は、他の村々にも良い刺激となり、領内全体でも荒地の開発が進んで、収穫高も増えた。

 そこで金次郎は第2期の分度を6万6776俵から7万俵へと引き上げた。5%ほどのわずかな増額だったが、10年間我慢していた家臣たちの給与も増え、みな金次郎の復興事業に納得した。

 相馬藩第一期の復興計画の成功を、金次郎は次のように評している。

相馬藩の復興事業は、わたしは幕府の仕事が忙しくて、一度も相馬の地に行くことが出来ず、江戸や桜町から指揮するだけであった。それなのに第一期の復興計画が見事に成功し、藩内が一変するほどの成功を治めたのは、君臣、領民が一体となって勤めたからである。今後もこのまま復興計画を実行していけば、やがて藩全体の復興は間違いなく達成されるであろう。 [1,p409]


 相馬藩の復興は、金次郎個人の智慧や力というよりも、金次郎の教えが核となって、藩主、両家老、富田、高野、そして大勢の村民たちの世のため人のために尽くそうという心が一つになって実現したものであった。

 安政3(1856)年、金次郎は70歳にて世を去ったが、復興事業の第2期がそのまま始められた。慶応2(1866)年までの十年に、93カ村が復興された。続いて第3期が始まったが、明治維新によって中断した。

 合計27年間の復興事業で、開墾田畑1379町歩、堤防や堰工事100余箇所、溜池工事692カ所などが行われ、人口も2万1715人増加している。まさに積小為大の効果である。

■8.二宮金次郎と日本人の国民性■

 明治4(1871)年、廃藩置県が行われたが、家老となっていた富田高慶は440余戸の氏族に、荒地を開いた田畑一町歩ずつ支給して帰農させたため、無事に乗り切ることができた。

 富田は、明治10(1978)年に民間団体『興復社』を設立し、開墾事業を続けた。明治12(1980)年には、皇室が二宮金次郎の功を賞して、孫の金之丞に金百円を下賜された。同時に富田を正7位に叙し、また興復社の事業資金として金1万5千円を貸し下げられ、その事業を支援された。興復社により開墾された田畑は千余町歩に上る。

 富田高慶の著した金次郎の伝記『報徳記』は、明治13(1981)年に、明治天皇に献上された。いたく感銘を受けられた天皇は、宮内庁に『報徳記』の勅版を発行させ、全国の知事以上に配布させた。

 晩年の明治天皇は「銅像二宮金次郎」を座右に置いて、愛玩されていたという。薪を背負い、本を読みながら歩く少年の姿だが、薪は勤勉の心を、本は向上心を表している、という。こうした明治天皇の後押しもあって、二宮金次郎の精神は、日本人の国民性を形成していったのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
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b. 


■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 三戸岡道夫『二宮金次郎の一生』★★★、栄光出版社、H14

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「二宮金次郎と『積小為大』」に寄せられたおたより

博夫さんより
 私の恩師(精神分析学者 大槻憲二)は、その著「才能の発見と伸し方」で「彼は一種の超人、否むしろ一種の怪物と云う印象を受ける。経済(物的生産)と文化(精神的生産)をいみじくも一致させた驚くべき天才、大人格、大思想家であり、大実践家である。才能としてはともかく、人格としては古今世界に卓絶すると私は信じている。あの少年立像は、実は肉体労働と精神労働と、つまり心身両面にわたって人間は生産者でなければならぬと云うことの人生観、教育観を象徴していると解釈している。」と述べています。

 これはある子供新聞編集者の「あの立像は、交通事故の多い現代社会に合わない」と云う文章に対して書かれたものです。
大槻先生はこれを評して「とにかく天才的な物の見方の出来ない俗人的思考の一例である。」と結んでいます。

 終戦後、奉安殿と一緒に二宮金次郎像も撤去されたケースが多々あったように聞いていますが、GHQはそのような指令は出していないようです(1946年の1円札に尊徳の肖像)。
以下のような記録があります
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/200901040012/

 インボーデン氏がこういうことを言いました。「ニ宮尊徳のことをマッカーサー司令官に話したところ、日本に来てアメリカ第一流の偉人と肩を並べる大偉人を発見したということは非常にうれしい。あなたはこの偉人の生涯を調査研究せよという命令を受けて、きょう出張したのです。

 日本の有名な人物というと、東条と、荒木と、もっと古いところでは西園寺を考えていた。ニ宮尊徳のような偉人があろうとは思いもかけなかった。日本のよいところを知りたい。ニ宮尊徳のことを知っている人はアメリカにもあまりいない。」

 占領軍に阿って、指令も受けていないのに、二宮金次郎像を撤去するような思想は終戦直後からあったのです。

英明さんより
 いつもメルマガが届くのを楽しみにしております。そして届くやいなや、食い入るように、また時には過去の自分の行動を省みながら、毎回背筋を正して拝読しています。本当に、毎回読むたびに、心が洗われるような気がします。

 私と二宮金次郎との出会いは、私がまだ幼い頃、単身赴任の父が週末ごとに買って来てくれた伝記の中でした。小さい頃から大人に混ざって治水工事に携わり、未熟な自分でも何か皆の役に立てないかということで、みんなのために草鞋を編んだ話や、夜の勉学のために使う行灯の菜種油を自ら栽培したエピソードなど、とかく若い頃の勤勉さについてのみ鮮烈に覚えていました。が、今回のお話を読み、成人してからの金次郎の深い洞察と根源的な優しさに裏付けられた厳しさを伺い知ることができ、非常に感動しました。

 復興のためには君子より庶人に至るまで皆本当の意味での本気にならなければならない。そのためにはまずは主君から本気にならなければならない。それが自発的に起こったものであることを確認できるまで決して手を貸そうとしない。こういった行動は、金次郎の中で確信とも呼べるほどの確固たる信念があったがゆえのものであると感じました。

 こういうお話に出会えることを本当に心待ちにしていました。
できれば創刊号から読んできたかったです。今後少しずつ、バックナンバーを拝読していきたいと思います。私は今年32になりますが、これまでこういったお話を面と向って話し合えるような友人や知人と出会える機会に恵まれませんでした。今度は私から、このメルマガの存在を仲の良い友人に広めていこうと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 過分なお言葉、恐縮です。二宮金次郎の話を面と向かって話せるような社会が望ましいですね。


陽子さんより
 私は恥ずかしながらこの記事を拝見するまでは二宮金次郎という方の事を殆ど知りませんでした。

 私が知っていることを言えば小学校に入学したての頃、校庭の隅に隠れるように置かれていた『二宮金次郎の銅像』を校内を案内してくださった先生が「この少年の名前は二宮金次郎と言って大変貧しい暮らしの中でも仕事をしながら一生懸命勉強をしていた人なんですよ」という言葉それだけでした。

 同時の私は「ふ~ん」となんの感想を抱くことなくそのまま二宮金次郎と言えば薪を背負いながら本を読んでいて、学校の七不思議の逸話の中に出てくる不気味な少年という印象のまま育ってしまいました。

 けれども今回 「二宮金次郎と『積小為大』」を拝読してこんな偉大な人を知らずに居たという事を恥ずかしく思うと共に、ゆとり教育と揶揄される現在の堕落且つ腐敗しきった教育よりも幾分かましだと自負していた自分の教育時代においてさえ学校教員が生徒に語る言葉が上記のみというその事実に愕然としました。

 こんなに素晴らしい話を何故あの時にしてくれなかったのかと、もし正しく二宮金次郎について語り、子供達に伝える事の出来る教師が当たり前のように当時居たなら少しばかりはもっと愛国心豊かな子供が育ち、真剣に我が国というものに対して考えを持つ大人が育ったのではないかと、理想論的であり希望論ではありますがそう思わずには居られません。

 恐らく私と同世代の人間は二宮金次郎や他の偉大な先人達について知らない事が多いだろうと思います。それは単に教育のせいだけとも限りませんが、しかしそれぞれ個々の人間の育成の過程でその道標となる偉人達の様々な思想を、理解出来る、出来ないの問題ではなく教え語るというのは非常に重要なのではないかと思いました。

 近頃は祖父祖母と共に暮らす家庭も減り、昔語りをしてくれる存在がないという時代だからこそ教育の場で先達の教えを広めていって欲しいと願います。
 またこうしてJOG様のお陰で知ることの出来た事実を自分なりに補完をし、まずは姪達にも伝えていこうと思いました。


■ 編集長・伊勢雅臣より

 教師が生徒に、自分の尊敬する人物について語ることが、歴史教育の原点でしょう。


「なな」さんより
 いつも、本当に感心して読んでおります。時々、難しいこともありますが、それでも、心の底の方から湧き上がってくる心地よい感情は、爽快感と言いますか、達成感と言いますが…、うまい言葉が見つからないのですが、自分は間違っていないんだ!がんばろう!というような気持ちになります。

 どの記事も毎回心を打たれるのですが、最近では、二宮金次郎さんの記事が印象に残っています。生まれたところが神奈川県で、すぐ近くに金次郎さんの生家があったし、どこにでも薪を背負って本を読んでいる金次郎さんが立っていたので(笑)何となく慣れ親しんでいたのですが、以前、感想にもあったように、あの貧しいけど勉強好きなだけだと思っていた金次郎さんが、そんなにもすごい方だったとは全然知らなかったので、とてもとても驚いたとともに、そんな金次郎さんに小さい頃から慣れ親しんでいたことに、ちょっぴり誇りも感じました。何で小学校などで教えてくれなかったんだろう!と思います。もったいないことです。

 これからも、楽しみに読ませていただきます!

■ 編集長・伊勢雅臣より
 声援、ありがとうございます。身近な郷里の偉人のことを調べる事は、歴史に学び、自分の生き方を考える上で、大変良いアプローチだと思います。




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