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JOG(1382) 江戸と武蔵野の水不足を救った玉川上水

 水騒動まで起こっていた江戸と、水のない荒れ地の武蔵野を救うために43キロもの上水道が開削された。


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■1.玉川上水を何としても成功させようとする幕府の覚悟

 関東郡代・伊奈忠治(いな・ただはる)は鍬(くわ)を三度、砂山に振り下ろすと、鍬を置いて、参列者に顔を向けました。
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本日、四月四日をもって徳川四代将軍家綱公の御名のもと、ここ羽村から玉川上水の普請をはじめる。[西野下、p54]
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 時に1653年。4代将軍・家綱がわずか12歳で父・家光の将軍職を継いだ翌々年。将軍を玉川上水の施主(責任者)に担ぎ出したことから、江戸への上水供給が当時、どれほどの重大案件であったかも窺い知れます。

 その推進者は、将軍の名代として上水総奉行に就いた老中・松平伊豆守信綱。長く三代将軍を輔佐して「知恵伊豆」と賛称されていました。当時は日光東照宮の造営や寛永の大飢饉対応で幕府の台所が火の車になっていましたが、知恵伊豆は新将軍のお声掛かりとして他の老中たちの反対を押し切り、工事を始めたのです。

 その下に、上水奉行として就いたのが伊奈忠治。関東6カ国、100万石を超える幕府直轄領の責任者ですから、石高では最大の大名、加賀前田家百万石に匹敵する重鎮です。59歳の高齢ながら、長年の統治は領民たちにすこぶる評判が良く、かつ領地の隅々まで精通していました。江戸の水源を求めるには玉川しかないと判断し、自ら現地を踏破して上水のルートを決めました。

 将軍-知恵伊豆-忠治という盤石の布陣にも、玉川上水を何としても成功させようとする幕府の覚悟が見てとれます。

■2.江戸の急成長と水不足

 忠治が席に着くと、工事を担当する近江屋庄右衛門(しょうえもん)が、近隣の集落の名主たちに玉川上水の目的と概略を説明しました。近隣各村の理解と協力なしには、この大工事の成功も覚束ないからです。
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 今から二十年ほど前、江戸に住まっていた人々の数は三十万人ほどでした。その三十余万人の飲み水は神田上水と溜め池上水と呼んでいる二つの上水に頼っておりました。今、江戸に住まう者は七十万ほどにもふくれあがりました。

 ところが飲み水の供給は依然として神田上水、溜め池上水の二つのまま。それでは七十余万の喉を潤すことは能(かな)いませぬ。いま、御府内では水騒動も起きております。これを憂えた新将軍徳川家綱公は、新たな上水を江戸に引くことをお決めになりました。それが此度(このたび)の玉川上水です。[西野下、56]
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 わずか20年ほどで、江戸の人口が30万人ほどから70万人に
膨れ上がったのは、3代将軍家光の時に始まった参勤交代のためでした。各大名が1年おきに江戸に滞在しなければならず、その家来、奉公人、出入り商人たちと、人口が雪だるま的に増えたのでした。

 神田上水は井の頭池の湧き水から、溜め池上水も虎ノ門のあたりの窪地からの湧き水を水源としており、これ以上の水量拡大は望めません。また江戸には多くの井戸が掘られていましたが、多くは海の浅瀬を埋め立てた地にあり、塩水が混じって、飲用には適しませんでした。洗濯や風呂ではその塩水を使っていました。

 そこで、奥多摩から現在の東京と神奈川の境に沿って流れる多摩川の中流から取水して、四谷大木戸(江戸市中への入り口、現在の新宿区四谷あたり)まで約43キロもの上水道を作ることとしたのです。

■3.「武蔵野に住むわたしどもも水は喉から手が出るほど欲しい」

 聞いていた名主の一人が、こう発言しました。
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 御府内が飲み水に困窮しているのはわかる。同じように武蔵野に住むわたしどもも水は喉から手が出るほど欲しい。ご存じのように武蔵野は茅ススキなどに覆われた荒れ野。川もなければ湧水もほんどない。玉川上水が引けた暁にはその一部の河水を荒れ野に引いて開墾すれば武蔵野は豊かな田畑の地に生まれ変わる。[西野下、61]
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 他の名主たちからも次々と同様の懇請が出され、忠治はこう答えました。
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 分水のことはいずれ折をみて、御老中に願い出ることにする。この玉川上水普請の総奉行は老中松平伊豆守信綱さま。知恵伊豆と呼ばれる信綱さまなれば、必ずや皆が得心するように取りはからってくださるであろう。しかしながらそれは今ではない。今はまず玉川上水の普請に名主らが心を一にして与力する、そのことに心がけてくれ。[西野下、67]
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 実は、知恵伊豆と忠治の上水計画は秘かに武蔵野への分水を織り込んでいました。そのために、上水のルートは、武蔵野の背骨のような高い尾根筋を通し、そこから武蔵野のどこにでも水を配れるように配慮されていたのでした。しかし、幕府の台所を預かる勘定方の反対を抑えるためにも、余計な費用のかかる分水案は内密にされていたのでした。このあたりが「知恵伊豆」の本領でしょう。

■4.小さな業者・近江屋が選ばれた経緯

 工事を請け負ったのは近江屋庄右衛門・清右衛門(せいえもん)兄弟。その先代・一右衛門(かずえもん)は神田上水、近江八幡の上水、桑名御用水など、幕府直轄の上水普請を手がけてきました。近江八幡の上水普請の功により、近江屋の屋号を許されました。

 近江屋はその功と技術が買われて、他のはるかに大きい4つの土木業者の組とともに、競争入札に加えられたのでした。

 その見積もりをするために渡された上水普請素案書を見て、庄右衛門は驚きました。20枚もの絵図に土工量、使用材料、人足数など細々とした数値がびっしり書き込まれています。この素案書を見ていると、これを作成した者の玉川上水にかける並々ならぬ思いが伝わってきて、庄右衛門も見積もりに真剣に打ち込みました。

 この素案書を作ったのは、安松金右衛門という知恵伊豆の家来でした。金右衛門は東大寺の絵図師の許で土地の高低、広さ、方向、長さ等を計測し、正しく算出する方法を一年近く学んでいました。当時はまだ珍しかったソロバンの名手でもありました。その腕を買われて、金右衛門は知恵伊豆が藩主を務める川越藩(現在の埼玉県川越市)に召し抱えられたのでした。

 金右衛門は忠治と一緒に、玉川上水のルート設定のために、武蔵野を歩き回り、現地の農民たちがいかに水を欲しているか、水さえあれば、この武蔵野の荒れ地が豊かな田畑になることを痛いほどに感じて、精魂込めて上水普請素案書を作成したのでした。

 そして、金右衛門の思いを受けた清右衛門の精密な積算で近江屋の見積もりは他の4業者が様々なコストアップのリスクを含めて7千両以上だったのに対し、6千両(現在価値で40~60億円)という破格の金額でした。忠治は近江屋を選び、ただし、幕府の財政難から、どんな難事が出来してもそれ以上はびた一文払わないと申し渡しました。

 小さな業者である近江屋にとっては大きな賭でしたが、忠治は自分が上水奉行として様々な難題から近江屋を守り、工事を成功させようと決心していたのでした。

■5.初日から起こった人足たちの不満

 鍬入れ式の11日後、4月15日に上水掘りの工事が始まりました。長さ30間(54メートル)毎に工区を分け、それを近江屋の組員2名、堀り方人足39名、土運搬方人足21名の合計62名編成で、3日で掘ります。上水掘りの総延長は約43キロですので、全体では約800工区。これを7組で同時に掘り進めます。

 さらに取水口の堤などを作る者、雑用を担う女性や子供、老人を合わせると、総勢1100人ほどにもなります。多くの人足は近隣の村から集められました。彼らは上水を完成すれば、やがて自分たちの田畑にも分水してくれるだろうと期待していました。

 これだけの人数を現場で監督するのが、弟の清右衛門の役割でした。清右衛門は時には自分でツルハシも持ち、モッコを担ぐ一本気な性格で、人足たちにも好かれていました。

 その清右衛門に様々な難題が降りかかります。初日から起こったのが、食事への不満でした。近隣の農村からきた人足たちは家から通いますが、遠方からの作業者200人ほどは、急ごしらえの人足小屋に泊まります。そこで飯を出しますが、「一粒の米も入っていない飯など、食えたもんじゃねえ」との不満でした。

 このあたりでは水がないために米がとれず、近隣の百姓たちは麦、稗(ひえ)、粟(あわ)などの雑穀に、大根などを入れた雑炊を食べていました。それも一日2食です。江戸から来た人足たちは米を主体にした雑穀米を3食食べており、米一粒も入っていない飯に不満が爆発したのです。

 清右衛門は江戸から、庄右衛門の妻・お葉に来て貰い、まかないを頼みました。お葉は自分で面接して女30人を選び、江戸から米30俵を取り寄せ、かつ近隣の安い野菜、根菜類をたっぷり使い、得意の料理の腕を振るって飯を格段に美味くしました。人足たちの不満はピタリと止み、作業に力が入るようになりました。

■6.大石に「水食らい土(ど)」、難題次々

 技術面での難題も起きました。上水掘りの工事が4キロほど進んだ時のことです。突然、縦横高さ数メートルの大石が出てきました。これをなんとか始末しなければ、水が流れません。

 石工を10人ほど江戸から呼び寄せて大石を砕かせる案を考えましたが、費用が膨らみ、納期が遅れます。そこに現れたのが、金右衛門でした。金右衛門は掘り進めた溝の勾配をつけるための測定法を清右衛門に指導していたのでした。これも上水奉行・伊奈忠治が、上水総奉行の知恵伊豆に頼み込んだ配慮でした。

 金右衛門は昔、京都で運河・高瀬川を作った時の逸話を思い出したのです。それは、大石がすっぽり入る大きな穴をすぐ前に堀り、そこに傾斜を作って転がして入れてしまう、というアイデアでした。5人の人足が大穴を堀り、大石は見事に転がって、穴の中に入りました。息を凝らして見ていた人足たちは手を叩き、足を踏みならして喜びました。

 もう一つの難題は、10キロほど掘り進んだ時に持ち上がりました。それまで掘った水路に水を流して傾斜を確認する試験をしましたが、あるところで、水が堀底に吸い込まれるように消えていくのです。土地の古老の話では「水食らい土」と言って、「地獄に通ずる途方もねぇ水道」とのことでした。

 結局、この地帯を避けて、550メートルほど水路を迂回させて、堀直すことにしました。この頃には、すでにいろいろな追加の経費がかかり、近江屋は大損しそうなことが分かっていました。しかし、庄右衛門、清右衛門以下、近江屋の一同は「この普請、近江屋が請け負ったからにゃ、最後までやり通す」という意地で頑張っていました。

■7.竣工

 11月4日、工事開始から8ヶ月後、四谷大木戸までの開削が完了し、通水試(だめし)が行われました。上水掘りの長さ約43キロに対して、高低差は92.3メートル。100メートルあたりでは、わずか21センチです。金右衛門から勾配の測定方法を学んだ清右衛門がすべての傾斜を設定しました。それが上首尾で、水は淀むことなく、下流へ下流へと流れていきます。

 しかし、数キロ行ったところで、水量が急激に減少しました。水食らい土があちこちにあるのか、との不安が皆の頭をよぎりました。そこに、庄右衛門に呼び出された金右衛門が現れました。

 金右衛門は「心配しなくとも良い」と言います。上水路は武蔵野の尾根筋を通しています。そこに降った雨は低地に流れてしまうので、堀底の土が乾燥しきっています。だから、上水に水を流し続けて堀底が十分水を吸えば、その後は通常の土のように、水を流すようになる、というのです。

 金右衛門の言う通り、河水は少しずつ下流に到達していき、11月15日には、四谷大木戸に到達し、その後も水量は徐々に増えていきました。11月20日、上水道の竣工検査を終え、翌日、上水奉行の知恵伊豆に、玉川上水が無事に竣工したことが報告されました。兄弟は近江屋の暖簾(のれん)を守れて、ほっとしました。大赤字は別にして。

現在の玉川上水

■8.西洋よりも健康的な住環境を実現した幕府の政策

 四谷大木戸からは、地下に埋設した木製の樋(とい)で水を流し、所々で井戸から汲み上げるようにします。その本線は翌年の6月20日に完成しましたが、そこから各地に水を送る枝樋の埋設工事は、その後、何十年も続けられました。江戸の人口が百万人を突破し、世界最大の都市となったのは、この玉川上水のお陰です。

 同時に、竣工の翌年からは、武蔵野の村々が熱望していた玉川上水からの分水が始められました。江戸期後半には30に及ぶ分水で10数か村に給水され、それまで水のない荒れ地だった武蔵野が豊かな田畑に生まれ変わりました。

 庄右衛門、清右衛門の兄弟は、玉川上水竣工の功績により、幕府から名字帯刀を許され、玉川姓を与えられました。同時に3百両を下賜されましたが、これは工事の赤字で家屋敷まで売り払ったという兄弟への配慮でしょう。また兄弟は玉川上水の水役を命じられ、役高200石を受けました。

 アメリカの日本史学者スーザン・ハンレー(ワシントン大学名誉教授)は、著書『江戸時代の遺産』でこう述べています。
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 一七世紀中頃から一九世紀中頃にかけて、首都の公衆衛生は、給水の量についても、ゴミ処理についても、日本のほうが西洋よりも上であって、その結果人口規模や死亡率からしても、都市の住民にとってさらに健康的な住環境になっていたことはまず間違いない。・・・行政当局が都市での公衆衛生の水準を設定し、維持するのに大きな役割を果たしたのであった。[ハンレー、p117]
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 行政当局、すなわち江戸幕府が公衆衛生で大きな役割を果たした、その中心的な施策が玉川上水の建設でした。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

・JOG(821) ご先祖様の国土造り
 我が先人たちはより安全で豊かな国土を子孫に残そうと代々、努力を積み重ねてきた。
https://note.com/jog_jp/n/n773bfa9f619e

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・ハンレー、スーザン『江戸時代の遺産』★★、中公叢書、H21
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・西野喬『玉川上水傳 前編』★★★、郁朋社、R05
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・同『後編』
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